マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

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はじめまして、松屋(マツノヤ)と申します。

古今東西の古典教養、歴史や哲学をまなび、「人文学の復権」として、どういうことができるかを考えていきます。

正直現今の人文学を取り巻く状況は混沌をきわめております。オカルトやファンタジー、イマジネーションのかたまりとして、政治や経済、科学といった実用、実践的な知と切り離され、無用とみなされています。古典教養といえばある種の「美しさ」や、ナショナリズムにむすびつく狭い枠組みが、人文学をホコリまみれの役に立たないものにしていると私は考えています。

また研究のために必要な知識や時間が未知数であるというのも、人文学を小難しくさせているのだと思います。どれだけまなんだとしても、不勉強のそしりは免れえないでしょう。

しかし、古典教養はけっしてローカルなものではなく、われわれの「現在」につながるグローバルな学問であるはずです。古代や中世にも、たとえば通商をつうじて境界を往き来する、不定形な知があったはずです。そうした侵食への拒否反応ともいえる、対抗し、ときには受容し展開してきた古典知をまなぶことは、何がおこるかわからない「未来」、「無常」を見とおし、耐え抜く原動力となりえます。

そのためには、トンデモだ、御都合主義だ、と言われましょうが、ある程度の時代や国家、民族の壁をこえた比較研究を行わねばならない。しかしながら、これまで人文学を支えてきた古今東西の「語り手」が築きあげた世界観を損なわずに、極めて丁寧に扱う必要がある。その上で一種の「開拓精神」、「DIY精神」というべき創意を持ち込むべきでしょう。わたしは言語の特性や物語の類型などを鑑み、情報の伝達や伝承の過程として人文学を考察することが、そうした要求を満たすものであると信じております。

こんなクソ真面目な理想を掲げながら、当分はアイデアをまとめるための雑記となる予定です。もっとビートニクかつパンキッシュにゆきたいものですが。