マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

ポスト・グローバルとパスト・グローバル

 現代社会の政治や経済においても、「グローバル」という観点は非常にややこしい問題を孕んでいる。

 

 経営者や政治家は、英語の公用語化や自由貿易などという、ときに荒唐無稽で、ときに皮相のみに終わる目標を掲げる。いままでの決まり事を総とっかえして、世界的な基準にあわせようとするので、当然反発がおこる。そこで勃興するのが、「ローカル」な文化の再解釈・再評価であり、これらは文化人や宗教者を中心に、国粋主義的で選民主義的にすすめられるものだと、一般的に理解されていると思う。

 

 しかしながら、その「ローカル」とされる文化も、たんに「グローバル」との二項対立で捉えられうるものではない。それらは、重層的に積み上げられていった「グローバル」の結果なのである。「グローバル」と「ローカル」を比較または類比するのは、たいてい玉ねぎの皮を引きはがして、身の部分と比べるようなことにすぎないのに、たとえば精神性の違いや遺伝学的な問題へと話がもつれる。

 

 この事実は人文学的にはあまりにも軽視されてきたといわざるをえない。多くはグローバルを推進する側、ローカルを守り通す側両方の歴史への無知に起因する。たいていの人間は一方への知識を恃み、もう一方への無知を覆い隠そうとして、「グローバル」「ローカル」どちらかを過剰に否定しようとする。そうして、ヒューマニズムも人類の調和のへったくれもない、だれかの人格を否定するような論理が人文学に積み重なっていく。

 

 実例は山ほど挙げることができる。「発達障害は方言を話すことができない」などと、近代日本の言文一致や標準語化の努力を踏みにじるような言説が罷り通る。だいたい、方言だってほとんど近代以前の文語ではないか。このような差別的な言論にかまけている暇があったら、古典語文法や漢文を現代化して、小学生から英語といっしょに比較言語学的に学べるシステムを構築したほうがよほどためになる。

 

 科学と錬金術ニュートン錬金術の研究に打ち込んでいたことは科学史的には「恥」とされる。しかし、「科学」というのは時代によってその意味の総体を変えていくものであることを忘れてはならない(これは疑似科学、オカルトやニューエイジを積極的に肯定する文ではない)。

 卑金属を金に変える、錬金術とされてきたもののなかには、「化学」の元になる元素の理論的萌芽もあれば、「鍍金」などの物理や工学などの経験的知識、その他倫理や哲学など、現代的な「科学」には収まらない雑多なものがあり、さまざまなメタファーによって「錬金術」として結び付けられてきたのである。それを、現代の「科学的」視点から解釈するのも、「非科学的」オカルト肯定の視点から賛美するのも、決定的な事実を見逃すことになる。

 じっさい、職人たちがどのように文化を継承し、建築や工芸などが生み出されていったのかが無視されてきた結果、社会的には職人への貧困や差別、技術的には科学革命と機械化、文化的にはロマン主義精神主義などの農耕賛美と頭でっかちな類型論による芸術批評、そして思想的には秘密結社や迷信などの啓蒙による淘汰が別々の領域で進行し、もはや統一的に把握することが困難なのだ。わたしが提唱する「工匠文化」は、かつては「日知り」ないし「火知り」としてあがめられてきた、聖職者や鍛冶・鉱山師などの技能集団が、近代科学・政治経済思想によって「迷信的」「無知」と決めつけられるまでの技術的総体である。

 

 このモデルが、おそらく「グローバル」が「ローカル(パスト・グローバル)」と分断されるさまをよく映していると思う。

 

 

言語文化の再構にむけて:工匠文化へのまなざし

 人文学で取り扱う知識は、一般的に「教養」と呼ばれている。それらは、たとえば国家だったり民族だったり、あるいはもっと広範な「人類」を主体に、積み上げられてきた知を取り扱うことを建前としている。書店にならぶ「教養」の本をざっと見れば、驚くほど多彩な地域の、多様な時代背景から成り立っていることがわかる。これらを読むと、自分の価値観や世界観が「広がる」と感じることができるのは、なんと純粋な無知であることだろう。

 

 実のところ、実際に「研究者」が触れることのできる知は、その教育のレベルが上がるほど深く、狭くなっていく。専門としている領域を「理解」するためには、外国語の文献は必須であるし、近しい関心を持つものどうしの意見交換も必要となる。そして次代の研究者の育成のために時間を費やす。これらを効率的に成し遂げるには、一分野に専心して、一世を風靡するような言論を打ち立てることが求められる。そうしたしがらみができればできるほど、他の領域に口をはさむことは不勉強のそしりをまぬかれず、難しくなっていく。

 

 けれどもそうしたルーティンワークは、己の研究を現代の「鏡」として映し出すには十分であるが、文化というマクロコスモスの過去・現在・未来を透徹した一視点として機能させ続けるには、あまりにも「一過的」すぎる。事実、どれだけの本が「教養」として推奨され、「流行」として忘却の彼方に消え去っていったことか。

 

 このような偉そうなことを言って何を伝えたいのか。人文学的教養の主体は、これまで――少なくともイタリア・ルネッサンス以降は――誤って捉えられていたといっても過言ではない、ということに尽きる。

 

 

 科学と芸術という、教養趣味の二極化を生み出したのが「活版印刷」である。文章や本が身近なものとなり、ものを書く・読むという行為が大きくその姿を変えようとしていたのは明白である。「教育」というのがその典型的な例で、国民国家民族主義が、科学や芸術の「主体」としての論理的・情緒的な「国民」「民族」という幻影を作り出した。原始人や女子供、植民地などは、「研究され」、その論理や情緒に絡めとられ、「学ぶ」側へと位置付けられていった(外国人に自国の文化を称賛させるような風潮は、そのもっとも頽落した形態であるといえる)。

 

 「科学」や「芸術」――学術というシステムに依拠するかぎり、こうした権威的で不均等なシステムを知らず知らずのうちに再生産することとなるだろう。そこにいるのは、他者を無知とあざ笑い、他者に時代遅れの世間知らずとあざ笑われる道化たちである。

 

 われわれは、科学と芸術が不可分で、まだ何とも言い表すことのできなかった時代に立ち返らなければならない。ギルドや講のように、人生の通過儀礼や季節に密着しながら、儀礼符牒によって「ものがたる」ことによって、文化が維持されてきた時代があった。シルクロードや紅海、インド洋の交易路における文化の類似性はひとえに「工匠」たちのこうした慣習の賜物と言えるだろう。仏教とキリスト教だったり、日本神話と遊牧民族の神話が似ていることなどを説く研究は数多い。

 

 しかし、そうした文化の担い手や、それらにかこつけてどういう事柄が語り伝えられてきたかに着目する研究というのは僅少なのである。政治的動機や作為的編集によって虚構の物語が語り伝えられるという、「活版印刷時代の常識」は見直されなければならない。金属採取、加工や、天文地理、建築など、さまざまな知識が溶け込んだうえで「神話」が成り立つ。

 

 天地のあらゆる表象を把握することは、機械-人間-自然のかかわり以前の社会において、たんなる迷信以上の意義を持ちえていた。人びとはそうした情報を「物語」の形で遠方に伝達し、あるいは次代に伝承することで、モノゴトが「ある」のみならずモノゴトが「かくあるべき」という社会を維持してきた。この言語文化の作用は「記録・教育」を主とする活字書物文化とは一線を画すシステムである。何らかの「ことば」の――詩が典型的であった――イメージに乗せられた「祖型(かた)」は、なにか別のふくみを「再生」することになる。

 

 この再-現前、再現-前には、共同体のおきてやなりわいなどが雑然と混合し、たとえば生産されるモノを「身に着ける」ことによって規範を「身に着ける」ような代替がおこなわれた。さらに比喩は、高度な技術を継承する工匠たちを、呪術的な思考へと導くこととなる。「名称」は絶え間なく細分化する。これを大多数の同意の元、融合することが、権威や暴力のあらましとして「あらわれる」こととなる。

 

 モノは現存する。コトは非現実的に想起される。これらをむすびつける「信用」が、社会のメカニズムと日常行為の遂行に作用するのだ。さまざまな立場・職掌の人間が、契約をして権力を成り立たせるために、「物語ること」を必要とした。

 

 こうした視点を踏まえた上で再解釈を要するのが、言語のはたらきである。従来の言語学は、外見的な名詞や動詞などの意味や意義を考察するのが中心で、そのフィールドも、人間の「自然な」発話のメカニズムを称した、物語から切り取られた文章である。こうした近代に表面化した話し言葉や書き言葉は、文法や認知的なスキーマとして扱うには特殊であるし狭すぎる。

 

 言語学が国家や民族を超えた抽象的な「信用」「信念」についての考察になるには、哲学の助けを必要とするだろう。しかしながら「文字」を使用する段階で、それ以前に「メタファー」や「シンボル」を用いて技術の伝達をはかった段階で、あるもので別のものを代理-表象する、「信用」「信念」の本質は完成していたはずである。われわれはより注意深く古今東西の言語文化を観察する必要がある。もはや西洋や東洋の違いを比較し列挙することも、ひとつの学問体系を「人類」の必須教養として誤った一般化をすることも学問とはなりえない。より本質的に言語文化を――あらゆる学藝の連関を見通すことが、研究者の責務となる。

工匠文化論:火知りと日知り

 貨幣や政治のシステム、そして文字によるリテラシー、宗教に至るまで、従来の国家と民族中心の歴史観は、いわゆるウェストファリア条約から、1750年代に始まり二度の大戦へと200年弱続く「長すぎる19世紀」において構築されたものである。この間は、王権や宗教権力によって抑圧されていた商工階級が文字による歴史や文学を主導し、迷信に染まっていた信仰と理知的な科学を分離し、民主主義や資本主義経済の様々なシステムを考案した時代であるとされる。

 

 そして、ヨーロッパ諸国が全世界への海洋へと進出し、植民地や博物学的な研究をも独占した。宣教活動によって普及した「紀元」は、地質学・考古学・物理学の進展により、キリスト教の教義を離れ広く用いられるようになった。

 とくに、全世界の国々が躍起になったのが、「商工業革命」「大衆啓蒙」「政治の変革」である。これらは時に生活様式の暴力的な破壊をもたらした。「貧困」「差別」「弾圧」は、文字に乗せられ伝播することによって、かつての「迷信」の時代よりも熾烈な窮状をひとに強いた。迷信の虚妄を排し、商工業が貨幣経済に一元化していくにつれ、贈与や寄進などのかつて共同体を支えていた多元的なシステムが顧みられなくなってしまったからである。

 それまで独立して還流することのできたモノやサービスが、金銭と紐づけされ容易に動かなくなることは、表面的には公平で階級差別のなくなった社会に、除くことの容易でない偏見を植え付けているということと同時進行である。とりわけ多くの変化を被ったのはアジア・アフリカ・アメリカの諸地域であろう。文明史観により「衰退」「未開」とされた地域は、ヨーロッパの先進的な知識を取り入れ(させられ)る一方、宗教的原理主義の台頭、モノカルチャー経済の弊害、汚職政治など、この「19世紀」以来の桎梏に悩まされている。

 破壊されたのは社会的構造のみではない。人文学の研究もまた、様々な制約によってがんじがらめにされることとなった。活版印刷の普及にともない近代的な著者と読者のネットワークが出現したとき、すでに伝統的な経済システム・政治システムは「変質」しつつあった。大航海時代とよばれる現象により、陸の権益を争う王たちと海の商人たちの収奪が同期しつつあったし、生を活写した古典文化の再発見により死を思う信仰は形骸化しつつあった。極め付きは、宗教改革による修道院や教会の破壊、民主主義革命による王権の衰退である。

 それまで維持されてきた儀礼などのシステムは効力を失い、商人や工業人が主導する、科学や経済的に「是とされる」教育による精神の陶冶がそれにとってかわった。科学や経済、国家や民族に細分化された枠組みは、それまでの自由学芸を、科学と芸術のアカデミズムへと変えてしまう。儀礼や遍歴などを通じてギルドの規格化された品物を製造する権利を継承する営みが、レオナルド・ダ・ヴィンチガリレオ・ガリレイといった「天才」による発見を列挙する、精神史の教授へとすり替わってしまったのだ。

 これは日本でも同じで、国学派の主導による廃仏毀釈や、それまでの政治体制の転覆による既存の権威の崩壊と再編制の中で実現したのが、それまで「農業国家」だった日本の「急速的な工業化」である。しかしこれは、職人の遊歴、神仏信仰とのむすびつきなどにより村のすみずみまで行き渡っていたある文化が消滅し、国家や中央集権的な官僚政治・経済に直結した「商工業」へと組み替えることに運よく成功した、と言い換えられるべきなのではないだろうか。しかし、それらは一顧だにされず、民俗学や文筆家が拾い上げることがあっても「迷信」と一蹴され、例えば苦学して海外を見聞し身を興した渋沢栄一福沢諭吉の伝記的事実にはおよばぬものとされたのである。

 

 このブログで取り上げてきた冶金文化や、天文・地理の測量、治水などと説話伝承の類型学を、「工匠文化学」と呼称することにする――ポスト・オリエント学であるし、情報文化圏交渉比較環境人文学とも称してきたこの学問は、錬金術や煉丹術、陰陽道などの、近代科学技術の母胎となったさまざまな知識が、かつて神話伝承などの信仰と切り離せなかったものであり、多くの文学の元となった「語り」――芸能祭祀を介し、その聖性が信じられてきたものと考える。

 

 鍛冶師・大工・採鉱師などの「工匠」たちがいなければ、田畑や住まいに水を引くことも、米俵を蓄える倉や牛馬の小屋も作ること能わなかっただろう。それに「火」の管理、「日」の観察も、しかるべき技能者がいなければならない。しかしながら近代の人文学者は、近代社会の科学技術、そして暦日を恃みとして、古代中世の社会の営為を「豊饒」をただ天に祈る「呪術」と抽象化してしまった。あまつさえ植民地の「未開民族」の習俗と比較検討し、「人類学」として拙速な一般化をしてしまったのである。

 ここには模倣の問題もある。人間の意思疎通は完全ではない。工匠が語り伝えてきた文化も、傍から見た者には理解不能であったり、簡単に仕事を真似されないよう符牒や儀式を難解にした結果、後世の人間に誤った解釈をされることもある。偏見をもった、共同体の外からやってくる研究者に正しく伝わることもなおさら稀だろう。

 

 しかし、伝承に用いられた図像や類型の比較を通じて、ある程度の再建を行うことは可能である。元型心理学が「精神」と解したものだったり、言語類型学や図像学が系統立てて説明した成果を援用することは道理にかなっている。

 なぜ、聖徳太子イエス・キリストも馬小屋で生まれたと伝わっているのか。これに騎馬民族や日ユ同祖論をあてはめるのは荒唐無稽である。しかし、多くの大工が聖徳太子を崇拝していたり、イエスキリストにとどまらずグノーシス主義で創造主は建築家と考えられていたことを加味すれば、仏教やキリスト教をつうじシルクロード上で建築技術が共有されていたのではないか、という推測が可能である。

 木を切るにも石を砕くにも、有史以来は金属器なしではやっていけなかっただろうし、正確な方位や季節を合わせて建築を遂行することが求められる。すなわち、こうした職能集団は正確な情報伝達能力によって文化を受け継ぐことが肝要となる。火を知り、日を知り、聖であること――周囲から畏怖されるだけの武力、財力が、崇拝につながったことは想像に難くない。

 

 中世でも陰陽師が治水に動員されたり、修道院で鍛冶が行われていたり、また高野山と水銀の関係、鉱山や大工の守護聖人など、迷信や精神的活動と考えられてきた信仰の人びとと、工匠たちの技術は近いところにある。しかしそれゆえに、職能集団どうしの対立は激しく、またヒエラルキーの問題から、現代にいたる深刻な民族差別などの遠因となってきたことは否めない。

 

 推論が粗雑で(このブログのように)、史料的にふさわしくないものでも、この「工匠文化」の眼鏡を通して観れば、また違った読み方ができる。 ブログの文章をまとめ、順次史料集を制作していきたい。協力者も募集中である。

 

matsunoya.hatenablog.jp

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歴史の夢・ロマン・謎:信用ならない語り手にすぎない、歴史学の直視しがたい現実としての

 歴史に夢とロマンと謎はつきものである。これはいい意味で言っているのではない。プロの研究者でもアマチュアの歴史家でも、知らず知らずのうちに、

●自己投影、アナクロニズム

●勧善懲悪、陰謀史観

●テーマの束縛、専門化

権威主義、タブーの無視

などといった問題を棚上げにして、夢やロマン、謎という虚構で一般読者の関心を惹こうとしてきた。おおよそ社会的な発言力や影響力を得た壮年・中高年になってからでは、学んだ歴史観、そして研究上のインプットとアウトプットを軌道修正するには遅い。

 この弊害は、歴史研究そのものにたいして、研究者とそれ以外の人間のあいだで温度差、認識の隔たりを生んでいる。一般的な認識としては、歴史は大半が退屈な学校教育であり、それと対照的に興味深い娯楽・ファッションとなる時代はごく限られている。

 歴史小説やドラマ、マンガ・アニメやゲームでそれなりに「知っていて」、また奇特なことに歴史教科書で関心をもち、研究したいと考えアカデミズムに踏み入れる人間に突き付けられるのは、膨大な先行研究と学説史などほとんどまとまっていない史料の収集作業である。

 長い研究の道のりの中で圧倒され翻弄されるうちに、テーマは細分化され微視的となり、専門外のプロの歴史研究にはまったくの門外漢である一方、アマチュアの杜撰な史料批判、研究手法の幼稚さにはいら立ち、無視をきめこむようになる。そして、自説の支持を取り付けるため、「夢・ロマン・謎」という糖蜜細工で興味を惹こうとする。それがますます歴史の「全体像」を見えづらくし、「歴史研究は物好きの道楽」という風潮を加速させるものであることを知らずに。

 

●自己投影、アナクロニズム

 限界まで戦う総力戦、伝統的な精神のためなら死をもいとわない「愛国・国粋主義」「ナショナリズム」という19世紀以来の根幹が否定されていらい、歴史はセンセーショナリズムとジャーナリズムの玩び物となってしまった。歴史の視点は、たいていが近代の歴史の主役であった「教養のある近代市民」の裏返しである、「無学で権力に虐げられた民衆」を基としている。この「無学で権力に虐げられた民衆」という他者像がやっかいで、たいていは「教養ある近代市民」たる研究者の顛倒した自己の投影なのである――古代人、未開人、女子供という研究対象、恋愛や感受性、信仰、病理といった非理性的なテーマを解明することは、その研究者の近代的理性の代弁、自己紹介にすぎない。

 インド・ヨーロッパ語族の類似関係は第一次世界大戦の引き金となるドイツとイギリスの対立と表裏一体の「印欧民族」の起源探しであった。アナール派の民衆史・地域史研究は中央の知識人が植民地や地方を統率するきわめて強権的な「近代フランス」という重力ありきで成り立つものであり、ウォーラーステインの近代世界システムは、経済的な覇権国家を自認する(かつての)アメリカの自己紹介、王統譜、王権神授説である。

 言語系統が孤立的で、せいぜい朝鮮・中国が射程範囲の日本古代史学は、研究者のスタンスのいかんにかかわらず、「大日本帝国」の範疇を脱け出ることはないし、南方への関心、世間を騒がせたシルクロード騎馬民族のブームは、太平洋戦争と玉砕、抑留を経験した世代の追憶、慰霊にすぎないのである。

 こうした時代精神が背景にあることを理解しないと、とくに西欧の時流の受け売りに終始する本邦の歴史研究においては、本場で時代遅れになってしまった数十年前の流行を断片的に受容しつづけ、反芻しつづけることとなる。しかも、先に挙げた「他者」、研究対象が、じっさいの歴史上でどう位置付けられていたかということを熟考せず、近現代に創作された概念のもとに囚われてしまう時代錯誤をおこしかねない。

 

●勧善懲悪、陰謀史観

 その最たるものが、物語の「ワク」に歴史を無分別に詰め込んでしまうこれらの歴史観である。虐げられたまつろわぬ民と権力者、という対立は、「全世界的に」ナショナリズムの反動としてもてはやされた感がある。ケルト、魔女、イスラーム神秘主義ヒンドゥー教、サンカ研究……様々な題材がこのメカニズムのもとに消費され、おもに「民族主義」「精神主義」のもと、どこが起源か、だれが歴史を歪曲したのか、という議論に終始している。民族や精神といったアナクロニズムを主語とすると、近代の市民社会においてそれらが勃興する土台となった、産業革命啓蒙思想以前の「社会」のすがたが見えづらくなる。すなわち、農耕文化と金石器文化の連関である。

 どのような風土(空間知)・こよみ(時間知)のもと、人間が往来し(けっして「進歩」「原始人類の移動」という文脈ではない)、治水や灌漑、器物の製作などの分業をおこない、農耕や信仰の渾然一体となった社会をいとなんできたのか――その比較が、民族や精神の障壁によって阻まれている。

 このムーブメントは民族や精神といった概念的なもので示唆されるように、一方向にすすむわけではない。民族対立やイデオロギーの衝突の緩衝地帯では、傭兵や身代金などで簡単に裏切られうるシビアな「境域」の様式が存在し、いわゆる「語り物」、祭祀芸能の世界が生じてはじめて、白黒がつくものである。はじめから「勧善懲悪」「陰謀論」といった語り物の発明品をもとに歴史を解釈しては、人間の営為を理解することは難しい。

 

●テーマの束縛、専門化

 理性・美・精神というのは、虫や動物の擬態や警戒色のように、かつては「境域」で生きる人間の自己防衛のために役立っていた生活様式である。それがいつしか、「伝統」となり、アカデミズムによって研究される「他者」であり、近代精神に排除された反動でたちかえるべき「精神」「民族」という位置づけとなった。大学など学術機関で研究する歴史学徒はよほど緊密に社会を分析しなければ、人間の営為から遊離した精神的・民族的主張におちいることとなる。

 彼らの主張に比べれば、もと新聞記者、もと産業人といった肩書をもつ人間の研究はよほど多様性があり、「地に足のついた」主張である。しかしながら、学術人の研究との同期がうまくいかず、歴史の原動力として前述の勧善懲悪、陰謀史観が再生産されつづける傾向にあるし、もといた産業の常識に特化したピーキー歴史観は散逸しやすく、統合が困難である。自らの意見に絶対的な根拠をつけるため、独自の「言語起源論」をもっている――そのおおくが牽強付会であり、学界からは無視される原因となる。

 

権威主義、タブーの無視

 学閥や学派などの制約は、より安逸な方向へと、人間の知を先鋭化させる。社会的な信用のおける考古学はより古くセンセーショナルな結果を発掘するのが名声や影響力と同義である。他方、オカルト的な「超古代」の研究は、偽書や自国中心主義、捏造などでアカデミズムから嘲笑されるものの、信奉者は数多い。

 これらは別方向の事柄にみえて、問題点は共通している。われわれの多くが、古代と現代をつなぐ、中世や近世のテクストや口頭の説話伝承の意義が無視し、古代、もしくは有史以前という原点と、近現代という結果を短絡させて歴史を把握しているのだ。そのさい援用されるのが、先ほども述べたように「精神」や「民族」の発展史として、不可逆的な進歩主義を遺跡なり史料に当てはめるやり口なのである。

 たしかに遺跡や遺物として出土したモノはアルカイックで過渡的な様相を呈している。しかしながら、本来ならばそれが放棄されるまでの「極相」を示しているはずなのである。そして偽書は、正史の剽窃であったり、現代人からは常識外れの荒唐無稽な世界観である。古代に書かれたと称して、近代に編纂されたものも数多い。それでも、それが人びとの間でなんらかの事実を証する「語り」として通用していた、「意義」を考えるのが研究者の責務なのである。これも言ってみれば、神仏習合が放棄される前までの「極相」を示していた史料なのである。

 たとえば、「太子伝説」がある。京都の太秦・伏見、大阪の四天王寺、宝塚の中山寺、生駒・葛城の山陵地帯など「物部氏伝承」が残る地に、磐座や舞台建築などとともに聖徳太子古史古伝が残っている。この伝説群を、支配者である王権が先住民を虐げていた事跡とするとき、「境域」的思考は失われ、さらに古代から現代まで説話伝承を担ってきたが、蔑視をうけやすい舞楽などの「祭祀芸能」や「冶金文化」などのタブーを看過した精神史、民族史が出来上がることとなる。じっさいのところはどうなのだろうか。個人的には、農耕の前段階の天地の観測や治水灌漑技術、冶金文化に付随していたミトラス的な伝承が、ときの支配者のすがたを借りて顕われているものだと考えている(ここで「ミトラス的」とするのは、ペルシアやローマの「ミトラス」とは、冬至春分などの太陽を観測する技術としては同源かもしれないが直接的な文化の影響をおしはかるのはナンセンスだと考えるからである)

 こうした問題点を熟考することを放棄し、「トンデモ理論だ」とあざ笑い、非難することはたやすい。点つなぎのように遺跡や遺物、史料をならべ、日本国民の精神史、民族史とカバーを付けて売るほうが楽で実入りもいいのだ。「ビジネスで差をつける」「成功者、ヨーロッパのエリートはみんな学んでいる」という集団心理をくすぐるキャッチフレーズを付けたらもっと売れることだろう。

 

 しかしそうした商業的成功があっても、長期的にみれば、歴史学がマイナーな分野で、文系学問の削減に抗えない脆弱なスタミナしかもたない現状を克服することはできない。もてはやされる統計やAIなどの最先端技術のように、歴史学が社会の維持に益するビッグデータ編集術のように、現代社会への適応を遂げるには程遠い。もう、ヨーロッパが進めてきたような「人間中心主義の克服、環境と技術の調和」という依然ルネサンス以来の人間対自然の影響下にあるような次元ではないのである。

 人間が自然のなかで、どう異化されて(=活かされて)きたのか、という情報の集積が、歴史なのだ。それを知らずに、SNSをいじくり回し、ほんの小さな常識、狭い人間関係の中に生き、その無知のままに住環境の悪化著しい都市を大量生産するような愚は自省されなければならない。これらを克服するのが、人文学の復権の最大の目標である。

人文探しの旅:大阪・奈良

 かねてより人文探しの旅をしてみたかった。自分探しではなく、古本集めと古代史のフィールドワークを兼ね、国内を回り、現代の地域振興に役立つ情報を収集するれっきとしたプロジェクトである。

 

一日目

 

 出発は大阪の天王寺。そこから阿倍野を下り、南田辺の古書店「黒崎書店」を目指す。目当てはインドと中国の天文知識の交点、「宿曜」の本である。また、一帯は太子信仰や物部氏安倍晴明にゆかりの深い地域である。太子の手下が大蛇を斬り殺した桃ヶ池(股ヶ池)など、

 

 目当ての古書を確保したあと、八日えびすで知られるという山阪神社に詣でた。そこから針中野まで歩き、近鉄柏原市まで向かう。手始めに石神社や弘法水を見て回る。高尾山山麓に沿って旧跡が点在しており、神社は冷涼な雰囲気に包まれている。トンボとたわわに実る特産のワイン用のブドウが、すっかり秋を感じさせた。

 

 夏に古市古墳群と道明寺天満宮を見に行ったさい、時間がなく断念した場所がある。智識寺跡と鐸比古鐸比売神社だ。前者は聖武天皇が参詣し大仏建立を思い立ったという毘盧遮那仏をかつて有していた。後者は和気氏の先祖鐸石別命を祀っていたといわれ、高尾山の頂上に巨大な磐座、その周囲に古墳群を擁する一大遺跡である。雁多尾畑など著名な産鉄地・製鉄遺跡も近い。

 

 参道から高尾山の頂に磐座が見えて、おもわず快哉を叫びたくなった。石・鉄・水源はこの大阪南部から奈良中部の古代を巡る旅の鍵となる。天文や地理の観測の目印のために磐座が作られ、冷涼な風や水を利用して死者を葬る山陵が造営された。おそらくここには長江からインド廻りの仏教や道教の知識と、シルクロードやステップから黄河流域に通じる埋葬・シャーマニズムの双方が作用しているように思われる。

 

 古代において木石や金属という資源を確保し、観測や加工などのいろいろな設備を保持するには、「死者の祭祀」という名目がなければすぐに散逸してしまったのだろう。専門家はとかくビジュアライズされたものに目移りし、文字以前の文化を軽視する傾向にある。なかでも神仏と王権の結びつきおよびその奇瑞は、科学啓蒙思想においては荒唐無稽なものとして解釈される。

 

 神話や説話群は「実在した王や民衆」の政争なり抗争として合理化されるが、そこにかつて存続していたであろう天文や地理風土、そして冶金などの「職能民文化」の知識の痕跡は無視される傾向にある。完全に官人の作為や虚構の説話伝承が数百年、数千年も知識人の書写で維持されると考えていては甘い。実体は半聖半俗の修験や陰陽師が神楽や声聞などの芸能を介し、職工民と王権を結び付けていたのだと思う。

 

 そこから香芝を経由し、志都美に泊まった。

 

二日目

 二日目は二上神社に参ろうと考えていたが、手違いで五位堂で降りてしまったため、そこから當麻寺まで歩いて向かうことにした。一帯は二上山を借景に水田がどこまでも広がっており、モータリゼーションと狭い歩道で歩きにくい中をかき分けて進んでいく。

 道ばたには、「往生要集」を表した恵心僧都源信)の生誕地や、古墳の蓋石を用いた「阿弥陀橋」の遺構があった。想定外の収穫である。聖徳太子の弟麿子親王が建てたと伝えられた當麻寺も、いまは真言密教と浄土宗が同居した状態となっている。本尊は当麻マンダラと来迎阿弥陀。本堂には役小角像や中将姫の像もあった。

 

 とりわけ目を引くのは壇や鐘楼に用いられた朱の鮮やかさである。日本最古の銅鐘や石灯篭、奥の院展示の鉄仏や銅の打出仏から、技術の伝播の経路を感じずにはいられない。奥の院が浄土宗を奉じているのも、さまざまな受難を経た女人の参詣を許した中将姫伝説というのも、もとはミトラとかアナーヒター女神が下敷きにあったのではないか、と勘繰らずにはおられないのである。庭園には倶利伽羅竜王が祀られているし、とくに灯篭というのは、火袋に日月を配しており、一種の竜を模した石造物である(伊勢の暦には目が日月の、ウロボロスのような竜が本州を囲む図像が用いられていた)。

 西洋においては昇交点、東洋においては春の木気の象徴である龍は、冶金文化では秋冬の季節風による製鉄の終わりを告げる象徴であったのではないかと思う。それだけに、農民には洪水や台風、日照りなどの災害と同等に畏怖され、水神として祀られたのだろう。夜通し風雨が吹くほど「富貴」になった職能民と、太陽と収穫が待ち遠しい農耕民の価値観の対立に、現代にまで問題となる差別の根源があるように思う。それでも、治水や城塞の建設、農具や穀物のやり取りなど、ギブアンドテイクを成り立たせながら、社会生活を営んでいたのである。

 

艶めきて 蓮葉(はちすば)身をく 蝉しぐれ

 

當麻寺 仁王は蜂の みつを知り

 

 次いで、大和高田市竜王宮を拝観し、街並みを見て歩く。和銅の時代に建立され、長谷寺と本尊が同霊であるといわれる「元長谷寺」などを見て回った。そこから、田原本に向かったのだが、笠縫で途中下車。太安万侶の故地といわれる多神社へむかって歩き出した。

 お社まで1.5キロもあるらしく、往復に苦戦した。ここも見渡す限りの水田で、トンボが乱れ飛んでいる。用水路の水面には、食用として輸入されたが失敗し、今では稲を食い荒らす外来生物である、ジャンボタニシラズベリーのような卵が浮かんでいた。

 肝心の神社は、古事記1300年のときに作られた石碑がたたずむ、閑散とした神社であった。かといって荒れ果てているというのではなく、鎮守の森に囲まれ、後方に神武塚と呼ばれる鬱蒼とした木立が控えた、風格のある神社だ。弟に皇位をゆずった神武天皇の長子神八井耳が祀られており、末子相続や農耕起源神話との関係を考えさせられる。付近の多氏観音堂神仏習合時代の名残で、白飯を腹いっぱい食べる仏事が行われているという。農民の一年一度の贅沢とされていたが、修験の神事にも似たようなものが見られるため、なにかの予祝儀礼なのであろう。

 

 笠縫駅まで戻ると、もうすっかり日が傾いている。そこは「秦庄」と呼ばれる一帯で、秦という表札が多くみられる。秦楽寺という寺があり、聖徳太子秦河勝が祀られていた。秦の楽人の寺という意味らしく、中国ふうの山門と、大きな池が特色の寺だ。大和の円満井座や金春屋敷があったとされる猿楽の故地であり、近くには世阿弥が禅を学んだ寺もある。太秦や宇治、伏見稲荷一帯といい、京都には秦氏の痕跡が多いが、大阪の寝屋川太秦四天王寺舞楽をはじめ、奈良でも長谷寺やここ秦庄などに名前が残っている。多氏の本拠とほど近い所に秦氏が存在した、というのもかなり意味深い。

 

 とくにこの周辺は庚申の石碑が目に付いた。太子伝説や舞楽、猿楽の影に、神仙思想が関係しているとも考えられるし、神仙思想と鍛冶のかかわりが気になる所である。上流には鏡作神社や唐子鍵遺跡があった。稗田阿礼ももしかしたら秦(ハダ)氏の鉄(アラ)を扱う工匠だったのかもしれない。

 

 そこからも数軒古本屋を回り、とっぷり暮れたなかを王寺まで移動。

 

三日目

 

 三日目はこの度の目的地である達磨寺へ最初に向かった。片岡の飢人伝説がいつの間に脚色され、ダルマと聖徳太子の邂逅となってしまったいわれを持つ。境内には三基の古墳があり、舎利を収めた仏塔や香炉を収めた備前の甕が出土。古来より崇敬を集めていたことがわかる。

 本堂には、見事な聖徳太子とダルマ、千手観音像のほか、白隠のダルマ図や最古級の涅槃図など、見どころがたくさんあった。とくに涅槃図は、後年のパターン化された動物や諸天がわちゃっと描かれているものではなく、仏弟子と涅槃だけを描いたシンプルな名品である。

 

 そこから道に迷いながら、久度神社にたどりつく。京都の平野神社にも祀られている竃の神が祭神で、蛇行する大和川葛下川の中州に位置し、信貴山や高尾山のふもとにある古社である。平野神社もそうであるが、竃の神は都城の西北に座し、愛宕山からの雷による火事や風雨から竃の火を守る役目を負っていた。こんもりとそびえる久度神社の森からは、片岡と並んでこの場所が火事や風雨からの災害の防壁となっていたのではないか、と想像した。

 

 多聞橋を渡って、竜田大社に。風の神という通り、道中から涼やかな風が舞う。ここも製鉄との関連が唱えられている。古代の鉄滓が見つかった雁多尾畑が近くにあったのだが、連日の歩きに疲れ見逃してしまった。信貴山にも行ってみたかったのだが、坂を転げるように、三郷駅にたどり着いた。

 

 いくつかJRを乗り継いで、天理市まで足をのばした。天理教で栄えている商店街には奈良のフジケイ堂の支店があり、どうしても行っておきたかった。そして少し足をのばして、石上神宮に参拝する。2、3年ぶりだろうか。ひんやりとした心地よい緑に、放し飼いにされている鶏の鳴く声が時折聞こえてくる。

 道すがらに僧正遍昭の良峯氏ゆかりの良因寺があることを初めて知った。山の辺の道にはほかにも在原神社や和爾下神社など、奈良から平安にかけて歌道に活躍した氏族の寺跡が多い。「歌」が「転(うたた)」など、崩落しやすい土地に関連するばかりではないだろう。古道を修復し、治水が可能な豪族が、都城の建設に駆り出され、貴族として定着していったさまがうかがえる。

 

 そして京終で降りて鎮宅霊符神社に詣でて、京都に帰った。

歴史地理、物質民俗、音・光・香り……史学の新視点

 これまでわたしは、「農耕社会の成立史」のように編集されてきた伝統的な史学から、鍛冶や鉱山師などの職人の歴史を抽出し、水銀朱や鉱石、岩石の加工と特有の信仰とのむすびつきを考えてきた。

 

 「農耕社会の成立史」であるところの、理性や精神の発達史観からすると、農耕にむすびつく食欲や性欲などの直接な欲望の充足から「ほど遠い」、いわば余分なこれらにまつわる説話伝承は、脈絡を追うことは困難であり、単なる迷信や虚構、想像力と解釈されている事例が少なくない。さらに産業革命による機械化・都市化も手伝い、多くの人の手がかかっていた職人仕事や鉱山労働、土木治水工事などの意義が変化し、農耕や日常の市民生活から分離した。

 劣悪な環境下の作業かつ金がかかるものであり、学者の世界とは対照的な、忌避すべき浪費、無知無教養、タブーのようになってしまったことも、これらが古代中世にどのような姿であったかを窺いづらくさせている。そしてその基盤となった信仰のかずかず、職人たちを守る守護聖人崇拝や寺社縁起、天文への信仰、およびこれらが変化した占術や呪術、秘密結社や講などの人文学研究とそうした社会史研究が隔絶されてしまっている。

 

 しかし本来は、農耕集落をつくるために不可欠な石器や鉄器、土器から、こよみの設定、灌漑設備や適切な都市計画にいたるまで、天体観察や地理の測量をもとにした精緻な計画性がもとめられたはずである。一部の愛好家しか星空を見上げず、コンクリートで固められた河川が腐臭を放ち、地図の上に定規を引いて土地を区画するようなちぐはぐな状況は、近代以降の風潮であると信じたい。

 このメソッドを伝授するために、祭りがあり、説話伝承があり、どんなひどいこじつけであっても子どものときから語り伝えられることでそれは一定の効力を有してきた。近代の学校教育はこれを否定し、現代では「子どもの純粋な想像力をはぐくむ」という建前で完全に大人の世界から隔離してしまっている。震災時に高台の神社に逃げて助かった、という教訓は現代のオカルトやスピリチュアルと隣り合わせであり、たとえば土木治水に陰陽師が動員された史実と結びつけて考えられることは少ない。

 

 フランスのアナール学派は、それまで埋もれていた中世史や地域史、音やにおいなどの感覚についての歴史をメインストリームにまで盛り上げた。しかしその民衆史の視点は、近現代のフランス――政教分離やエリート主義で、「未開の」旧植民地や南フランスを締め上げてきた、昨今の移民問題や宗教テロリズムで反省が促されてきたフランスを、中世の「フランク王国」に当てはめているだけにすぎないのではないか、と疑問に思うのだ。日本でもジャーナリスト的な興味本位の政治史を、古代中世に投影する視点が存在する。

 「精神」や「欲望」という内面の理由付けに固執しすぎると、かならず進歩史観や序列づけなど、現代人の賢しらな視点が邪魔をすることとなる。ことに信仰などの民俗の研究には、中世人の持っていた知識、技術への無知を棚に上げて、「素朴な感性」と一括りにしてしまう一種のノスタルジーがあることは、日本や東洋にまつわる研究でも気を付けなければならない。

 

 「風水」という古来の技術がある。住居、都市の選定から陵墓の造営まで、東アジアで広く信ぜられてきた一手法である。三方を山に囲まれたところに代々の陵墓を営み、東西の山河に挟まれたところを都市とするという考えは、道教などと並び、素朴な地母神の母胎回帰願望として考えられることが多い。

 それはそれで文献的な証拠もある。しかしこれらの経験知は、実際に人が住み、皇帝たちを神としてまつるうえで必要な条件というのも内包していたはずである。高温多湿下で死体を腐敗させずに風化させるには、風向きや地下水、洞窟などの冷涼な環境を作り出す必要がある。都市生活を営む上では、舟運や農業を支える大河、鉱石や石材、木材を採掘・加工できて、天然の要害となり、星とともに目印となる山が必須である。

 しかしながら、これらはメリットだけではなく、相応のデメリットも存在する。洪水や山崩れの災害ばかりでなく、川や水路のとどろき、山の木々のさざめきは、たとえば現代のホワイトノイズやピンクノイズのように、永続的に聴き続けたら健康被害や精神的な被害をもたらしたかもしれない(これらのノイズを「胎内」と結びつける考えは、いわば先祖返りともいえる)。貴族の邸宅や別荘が寺社と化したり、巡礼地や聖域が悪所に営まれたのは、こうした定住上の不利を、いかに利益に転換するかという実際的な知恵だったのだろう。地鎮祭や、中世神話などでよくみられる地主神からの土地の寄進という説話として語り継がれることによって、集落の住民のパニック、不安を鎮める役割も果たした。

 

 たとえ文献に明記されていないとはいえ、神話や説話の伝承学は、精神や心性に固執するばかりでなく、その風土が持つ特性を理解して、なぜ同内容の伝承が各地に伝播しているのかを検証する必要がある。また、マンガやアニメに引用され、陳腐化してしまったようなイメージ先行の歴史を転換するきっかけとしたい。