マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

歴史を説明するのはむずかしい

専攻している分野を他人に説明するのは難しくて仕方がない。

とくに歴史については、自説の(とりあえずの)着地点を、学説史と話すあいての歴史観とを重んじつつ伝えなければならないので、たいてい失敗してわかりづらいものになってしまう。

たんに歴史の話をしたいならば、歴史の教科書や、歴史小説、センセーショナルな逸話の話題で場を保つことは可能である。されども、歴史にまなんできたことを含めて話をしたいときはそうはゆかない。歴史を処世訓や道楽や娯楽ではない、現代や現前する事象を語りうる学芸として社会にむけて発信したいのだ。

わたくしの歴史研究に関していうならば、「迷信」や「驚異」、「民衆の素朴な想像力」として前時代の人文学が考えることを放棄してしまったものごとを、文字文化と口承文化のはざまにて繰り広げられてきた「権威」「言語」「信仰」のゆらぎとして見いだす営みが楽しくてしょうがなかった。さらにこのメカニズムが、古今東西あらゆる歴史という歴史に再発見でき、既存のうつろいゆく「まじめ」な経済史、社会史を背景とした学説史を易々と飛び越えてゆき、おのれのなかに不動心ともいうべき歴史観に結び付いていった。それはもはや過ぎ去ったものではなく、私が切り取った問題意識、「いま」であった。そして「いま」は、散策や読書によってひろがりつづけている。

歴史をまなぶ出発点は、いかに「借り物」の教科書や小説、逸話の歴史観から脱却して、歴史観をみずから生み出すことができるかに懸かっている。そして生まれた歴史観を表明し、共有するための社会的基盤がなければ、歴史を語り合うことはむずかしい。大学も学習塾もいまだその域には達していないように思う。そうしたインフラをいちど作ってみたい。