マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

あらためて

 今の今までだれも交差させなかった分野を混じり合わせることで、正しいとは言い切れないが、今までにない可能性を切り開くような人文学を欲している。

 

 このブログで追究してきた、「文化の類型が広がる背景にはある種のグローバリズムが介在している」というテーマは、これまでいくつかの可能性を提示してきた。天文学の情報のある程度の共有、鍛冶や採鉱、アマルガムなどの冶金文化の信仰文化への流入、インド洋やシルクロードの交易と説話の関係などは、多くの先人の事績を追いながら、モザイク状に推論されるものである。

 

 従来の人文学観の「農耕社会」偏重は、古典教養の農耕民重視のヒエラルキー、方向づけに従って、産業革命啓蒙主義革命による資本主義や民主主義、植民地主義という「国民政治・経済」形成にともなって、そのカウンターカルチャーのごとく成立したものである。

 それらを主導してきた裕福な商工業者のなかで、文献による記録を校訂し、出版し、読書するということが「教育」によって当たり前になると、それまで文字化されなかったかつての職人や商人たちの慣習はステレオタイプ化され、「起源」「精神」「神秘」「美」などという美辞麗句のもと、文字記録のなかの「古典教養」とはことなる「民俗」として、それらが本来持っていたネットワークとは切り離されたものとなってしまった。

 「古典教養」と「民俗」「大衆文化」のあやふやなつながりは、産業革命以前の人間の商工業と農業のかかわりを、上の美辞麗句もさることながら、民族や国家という「現在」を参照し、強引に関係づけることにあった。古代、有史以前、超古代といった先取性が強調されるいっぽうで、中世や近世といった、古典のイメージをときに歪曲しながらもそれらの言語文化を守り伝えてきた時代の存在を無視し、植民地や周縁の地域を「原始」と一括りにし、現実のイデオロギーヒエラルキーを持ち込むこととなった。科学文明や民主主義を主とする近代人とは相いれない「迷信」をもつ、権威主義的な古典教養、そして無学無文字の農民や野蛮人の民俗をアーカイブ化し、人類の根源を「まなぶ」ことが近代人への順化、教育に利用された。

 

 その結果、人文学は細切れに分断され、自国自民族しか見えていない、あるいはつられて他者も虚像化、理想化してしまうような言説が横行することとなる。帝国主義の亡霊は、そのまま先進国の幻影として、地に足のつかない政策や政治主張へと知識人を引きずりこんでいく。ここ数年、数十年の精神的な思潮で物事を覆すとしても、それは大海原にさざ波をゆらめかすような皮相にすぎない。

 ここで取り扱うような神秘主義や冶金文化、言語、墳墓や都城の土木事業にかんする偏見も、古代人が漠然と抱いていた畏れと、ジャーナリズム的批判はそれほどことなるものではない。その時々の知識人が、その時々の論理や権威に追従して、卑賤視したり迎合したりするだけなのである。

 

 背後に隠然と存する通時性、広域性は、まさにその論理や権威によって閑却されるものなのである。いま、「ミトラス教とはローマのノマド的な商工業者、軍人に信奉された芸能的な儀礼であり、遠く日本の舞楽面にも信徒の序列が引用されているように、猿楽・狂言にも間接的に影響を及ぼしているのではないか」とか、「たたらの送風や足踏みが舞踊や音曲の文化と密接に結びついており、神ののこした足跡や、雨乞いのための反閇などの呪術芸能は、かつて自然の雨風で炉を動かしていたことと関わっている」などの仮説を考えている。おそらく部分部分では唱えている先人もおられるだろうが、当時の社会観、偏見によって構成できなかっただろう。

 

 現代の消費社会によるイメージの粗製濫造、枯渇――マンガやアニメによる引用は、取っ掛かりとしてはよろしいが、研究としては深刻な停滞を引き起こすだろう。いっぽうでこうした統合をめざし、たかだか数百年でスタミナ切れを引き起こしている近現代の社会構造、地域性を、かつて迷信として放棄した中世以前の広域性、通時性への知見によって見直すことで、自己と他者の対等な関係によるグローバル社会の維持へとつなげることを企図している。

次代のフォークロアのために

 人と人が接し、何らかの表象や指示――いわゆるコミュニケーションが行われるとき、それらが明確に伝わり、実行されるかどうかは不確実である。そのため、コミュニケーションをより「均質的」に、誰でも同じように享受できる手続きないしシステムが整っていることが、音声や身振り、文字の体系を「言語文化」たらしめる要点であるといえる。

 

 こうして課された条件は、すでに万全に伝わるべく整備された、近現代の国語や科学観に慣れ親しんだ人間にとって、無意識に受け入れられ日常的に見過ごされているものである。サルや動物に言語が存在すると主張したり、有史以前の文字や文化を発見したという研究者には、それらが真に伝わるような「言語文化」を研究対象がひとりでに維持してきたのかという考察をうやむやにしている。考古学や動物行動学は、実験観察や発掘という行為を通じ「人間社会」を中心に据え、そのコミュニケーションの体系を絶対のものと信奉することで、動物や有史以前という「他者的存在」の言語を類推的に判じている。

 

 人文学とてこうした「言語文化」をはっきりと認識しているとはいいがたい。古代の言語を、また外国語を教養として学ぶときも、そうした「他者」の民俗まで踏み込んで、コミュニケーションがいかに維持されているのかを考えながら学ぶ人間は少ない。たいてい珍奇な迷信、風習として表象される。金がらみのスキャンダルに事欠かない、占いや魔よけや秘密結社という迷信も、宗教や信仰という言葉でさえも毛嫌いする人間も多い。恐ろしいことに、自国の儀礼であっても、近年は政治的中立・多様性とか虚礼の廃止とかいう理由で簡素化され、きわめて無頓着になりつつある。エアコン、ファストフード店、高速道路、大型ショッピングモール――年がら年中同じ生活様式を保つことが容易になり、季節感や土地柄などその場その場に適した習慣は時代遅れのものとして排除されていった。かろうじて残っている節分や節句イースターなどの行事は、今や消費社会のいち「トレンド」「風物詩」として生き永らえているにすぎない。

 

 しかしこれらは元より、他者とのコミュニケーションが円滑に行われることを企図した、言語に深く結びついた文化であるはずである。こうした慣行を排することで、かえって必要な情報が必要な人のもとに行き渡らなくなったり、何を実行するにもより金や資源を浪費する冗長性にわれわれは直面している。こうした鈍重鈍感な社会を「経済的な成長」「文明の進歩」と呼ぶのはたやすい。人間の相互理解の限界が生んだ、戦災からの復興成長を考え直すきっかけを、自然の猛威への震災、そしてコロナ禍を経験してもなお、十分に活かしているとはいいがたい。

 

 活字によって、言語文化はその通用していた環境から隔離され、人間の想像力や権威主義が生み出した「精神」「虚構」と位置付けられた。神秘主義者やオカルティスト、ロマン文学者はては幼児の娯楽にしか過ぎず、新奇な科学に駆逐され、大衆文化によって刻まれたステレオタイプはいずれ忘却される運命にある。ささやかな抵抗として、好事家たちは消費社会のセンセーショナルな事件や流行するフォークロアの中に、その残滓を見出そうとした。

 

 反体制の義賊、トリックスターピカレスク、カウンター・カルチャー――ありとあらゆる英雄が生み出され、幻滅し、それ以上の追究が行われることがなかった。現前する事象に神話を投影し、古代からの連続する「精神」を演出することで、からくも人間は人間らしくいられるのだ。大衆文化、とりわけサブカルチャーそうしたコピーのコピーを崇拝し、収集癖やフェティシズムに囚われることが、高尚な教養であると捉えられている。全体像、およびそれらを貫徹する原理の発見というのは重要視されていないようだ。

 

 人と人が接する場は、とりもなおさず「劇的」である。産業革命以前の商工業は、その遊牧(ノマド)性のため、つねに暴力や卑賤視と隣り合わせであった。採掘、河の汚染、土木工事などで自然に干渉し、災害や兵乱をしばし引き起こす生活様式が、人びとの畏怖をもたらすこともその要因である。しかしながら、秘儀や遍歴、巡礼などの通過儀礼、そして一年の行事を執り行うことが、属する共同体の生を体現し、起源を象徴するものであった。先述の反体制の英雄観は、古代の信仰、そして通俗化した語りという芸能の見せる幻影であったのだ。一神教であっても多神教であっても、農耕社会と商工業が一体をなす過程、コンプレックスが神話化の根源にあることは共通している。問題であることは、古今東西の神話の比較において、しばしば人類学が時代や地域、生業のつながりを断ち切り、押し花のように押しつぶした成果を「人類の普遍的な特性」のように観察していることである。それは現代の政治経済情勢、ひいては近代の植民地帝国のもたらした秩序の黙認にすぎない。

 

 いくら距離がはなれようとも、仕事がAIに代替されようとも、人と人のあいだにはフォークロアが成立しうる。記号どうし、物語間を比較した信憑性や確証をしるしづけるプロセスを認識し、透徹した言語文化観をもって考察することが、万人に対等なグローバリズムに資するものであることを信じている。

日本語の「語源」

 「邪馬台国がどこにあったか」と同じくらい堂々巡りを続けているのが、「日本語はどこから来たのか」という問題である。考古学的成果やDNA解析などと重ね合わされ、有史以前以後の人類の移動と言語を推測する研究も見られるが、確答は得られていないようである。その時々の政治やナショナリズムに左右されることもさることながら、「謎」や「真実」という扇情的な文字が躍らなければ、論争も世間の関心も呼び込むことのできない「無風状態」かつ「閉鎖的」なジャンルであることも一因であろう。

 

 そもそも言語というのは異個体、異集団間の交渉に益するように、たえず混淆し、意味を変えていくものである。この言語観は、文字化され、純化運動がおこり、集団ごとに特殊化された辞書や正書法が編纂される、これまで言語が歩んできた排他的・選民的な歴史とは真っ向から対立する。人びとは言語を自らのアイデンティティと錯覚することで、国語と外国語のような線引きを勝手に始め、そこにみられる現象をヒエラルキー化し、占有しようとしてきた。

 

 しかしながら、その占有のために「かたられてきた」ことを、言語の歴史として認めることができても、「本質」として認められることはできない。ましてや国境の引かれた地図や「縄文・弥生」などという時代区分、そして考古学的な遺物や遺伝子の型と「言語」を即対応させることは、(それがいかに科学的に立証されていたとしても、そこに粗野な占有意識が認められるかぎり)ナンセンスというほかない。

 

 文献学や考古学では、「現存する」ものから整合性の高い結論を導き出さなければならないし、一研究者の興味関心の領域いかんで、それはいかようにも荒唐無稽なものになりうる。それでも、定説化されてしまえば異議すらはさめなくなってしまう。世間の耳目を集めるような論争に明け暮れて、地道に他領域とのミッシング・リンクを埋める体系化の作業がおろそかになってしまった最たる例が言語研究である。それはやはり、一民族の民族語として、「日本語」がいつ形成されたのかというプロット、言ってしまえば「虚構」が、長い間更新されないことにある。

 

 インド・ヨーロッパ語族アフロ・アジア語族とて、語義・語源のわからない語や借用語に満ち満ちている。それはことばの話されていた「場」、職能集団がどのような領域と交渉をもっていたかまで追跡がなされぬまま、「語族」へと統合されてしまったことを意味する。しかもダブレットのように二重に流入したり、民間語源のようなまったく関係のない単語間のシンクレティズムが図られるなど、「重ね掛け(Dubbing)」がしばしばみられるのだ。通商関係でたどることのできる交易路、信仰で参照される歴史なしでは、言語間交渉の重層性を読み解くことはきわめて困難である。

 

 日本語も、有史以来けっして閉鎖的ではなく、陸路・海路に応じ、また信仰や通商の関係からさまざまな「語群」が流入したクレオールであるといえる。基層は南島漁猟民と北方遊牧民の交易のために存したのだろう。そうした傾向を同じくする朝鮮語は言うに及ばず、開音節化した漢語(馬・梅など)、仏教・天文学に伴う梵語やペルシア語(タミル語もこの次元で流入してもおかしくはない)、そしてスペイン語ポルトガル語、英語やフランス語等々時代に即してさまざまな知識とともに混淆が行われた。

 

 それは日本語がきわめて特殊で選ばれているからではなく、英語やフランス語とて同じような傾向を有しているのであるし、ことなる地域の人間を束ねるリンガ・フランカとしての漢字文化にも必要な視点であろう。ヘレニズムという時代やシルクロードという環境における(たとえば冶金文化のような)技術の往来は、そうしたミッシング・リンク、モザイク的構造の理解を助けるものになるに違いない。

眼のシンボル、邪視と癒しと冶金文化

 「産業革命、啓蒙革命によって失われたもの」というと、精神的な荒廃、そして公害や環境破壊というペシミスティックな側面が強調されがちである。これらを克服するために、例えば柳田国男は民俗的な伝承を守り伝えようと努力したし、南方熊楠は鎮守の森の保護運動を進めたし、鈴木大拙は禅や浄土思想など神秘主義の弁護をすすめた。西欧でも同様なロマンティシズムに衝き動かされた人文運動はよく見られる。

 

 しかしながら、こうした保護活動と同時進行で、説話と民俗、産業以前の生業が維持してきた緊密なネットワークが、細分化された学術研究によって断ち切られ、あるいはほとんど全容がつかめないようになってしまった。記憶として消えかかり、散逸しつつあった文化を文字に遺すという莫大な業績はまことに敬服すべきものではあるが、残した宿痾は根深いものがある。

 

 「冶金文化」といまのところ総称している、鍛冶や鉱山師などがかつて有していた鉄、銅の鍛造や鋳造をはじめ、水銀による鍍金や炉にかかわる送風などの知識(たたらや自然の風)、天文観察や土木工事、治水などを含めた技術の総体は、それを伝達、伝承するための語り物などの祭祀芸能と不可分であった。規模そして実情のあいまいな「農耕民俗」としてひとくくりにされ、「かたられる」起源をそのまま歴史に当てはめてしまったところに歪みが生じている。

 

 おぼろげな神話の類型とともに、安楽椅子の上で組み立てられた「農耕民俗」の理論は、「精神」という、きわめて不可解な根源を見い出すだろう。古典教養の指し示す、「素朴で無知な」農民たち、牧人たちへの書生じみた憧憬が、経済や政治にまでまとわりつき、いったい何人の人間を殺してきただろうか?抹殺してきたのは人間ばかりでなく、神話や習俗についての解釈もまたそうである。文化の根底に横たわるグローバリズム共時性が、国境や学問の領野によって分断されてきた時代であったといえるだろう。

 

 さて、本題の「目」についての習俗であるが、日本では鍛冶にまつわる神は一つ目だったり、目を傷つけてしまったといわれている。ギリシア神話の鍛冶の巨人キュクロプスとの共通性はしばし指摘されるところであるが、古代ギリシアと日本という時も場所も遠く隔てたミッシング・リンクを埋めないと、不誠実であると言わねばなるまい。

 

 窪田蔵郎はシルクロードの産鉄技術を探査した。藤野明の「銅の文化史」という著作でも、一帯のブロンズにまつわる技術の変遷が詳説されている。この広域に共通する文化を洗い出せば、鍛冶とともに伝わった伝承の見当をつけることができると思う。

 

 ギリシア小アジア、ペルシアにかけて、盲目に対する癒しについての信仰だったり、逆に邪眼への恐れが点在する。ゴルゴンは目を合わせたものを石化させる。詩人ホメロスは盲目と言い伝えられてきた。壁画に描かれた悪魔の眼は意図的に削り取られる。眉が白く「四つ目」に見える犬が死の象徴とされる。さらに古代中国では巫女の「視力」を際立たせるために入れ墨を施したことが、漢字の字源からも明らかである。

 

 鍛冶と一つ目、あるいは盲目のかかわりについて、炉を見つめ続けて視力が悪化した鍛冶たちを、神の表象に投影したという単純な理由付けだけでは説明が難しいのではないかと思う。炉を運用するにも、自然の風を利用するにも、季節や天候の見極めが肝心となる。天文観察は不可欠なものであっただろう。視力が弱まり星が見えなくなることは鍛冶の頭目にとって死活問題であったと考えられるし、星自体が「目」とシンボライズされたとも推測されよう。兵器が生産される季節に瞬く星々は紛れもなく「不吉」である。

 

 中世教会の装飾におけるユダヤ教の擬人化、「シナゴーガ」も盲目、あるいは目隠しをされていた。これには聖書の典拠があるとされるが、もしかしたらキリスト教社会でユダヤ人が鍛冶を担っていたことにも由来するのかもしれない。聖書内のイエスの癒しにかぎらず、巡礼におけるさまざまな奇蹟にも、盲目が癒される効験があらわれている。私はこれについて、中世の職人のなかには土地土地に「ウェールズ人」や「ザクセン人」と呼称される異邦人の職人が存在したことを含め、流浪の職人たちのなかには目を病んだ鍛冶がかなりいたのではないかと考えている(そして聖職者がプロパガンダを行うのとは裏腹に、かなり境域的にユダヤ人社会と接していたのではないかと思う)。

 

 盲目の鍛冶と、それを補佐するべき邪視を持つ巫女(遊女もいただろう)はセットとなり、次代の鍛冶たちのために知識を授けることになっただろう。地中海に広くみられる叙事詩や牧歌の語り伝えは、のちに「秘密結社」と呼称され、さまざまな霊感主義と憶測を生むことになるギルドによる秘儀伝授へと姿を変えていく。ヘレニズムやシルクロードといった交易が活発になった時代(とくに奈良時代)を介して、これらのオリエント的伝統は琵琶法師と白拍子たちの軍記語りへとローカライズされていった。

 

 そこには「舞」というファクターもある。ヘファイストスをはじめ鍛冶神の足の不具性もよく語られるところであるが、そこにはたたらの鞴を踏む模倣も含まれているのではないかと思う。反閇、禹歩などの道教由来の芸能も然りである(老子西遊記のなかでは鍛冶神として出てくるという、入谷仙介『西遊記の神話学』)。禹王と言ったら降雨や治水に関係が深いとされているが、ことに日本国内では「あめやみ」と「めやみ」のご利益は混同される傾向にあり、また語呂合わせだけでなく悪所の巫女と鍛冶は表裏一体を成すものである。この二つのあいだにはさらに「蛇身・竜」「河や山の境界、境界を維持するための土木治水」などのシンボリズムも介在するが、ひとまず措いておく。

 

 走り書きになってしまい、本題の邪眼についても不勉強で薄くなってしまったが、邪視と冶金文化の行われている地域を重ね合わせてみると面白いと思う。

 

言語文化:生と死のあいだに……

 このブログでは、伝統的かつアカデミックな言語学とは異なる「言語についての学問」を追究するべく努力してきた。

 

 模範的な言語学では、たとえば「ピエールがポールを殴る」という文を、名詞や動詞、3人称現在や主格・対格という文法的な要素に分解し、同程度の文章、「ピエールは学校に行く」や、「リリーがべスを殴った」という文と比較し、その差異を「他動詞対自動詞」や、「現在対過去」といった現象(あらわれ)の対立として観察している。そしてそうした区分がなにに起因するか――民族や国家という巨視的なコンテクスト、あるいは脳の認知や生物的なミクロの進化を原因として解明するように展開してきた。

 

 外形としての文法と連動するように、内容物としての説話も、要素ごとに分解され、構造的に比較されている。こちらも同じように、集団語の内の巨視的なコンテクストと個の認識という微視的なコンテクストのもとで説話という現象が説明されてきた。

 

 文法と説話は、しかしながら、言語文化にとって欠くべからざる二大構造でありながら、言語学においては根本的に噛み合っていない。文法と説話伝承双方を取り扱った研究に出会うことはきわめて難しい。とくに日本の研究者の言語にかんする関心は、その時々のヨーロッパの流行をいわば受け売り的に翻訳し広めるのみで、俯瞰の視点で、オリジナルの言語でかたるものは皆無にひとしい。

 

 日本語で基礎的な研究が容易に読めることはたしかに利点ではあるが、そこには別の問題も潜んでいる。資料集めの制約もあり、他分野の研究を参照することが難しかった昭和時代以前はともかく、リファレンスがきわめて手軽に利用できる21世紀にはいってもなお、先鋭化した研究どうしを学際的に比較できずにいるのは、大いなる損失であるとしかいいようがない。一つひとつの研究には、研究者個人が気づきえない先入見や早合点、旧い知見や無知が含まれており、単純な比較はむしろ害でさえある。それでも、説話や文法にかんする、個々の研究の問題点を洗い出し、統一的な視座によって方向づけ、究明していくことが、他分野の研究をアップデートすることにもつながると私は信じている。

 

 

 往昔の言語文化研究は、近代科学文明を中心として、周縁の社会を「素朴」で「アルカイック」な研究対象にする傾向にあった。古典的な神話や野蛮な民族、女子供やアウトサイダーの有する言語文化は、進歩していく人類の「発展の過程」としてのみ意味をもち、都市に住まう洗練された教養人――多くが産業革命や啓蒙革命により発言権を得た商工業者に列なる――を中心とした精神的ヒエラルキーを形成した。

 

 ポスト・モダンやポスト・コロニアリズムといった知識人たちの運動も、60年代に端を発し、現在も根強く続く社会的アピールも、「長い19世紀」に形成されたこの近代的な「精神」の言語文化の両極に依拠するかぎり、旧態依然とした構造をいわば無意識的に引き継ぎつづけている。停滞しつつあった人文学を、たとえばその時代に進歩した(と感じられた)社会科学や自然科学に隷属させて「科学的」に説明ないし証明したりしたと思い込んできたことも、このヒエラルキーの浸透を疑問にさえ思わない状況に拍車をかけている。

 

 これはけして知識人の高踏的で冷笑的な体質いかんという問題ではなく、現実における差別的なシステムが、たとえば「民衆的」などというあやふやな美名のもとで塗り固められたり、名前が変わっただけでそれが継続されていると認識できない、歴史を繰り返す愚、ヒューマニズムの破綻を意味している。現代における人文学的な視点、教養の欠如は、すなわち経済や科学の根幹たるヒューマニズムの破滅にほかならない。それは一概には悪とは言えない。我われを覆う停滞の雰囲気は、いいかえればヒューマニズムが人間中心主義を脱皮し、別様なものへとうつる機運ともいえる。

 

 そうした社会のあらゆる先入見を排した、究極的な言語文化の淵源に立ち返ってみれば、そこには「生と死のあいだ」が存在する。そのはざまを埋めるように、繰り延べるように、我われはモノやコトを占有し、空間や時間を近く-知覚する。延べる-述べ、騙る-語りは、モノやコトと一体化することで、確証、信憑性を他者と共有し、空間的な伝達作用、時間的な伝承作用を機能させる。時も場所も離れた神話や伝説がしばし共有する説話素は、そうした作用を経て物語が広がった目印となるだろう。それは「貨幣」の流通システムとなって、豊かさを示すしるしとして現代にも息づいている。言語にくらべて貨幣は、通用する空間的な領域(space)、時間的な限度(time)が統一され無制限であると錯覚しているが、両者ともその意味や意義はつねに変化しつつあり、きわめて不確実なものにすぎない。

 

 あるいはこれを歴史的に、墳丘墓の周縁が聖域化し、そこにシャマニズムや巫覡の語りが発生し、一部は聖なるものへの信仰と化し、一部は民衆的な芸能、劇(ドラマ)へと異化されていった過程とも捉えることができる。それらの担い手として冶金や鉱山の知識を持った漂泊民たちが農耕社会ともった関わりは、死への問題――ケガレとして価値化される以前に、自然災害や兵乱などを起こす予兆として、具体的な畏怖を伴っていた。かれらは結社、巡礼により各地を移動し、聖域や聖なるものを制作、維持する必要不可欠な存在でありながら、それらを崩壊させかねない破壊衝動を秘めていた。信仰という生へのプロパガンダは、いがみ合いを起こしかねない共同体内の成員を通過儀礼で均一化し、破壊衝動を外へと逃がすように制度化された。古代中世の知識人のこうした試みはひとまずは成功していたように思える。

 

 畏怖は具体的な空間(風土や建造物)や時間(こよみや祝祭)とむすびつき、権威、権力として効力をもつ反面、鏡像のように、忌み嫌われるタブーを塑像していった。そうした存在への畏怖を超自然的、反実仮想的な「振る舞い」として象徴し、具体的なモノゴトへと――家畜や穀物、魚獣の収穫や木材、石材、土の衣食住にかかわる道具への加工、分有は、それらに必要な天文観察による気候や季節の予測、山河の環境変化などと重ね合わせられ、神話化した。

 

 かたりの文化は、時にコントラストを徹底させ、時に顛倒した世界を描くことを通じて、人間性の分節、分肢を主張する――それは、反実仮想的で複雑な文法構造をもつ古典文法から、それらがお決まりのクリーシェへと退化し、直説法しか存在しなくなりつつある俗語、口語に写し取られることで、良くてせいぜい純朴無知な想像力、悪くて虚言や病的な誇大妄想へと受け取られ、近代社会に偏見をまき散らすこととなった。

 

 反実仮想的な分岐は、直線的な時間や空間的な位置関係、成否を決定せしめる平叙文的構造にくらべて、「詩的」「文学的」な感受性に依存するものと捉えられてきた。多くは仮定、条件、比喩などに細分化され、その民族語、国語固有の(典拠がはっきりした)定型表現、スキーマを用いるように強制される傾向にある。この強い境界意識が、言語文化において「生と死のあいだ」を成すもの、すなわち聖なるものへの畏怖であり、いくぶんか戯画化された「欲望」や「忌避」として言語化されうるものである。

 

 しかしながら、それは前世紀において考えられてきた、モノやコトを統一的に支配し、それらから一段高次に隔てられている「精神」ではなく、モノやコトの確証性・信憑性として機能し、共同体内で共有される性質の言語文化なのである。

拡張する神話群――「物語る」言語の意味

 神話学は、「国」「民族」「階級」といった閉域、そしてその比較にとどまってはならない。

 

 「かたる」ことは、常に時間的・空間的に拡張していく性質をもっている。経緯をかたり、「かたる」という自らの行為自体を特権化することは、ひとえに閉じた領域を生成しつつ破壊するいとなみである。

 

 わたしはここ数か月、古代や中世の鍛冶職人や鉱山師、商人たち――ときに霊力をもつとみなされた祭祀芸能者でもある――の活動をつうじ、それが王を頂点とする農耕共同体にどのような物語を「占有したか」ということについて関心をはらってきた。錬金術や秘儀などは、古今東西を問わず職人や商人と結びついていた。職人や商人の遍歴は、異境や異教といった、ことなる領域どうしの知をめぐりあわせることとなった。

 

 かれらはまた、定住的な生活様式とはことなった感覚を持ち合わせている。移動にともなう数々の特権を有することに加え、みずからの属する共同体特有の言語体系によって、周囲とは識別されていた。言語がことなる共同体のあいだの暴力は日常茶飯事であり、しかもそれは理路整然とした閉域の法で取り締まることがきわめて難しかった――暴力を演じ、また扮することはかれらの知の体系の再現であり、つまるところ「死と再生」という特権を準備するものであった。無秩序な暴力はやがて祭儀として完結し、習慣化され、あらたな閉域を――聖なる空間と時間を神と人とのあいだにむすぶこととなる。それまで、移動による拡張は多くが無意味にみえる「流動性」「変種(ヴァリアント)」を生み出しつづける傾向にある。

 

 「かたり」の多くは、(近代人の峻別しようという努力もむなしく)宗教的なものと世俗的なものが未分化であり、それらにまたがる特権化を、ある「もの」、「媒体」にことよせて生み出されている。

 

 職人や商人たちが取り扱う道具――しばし魔法や奇蹟の証とされる刀や杖、臼、薬、山車その他は、その目的となる富や繁栄をその根源に投影しながらかたられる。かれらはその道具によって識別されるような社会集団を営んでおり、その恩恵としてさまざまな特権を支配者から許されている。権力者の墳墓は、ただ強制労働の産物として存在するだけではなく、巡礼し、儀礼にのっとり特権を確認する場として、またその歴史的起点として位置づけられている。そこに象徴されるような「死と再生」という物語の舞台装置は、徒に儀礼の遂行者たちの願望であるのみならず、死者と遂行者との社会的関係の淵源を行為遂行的(Performative)に「演ずる」ことにより、その生を更新する(ありつづける)ために必要とされる。見立て、再現し、目撃すること――マレビトを饗応し、共有することの効力は、今なお呪術的に根強いものがある。

 

 たとえば、生をも死をも振り切るような「あそび」を持つ、「トリックスター」の存在は、その演者と観衆であるところの職能集団どうしをわかちがたく結びつけるだろう。芸能集団と社会の結びつきにより、ジャーナリズムは体を成してきた。ジャーナリズムは社会悪を出し抜くトリックスターとして機能し、その勧善懲悪的、教訓的、合理的な主義主張によって、民衆の国民国家への統合を扇動してきた。1750年代からの「長い19世紀」は、フランスのサロンにおけるトリックスターが暗躍した時代でもある。のちに文化人類学トリックスターを研究する母胎となる、新聞や雑誌などの「公共圏」の誕生にも、理知的に見えてこうした物語的、呪術的なプロットを見て取ることができる。

 

 死や再生のみならず、かずかずの非現実的――反実仮想的な物語は、不確実で、不定形な未来と過去を「置き換える」象徴の体系によって成り立っている。それが拠るところの社会的階層や歴史的展開などの「構成」のうちに、分肢となる両極端の事象とを対応させる視点――これは文献学的には予型論といえるかもしれないが、これは前述の「投影(Projection)」によってそうした階層や展開に一定の「強度」をもたらしている。かたられることばが「張りめぐらされ」、強固であることで、共同体は閉域化され、一種の規範が生み出されることとなる、過去と未来のゆるやかな相似形は、たとえば「して行く」と「して来る」で過去や未来を言い表す文法に見出すことができる。反転した価値観で表されるヒエラルキーの対比といった修辞にもこうした「投影」がみられる。

 

 こうした共同体が緊密な閉域であるだけ、襲来する「特権」のもつ破壊力はその象徴体系のもつ効力、信用としてひとしく強大となりうる。ナショナリスティックな教養で固められた戦前社会を襲ったノマドアメリカ的な消費文化がどれだけ羨望されたことか。羨望することで、みずからに幽霊を投影することができる。聖なる土地、聖なる祭祀を区画し、占有するという行為は、一方の体系をもう一方が破壊する。祭祀儀礼を「演じ」「扮する」ことが、自らが他者に対峙する「特権」をもつことを引き出す。これは近代社会の義務と権利のもととなる基礎的な考えであるし、貨幣のもつ信用と商品のもつ信用を等価でくくり、取引する経済のもととなる。もともとこれは祭司や王などの支配者が「こよみ」や「風土」を熟知し行ってきた「マツリゴト」にかわり、一年中いつでも、世界中のどこでも通用する政治経済を確立する、という近代最大の欲望にのっとって遂行されてきた破壊行為である。

 

 15世紀のルネサンス以降、それまで流動的に遍歴しのけ者にされてきた、職人や商人が主導して進めてきた科学や政治の革命は、先行する王や貴族たちの古典文化にまして「類型化」を促す傾向にあった。活字による出版と教育、読書が定着するにつれ、社会の流動性は失われ、閉域に鎖され、それらに取って代わるような「機械」と「型」の思想が蔓延していく。元来職人たちや商人たちの持っていた口承的な「錬金術」「秘儀」のシステムは、その本質である「流動性」を見失い、近代という定点からみた奇異さのみが強調された。かつて彼らの身分を保証したところの「秘密結社」的儀礼は、社会を顛倒する暴力として、しだいに排除されていくし、神秘主義は、つまるところ野蛮で無知であるというように軽蔑されるようになった。

 

 研究者は、それらが祭祀芸能の名で侵入する、農耕共同体において表面上主張する「豊饒」という偽りの目的に眩惑され、「原始」という目に見える他者を追究することとなった。それは傲慢、偏見に見えて「進歩」という目的のために消費されるべき(文明化されるべき)植民地という他者への潜在的脅威であった。廃用となり、行き場をなくした「原始」は、芸術としてもてはやされたり、形を変えて社会運動の原動力となってはきたが、その本質は歪像であり、細切れに分断されほんらいの統合的視座を失っている。ハードウェアが進歩し、大容量の映像と文字による記録がインターネット上にアップロードされる時代においても、ソフトウェアとしての視点が更新されないままでは、これらがもっていたネットワークの故を温ね、活用することはできない。現前するグローバル社会を維持し、理解するためには、閉域や障壁は乗り越えなければならないのだから。

十二支と十二星座

 日本神話は「星」と疎遠であるといわれている。

 

 江戸時代の国学あたりからか、農民は早寝早起きだから星を見る余裕がない、という至極てきとうな決めつけがなされてきた。そのスタンスは概ね現代に受け継がれている。農民は迷信的で純朴無知であるという、近代特有の啓蒙主義的な決めてかかりも影響しているのだろう。

 

 しかし、本来農業というのは気候や季節に鋭敏な感覚をもって運営されなければならないはずである。太陽、月、星の観察を積み重ね、梅雨や台風の時季を正確に予測せねば、飢饉は免れえない。それに、昔の農業にはずっと多くの人間が携わる集約的なものであった。領主や地主たちは祭礼などを設け、彼らの適切な労務管理をしなければ、一揆・打ちこわしなどの具体的な損害にかかわってくるはずだ。

 

 これは鉱山やたたらなどにも言える話である。江戸中期の学者、佐藤信淵の述べる鉱山の一年には、(ある程度理想化されているとは言え)おおよそ半月ごとに狩りや祭礼を行うことが記されている。ふいごや自然風を用いたたたら作業は特に、蒸気による炉の崩壊などもあって、晩秋や冬の寒冷な時期が好まれたようである。

 

 渋川春海の貞享暦以降、日本のこよみや時間感覚は徐々に共有され、広く統一されていく。明治政府の太陽暦採用も、一人ひとりの時間感覚の希薄化に拍車をかけた。鉦や時計などで時間を量ることが一般化されてしまえば、星にまつわる昔話など忘れ去られ、好事家しか興味をもたなくなる。まして占いという非科学的な「迷信」と結びつけられてきたわけであるから。その代わりに学校教育で得られたものといえば、都市化や機械化とひきかえに退化し、すぐに忘却される運命にある「空間認識」「時間感覚」と、凡庸な「貧農史観」による、上へ上への怨みの転嫁である。近代社会の病理――文字通りの「病気」や、社会のアンバランスさは、こうした歪みに起因するものではないか。

 

 さて、本題の「十二支と十二星座」である。十二支は木星の公転周期約12年により分割された空の領域をもととしており、12星座は1年の太陽の見かけの回転を12等分した空の領域に由来している。天文学は(鉱物や岩石について興味を持ちだした地学と並んで)不案内なのだが、太陽も木星もどちらも黄道帯に沿って移動するらしい。十二支は方位とも、また北斗七星の柄が指す向きとも結び付けられているので、正確には「十二次」を用いるべきかもしれないが、「十二支」を用いる。

 

 十二支は中国由来であり、十二星座は古代バビロニア由来である。当然ながら、対応関係が問われるところとなる。香川高松で古代中国の度量衡、そして十二支と十二星座の研究に人生をささげた大西正男は、『十干十二支の成立の研究』で、以下の対応関係を示している。

 

おひつじ(4月)⇒子(旧11月)

おうし(5月)⇒丑(旧12月)

ふたご(6月)⇒寅(旧1月)

かに(7月)⇒卯(旧2月)

しし(8月)⇒辰(旧3月)

おとめ(9月)⇒巳(旧4月)

てんびん(10月)⇒午(旧5月)

さそり(11月)⇒未(旧6月)

いて(12月)⇒申(旧7月)

やぎ(1月)⇒酉(旧8月)

みずがめ(2月)⇒戌(旧9月)

うお(3月)⇒亥(旧10月)

 

 十二星座の後ろのカッコはおおよその期間、十二支の後ろのカッコは、私が独断で付した吉野裕子が『十二支』などで示している旧暦との対応である。やや成立年代の異なる、太陽と木星の進行であるから、見かけはずれているように感じてもさほど問題はない。バビロニア占星術はおひつじ座を春分に、中国の古代暦は(三正などのくわしい経緯はまだ勉強中であるが)子を冬至として合わせている。

 

 大西氏は十二支の字形と星座の形に関心を払っている。しかしながらわたしは、「おうし」と「丑」の対応関係と、双方の季節的立ち位置に興味を覚える。

 

 おうし座はかつて春分点を有していた。だいたい2000年ごとに移動していき、おひつじ、うお、みずがめと変わりつつある。オリエント世界では、神のイメージはこの春分点の星座によって移りかわっている。黄金の雄牛を崇拝したエジプト人ギリシア・ローマの牧歌やイスラエルの預言で救世主とされた「羊飼い」、そしてイエス・キリストの象徴とされた「魚」――死と再生とも結びつく。たとえばおひつじ座はバビロニアでは「若い農夫」とされていた。これは一度死して蘇る農夫神タンムズ、ドゥムジとも重なる。

 

 いっぽう、十二支で丑に割り当てられたのは12月で、立春となる寅の月との境目は、いわゆる「土用」に充てられている。とくに冬から春の変わり目とされる「丑寅」は方位と結びつき、「鬼門」とされた。牛の角に虎の腰巻という「鬼」のスタイル、鬼門除けのための比叡山天皇の葬送にたずさわり、鬼の子孫とされる八瀬童子など、生活と結びついた事例は枚挙にいとまがない。

 

 木星はまたマルドゥク神やユピテル・ゼウスと結びついていたから、木星の運行で黄道を12等分するというアイデアは珍しいものではなかったのかもしれない。そしてその起点を、月の形から牛の角に見立てたとしてもおかしくはない。

 

 また、春分点占星術などで「竜の頭」とされ、インドでは「ラーフ」という天体で表された。春の訪れと夏の盛りを「竜」で表現する文脈はユーラシアである程度共有されていたとみられ、辰と対応するしし座には、バビロニア時代に竜蛇が付されていた(近藤二郎)。とすると、豊穣を司るおとめ座の女神も、竜女や蛇女の類だったのかもしれない。

 

 余談であるが、高気圧による辰巳(東南)から吹く風は、作物の豊穣をもたらし、またたたらに利用されていた(製鉄に崇拝される稲荷、そして南宮大社などの金山神社はこうした風の神であったと考えられる)。対する低気圧特有の戌亥(西北)の風はアナシと呼ばれ、早くは伊吹山の猪であったり、奈良時代には竜田の神が風の神として、また平安時代以降は愛宕山付近から吹き付け、天神などの怨霊が雷雨をもたらすと恐れられた。大極殿の西北に北野天満宮が、火伏の神が愛宕にあるのはその名残と考えられる。

 

 冬の盛りには、ヤギの角をもった悪魔や、ネズミを従えたオオクニヌシなど、死を司る神が鎮座していた(ヤギの上半身、魚の尾をもったシュメールのアヌの使いは、インドではワニなどで表される水天ヴァルナの使いであるマガラに相当する)。

 

 さて、こうしてだいぶ寄り道しながら十二星座と十二支について論じたのは、ひとえに日本神話と星座の関係を探る準備稿である。サンスクリット語で書かれた星辰神話として古事記を読み解こうとした古代語研究家の二宮陸雄氏などのイレギュラーを除けば、オリオンの三ツ星を住吉三神猿田彦をおうし座のアルデバランと推定する国文学者の勝俣隆氏、日本の星神話を収集した天文研究家の野尻抱影氏や原恵氏など、先行研究は割と豊富にあるという印象だ。黄道というより、太陰暦で重要となる星宿、北辰崇拝で重視された北極星(これも2千年ほどで推移する)に集中している。

 

 そして物部氏の子孫として九州に伝わっていた星の口承を記録した真鍋大覚氏の著作『儺の国の星』である。氏の著作の膨大な情報を、以上の推定と照合していけば、どのような天文情報が古代中世から日本で通用し、どのように民俗文化となっていったかを探る手立てとなる。すでに逸失したといわれる藤原隆家(中関白道隆の子、伊周の弟、道長の甥)が大宰府で筆録させた『石位資正』は、倭名類聚抄の星宿の和名をもとにした著作であったといわれる。氏の該博な知識は、金星暦や土星暦などにも及び、またそうした天文観察が鍛冶や航海の場でじっさいに利用されてきた知識であると想像し、また信憑に足るものとなっている。

 

 真鍋氏の例をみると、偽史偽書とされる中世神話や、江戸・明治以降成立とみられる古史古伝が、ほんらいはこうした口承で伝わった天文知識であった可能性(プラスアルファでその当時の奇怪な科学が付加されてしまっているゆえに、偽史となる)が大いにある。検証を要する事項である。

 

 地名に付された十二支の獣名と土地の形質がリンクしているのではないか?という説。結構自信があるけど表立っては言えない。

matsunoya.hatenablog.jp

 

詩や 和歌も天文知識とは不可分である。

matsunoya.hatenablog.jp