マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

同意を示すことへの小論

言語をかんがえるとき、「同意」という現象はあまりにも当たり前であるため取り立てて言及されることはまれである。

しかし、同一の意味、同一の意識、同一の意義が「ある」ことを表現しようとすることは、ある空間上、時間上、社会的歴史的関係上のまとまり「ありき」で成り立つといっても過言ではない。間合い、場合を持続させ、際立たせるはたらきが「ある」という演ずる(Performative)動詞である。

「ある」とは意図のもつれであるといってもよい。意図をほどくとき、そこには無を見いださざるを得ない。さりとて「ない」というのは、しかしながら、限りなく「ある」ということであって、ふたたび絡み、解釈する場があらわれるために「待つ」空隙にすぎない。not...but...や、not only...but also...などという文型、あるいは二重否定は、ただ「ない」ことを示すのではなく、次に現れ出る「ある」を促すための修辞であることは、「無」を「ない」と考察するだけでは足りない格好の事例である。「無」は、「同意」などという一条件にはとらわれぬ、異様の「ある」なのだ。

そこからある緊張、一体感を現前せしめるのが、「ある」を殊更に際だたたせるという行為、「企て=鍬立て」といえる。これは、cultureから文化と農耕の一体性、cultから信仰と農耕の一体性を踏まえての地口合わせに他ならない。企てに必要なこよみや風土が「ある」ことをことほぐ権威の在り方が「語る」であり、それは時間や空間についての持続的なまとまりを「同意」した上で、社会的な秩序へと転用されていく。かくして同意はたとえやことわざを生み出す。文字や芸術、芸能はそのしくみを描線や彩り、身体のこわばりによって模倣する。例外もまた、間ー生れ(まれ)として同意のうちに取り込もうとする。

間合いは、「ない」から「ある」(修辞などが示す生成の過程)や、「ある」から「ない」(時制などが示す消尽の過程)といった向きを生ずる。同意を示すことにより、その因果をあきらかにする責務を課される。条件を取り扱う、つまり境界を殊更に重んじ、あるいはゆるがせにすることが、その人自身の価値のあるなしにかかわってくる。「同意」を示すことが信仰であり、政治的な生でもあり、「ありとあらゆるもの」に分別を与え「ありてあるもの」を現すことでもあることは言うまでもない。そこに物語が生まれる。