マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

芸能、マス・コミュニケーション、信仰、旅、災害、病

表題に掲げた語群は、太古よりこのかた社会的連関を保ったまま、各地で文化現象を、つまり「かたり」をかたちづくっている。

従来多くの言語学は、おもに構文や発話行為といった「国家語」「民族語」の研究をしていても、その「かたる」対象ははなはだ空想的である。文は「禁止」「命令」「現在」「過去」等々と分類され、どこか静的というか、その国家、民族をかたちづくってきた「かたり」に踏み込んでくることはない。これらをかたちづくってきた過程を考察するかわりに、もう既製品となった国家や民族から(あるいは宗教など、諸社会集団を考えてもいいだろう)言語が生い出でるように考えているふしがある。

既製品、ということばで言い表したように、言語は一定の用法と用量を守って「行儀よく」使われる不変/普遍なものというイメージで一般的にはとらえられているようだ。毎年「日本語の乱れ」を詮索するような国語調査が行われるのもその証左といえる。変化は「乱れ」なのだ。「怪力乱神を語らず」ということばがあるが、乱れ、災いを適切に管理し、技術(わざ)として拡散するのが権威の権威たる所以であって、哲学も言語学など諸学問もそうした信念によって「乱れ」を塗り潰して既製品たる学問体系を維持しているわけだ。学問を志すひとは一種の技術者として、読み書きを通じかりそめの管理手法や生活様式をまなびながら、「乱れ」と対峙せざるを得ない。多くの場合、「乱れ」は学問体系から、管理する権威のもとを離れた歪像として描かれる。

しかしながら「乱れ」、およびその成果としての文化現象の混淆は欲望を駆り立て、権威そのものを時間的にも空間的にも繰り広げさせる要因たりえる。さまざまな「まれ」なるものの漂泊……たとえば英雄や貴族は争いに敗れ、落魄し、怨霊となる。災害や疫病の流行は彼らの威勢を想起させる(「たとえ」がはたらく)。権力者は彼らがかつて所有していた道具や武具を封印し、祭祀によって安んぜしめようとするだろう。そうした「口寄せ」行為はさまざまな芸能やマス・コミュニケーションといった模倣へと変容しつつ社会に浸透し、あらゆる人びとの欲望を権威へのひとつの信仰の形として実現しようとする。

「乱れ」は本質的には大体かくなる劇(ドラマ)的展開を描くが、時代、地域ごとに異なった印象をもたらすだろう。断片と化し、取り扱う学問体系もそれぞれことなっているからである。とくに現代においてはことごとく細分化されているため、人びとを茫然と衝き動かすような欲望は、「個人」の領域にとらわれてしまっている。現代のこうした「乱れ」への無理解が、言語を矮小化せしめ、知を分断し不可解のままに留めおく。