マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

作品というまやかし

物語は古今東西どこにでもある現象である。あるできごとやものの由来、そして顛末についての知識を共有することは、共同体にとって不可欠な事柄だ。そうした知識を確かにし、共同体の在り方が安定することにより、物語自体を楽しむ、という生活様式が生まれるもとにもなる。

戦後の対立構図が崩壊し、経済も社会も不確定ということが「あらわになったままであった」ーーけっして「新しくあらわれた」ではないーー時代に生まれ、いまだそうした無常を覆い隠すような「ただしさ」、世界観に没入することは困難だ。しかしながら、このような時代においても「ただしさ」を見いだし、魅了される人間もいる。そうした人びとは、たいてい「作品」「作為」「作者」を崇拝し、陶酔している。

物語を一個人や集団の「作為」による「作品」、共有すべき知的背景を作者の「天才」によって片付ける論は世間にあふれている。哲学や数学などは元の書物より多くのページを費やして注解する。人生を費やす人間もいる。マンガやアニメといった娯楽にもこうした活字文化のアナロジーが働き、やはり崇拝が行われる。近現代のあらゆる分野において、「作品」の蓮の実を食らい、「作者」のワインに酔いしれることが当然とされてきたのは、強大な権威や組織によって社会を守るという渇望や使命があってのことと思う。

されど、そうした物語の伝達、伝承の方法は学問としては厄介である。正典について直の情報や知識は均等に広がらず、歪像となって伝わる。同じ時代や社会を共有する文化でも、似ても似つかぬ形を取ってあらわれることとなり、いちいち差異や同一性を比較することは労力と成果に見合わない。また、作品や作者の個性、それらにたいする思い入れなども崇高化され、抽象や捨象を行うことがタブーとなってゆく。時代や社会への考察は微視的に、作品や作者にまつわる共同体は粗雑に維持されることとなる。

「作品」「作為」「作者」という考え方が近現代以前、近現代周縁の思惟にあたえた影響も無視できない。物語を民衆や未開人による「作品」のように扱い、「子供部屋」「雑誌」のなかにに追いやり、その社会的意味や意義を消耗させたことは、物語が共有されてきた社会を国家や民族といった大文字社会に服従させ、それ自体の活性や発信力は無きに等しいものとしていった。そうした成果物である国家や民族においても、国際社会などというあらたな大文字社会によって孤立し、ものごとを動かせないほどの無力に陥っている。

「作品」「作為」「作者」崇拝は「書く」という行為を神聖化して、物語をそこに「閉じこめる」ことで、物語るべき社会もまた揺るぎないものになる。肥大した帝国は、ある種の詩人、独裁者(Dictator)の神託がなければ動かしえぬものとなってしまう。

 

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