マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

「まれ」のエコノミー

「まれ」ということばには、時間上の機会の稀少性と空間上の物質の僅少性、どちらのニュアンスもふくまれている。

稀少性や僅少性を人間に適用すれば、まれびと、まろうどとなる。外来の客人や異人をさすことばである。適切に迎え入れることにより恵みをもたらす一方、荒ぶる、コントロールのきかぬ存在として恐れをもって接せられる。

これらのまれびとのイメージは、「まれ」そのものの実体化、擬人化といっても過言ではない。見通しの外から来たるさいわい、わざわいを迎え入れ、留めおき、払う方法を確立することは、共同体の責務であった。印欧語のHospitality(もてなし)とHostility(敵意) や、HotelとHospitalの関連を考えれば、「まれ」「まろうど」に対する饗応と隔離のちかしさに思い至るだろう。王権や狩猟、商業、性、戦闘、芸能、罪、病といった生の無常や刹那を監視し、管理する空間……祭祀の行われる市や宿、聖域への凝集が、「まれ」の基盤に伏在する。アゴラの西洋古代ばかりでなく、近代精神のなかにも、ホテルや監獄、サーカスやテレビジョンに流れ込む生の滞留である。

「まれ」を、例外状態ということができるかもしれない。「ためし」のみならず、「たとえ」ができない状態。「たとえ」譲歩も「たとえ」比喩もままならぬ在り方に「立ち合う」とき、人びとはうたい、「たたえる」。生への渇望が、「まれ」なる存在の異化へとはたらく。そしていつしか、長い間見られていたその構造は常態化してしまう。遊牧するものたちは、異化とも同化ともはなれた、境界をさまよう存在として迎え入れられるようになる。

異化され、活かされる「まれ」は、時間上の往昔と結びつけられ、根深く訣かたれる。遊びの世界では融和していても、法では訣別されているように分かち合われる存在を、共同体の歴史や社会は知っている。しかしながら、我われはつねに日常を生きながら、例外を生きねばならないのだ。

 

京都という街は「例外」を生きている。「まれびと」より見た京都人のステレオタイプが、例外の街としての京都をよく描写している。しかしながら、日本の伝統の起源とされながら、外国人たちの歓待の地となっている京都という地が、いわば「観光器官」として異化されるということは、河原町祇園というあそびの地から京都全体へと例外をひろげる脅威をはらんでいる。したがってさまざまな排斥運動、伝統への固執と革新への共鳴という混沌のなかにみずからを投じているわけだが、それが「排他」として日本全体に拡散されるとき、京都自体が隔離すべき空間として日本人に錯覚される……文化の根こぎにつながる危機をふくむのではないだろうか。