マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

「まれ」を解釈する

前の記事「まれ」というアイデアは一種の感覚=間隔であることに思い至りました。
matsunoya.hatenablog.jp

 ここでいう感覚=間隔とは、集合体としての「ものごと」群に向ける掴み取り作用を意味します。空間上、時間上にあらわれた「同意」の持続が、「日常」「常識」といった思考の集合体を作り出しています。それに「そむく」ことようの同意の在り方が、「まれ」というあらわれです。見通しや意図といった同意の持続を「断ち切る」存在といえましょう。(ものやことがもっている感覚=間隔、「間合い」も、「まれ」の表出によりそれぞれ「まがいもの」「まこと」へと変化するのでしょう。間の考察、場との関連についてはおって記事にいたします)

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「まれ」は権威とその信仰によってさまざまな解釈を受けます。権威と信仰を司る人びとは、さまざまな「喩え」によって、まれな事態(例外状況)を言い做してきました。ある種の気分、ものものしさ、言語を途絶するものは、見立てを通じ、世界観のうちに迎え入れ、留めおかれます。占いや呪術を主とする世界観ではそれは聖なる「兆し」として、その共同体に組み入れられたでしょう。ですが、文化や論理が行き渡った社会では「兆し」は受け容れられません。それはことわりと役わりを与えられ、(とくに近代においては)排除や隔離が行われていたことは万人の首肯するところであります。現代では政治の原動力として着目されたのもマイノリティ、まれの力の一解釈といえます。

たとえば、魔女や病人、王や芸能者といった漂泊する(あそぶ)人びとの「ことば」が、共同体を持続させる儀礼のなかでいかに解釈されるか、「かたり」の哲学を考える上で重要な問題点です。文法や言語学を「かたらい(かたり合い)」の基点として、歴史や社会を「繰り延べる」活路を見いだすためにも。