マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

客観的に仮構された時間としての歴史学

「構造」空間→時間→社会的関係群(社会集団、役職、共通尺度)

「意味」符合→強意→階層化および秩序化

 

古代や中世の歴史は解釈が困難である。それは物語と歴史が不可分であることも勿論ながら、そこに措かれている事象が多くの社会的関係群とかかわっているため、混乱を見てとらざるを得ない。神話や言語の「例え」の性質……音の模倣的関連、意味の比喩的運用が「起源」として居すわっているが、それは実体ではなく「作用」として捉えられる必要がある。

われわれが知覚するにあたっては、向きをしめすいくつもの作用が折り重なり、ある循環をもつような実体が「ある」ように感じられる。それは実際には「ない」おそれを抱かぬほどに明らかなように演じられている。たとえ不在であったとしても、そこになにがしかが引き込まれるような「ふくみ」が「ある」。その過剰がまず意識されるのは空間というかたちにおいてであり、やがてそれは「変化」として近くされることにより時間に変容し、かたりの中で社会的階序にむすびつけられる。その思考法がもっとも顕著にあらわれるのは名前の禁忌であり、その他呪術的な儀礼においても、このような言語的な顛倒が目に見える形で表現されるだろう。

物語と歴史の不可分性も、言語の作用の曖昧さに端を発すると言っても過言ではない。古代中世の語りと信仰における区別のあやうさもさることながら、近現代における学術研究と思想の宣伝ーー歴史観との混乱によっても、歴史がなかば呪術的に社会を束縛している証といえるだろう。

社会的関係群に帰せられてきた、精神、理性、美といったさまざまな価値観が、実体として歴史を動かしている……こうした幻想が歴史に能動的や受動的といった向きを与え、中動的な言語の「作用」として考えることを妨げている。かくして語りのスタイルは、劇的な知をーー「名前」として空間の固着を、「変化」として時間の可視化を欲望する。

学問のことわり、階層と秩序の形成は、仮構された時間ありきで成り立つ。歴史についてまなぶことは、この作用のメカニズムを歴史的実体を用いてかたり、明らかにしなければならないという、根本的な窮屈さを抱えているのだ。