マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

情報産業と人文学的知

いまのように漫然と人文学的知が利用されている状況を変えたい。

本が売れない、活字が読まれないという状況が何年も続いている。それは、社会がもはや欲望とか帝国とかいった理念を共有せずに細分化を重ねていった結果のようにも思える。本の形をとらなくても、人びとは人文学的知を共有できるようにはなった。しかしながら、その意味するところーー欲望や、帝国へと向かう目的のない情報や社会は、何らの形をとることなく(インフォーマルかつアンフォルメルに)自壊していくのみであろう。

無文字的知の無目的な崇拝。社会人としてしきたり、経験知が過剰なまでに追求されるのは、いわば武士道や騎士道以前の武士や騎士の、聖職者たちによって描写されるような野放図な有り様と似たところがある。目的のない知識が背信や冒涜といった魔的かつ病的な行為をもってあらわれるのだ。しかしながら、人文学的知としてはかつての「聖職者」側の、欲望や帝国が明確に機能していた時代のものが依然として議論を経ぬまま利用されており、それら目的が再発見され社会や歴史がふたたび大文字のものへと帰すかも知れない。その時のためにいかに人文学的知を洗練させ、活用できるかが問題となる。

セレンディピティ積ん読といった経験知のなかに見いだしうるのは、情報の取捨選択ばかりでなく、組み合わせ、取り合わせの時代感覚がものを言うということだ。本が売れない、活字が読まれないというのも、1冊だけでは欲望を満たし得ない、おのれが帝国のいち組織やいち器官であることををはっきりと意識することができないことに尽きる。

古典的教養がわれわれの間でじゅうぶん共有されているのならば、かような組み合わせ、取り合わせのセンスを考えずとも本の意義をとらえられるはずであるが、いまの学校教育で教養は学び得ないし、「学校教育が終われば社会人」という通念があっては、社会人が教養を学び直す機会も滅多にない。これからの情報産業は、いかに教養を学び直させるか、またはいかに教養の代替物として、組み合わせや取り合わせをサジェストするかが重要となる。

わたしが目下構想しているのは、人文学的知の銀行のような情報産業である。たとえば地方創生や環境との共存といった目的のもと、文化財伝統芸能、それにまつわる学術研究など文化的サービスの情報を「預託する」。そしてSDGsなどといった投資基準にあわせて成形し、収益できるような「学融商品」として発信していく、といったものである。産学官や研究機関、美術館に博物館が連携し、街おこしや学び直しのために、「学融商品」を活用するようになるだろう。

このサイトでも、現代の知的欲求にこたえるような、歴史や文化を複合した「学融商品」として、さまざまな研究をおこなうための「参考文献目録」と「目論見」を記事にしていきたいと考えている。まだ当分は下書きのようなものになるだろうし、おそらく別のサイトで本格的に行うこととなるだろうが……

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