マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

ロゴスの探究ーー嗜劇性の人文学体系

ことばという行為によって運ばれる形式と質料については、それを訣ち考えることができない。元来ことばとは、書物に記されるまでもなく、また書字が一般的になっても何者かに効力を強いるために運用される劇的かつ呪術的であった。それを記号や理念型、属性といった無味乾燥なものと、主題や精神といった湿気たことに分断してしまった時代がある。政治的な混乱や知的な迷走などと、いままでろくなことがあった験しがないのであるが、ともかくこれらを混淆させねば人文学は活動していかぬのだ。

 

言語形式とロゴス

文法に生じるロゴス

ことばはことの端(もの)であり、ことの場(のり)ともなりえる。ことばの定義について古来よりさまざまな定義がなされてきたが、確かに「ある」といいうるのは、名詞や動詞などの「存在」ではなく、例えば声とものと言い成されるような双方一定の領域を結び付けるはたらき、これのみである。あれとこれを結び付けるもの、それを認めるはたらきとあわせて「同意」とよび、ことにことばに限定するならばそれを「符合」とよぼう。

さらに、「符合」そのものが一定の条件のもと別の符合に関連付けられるとき、それは比喩として、その用法のみならず一定の条件を強めるべき「かた」として認識される。すべての言語は個人個人のことばを律し、その立場を識別する「集団語」ともいうべき集合体を形成している。一つひとつの語の意味のみならず、文法的なカテゴリーも、その正統性および正当性をふくめ、この集合体意識に支配されている。集合体意識によってコントロールされうるのは、その表現の「強意性」、直截的な物言いと婉曲的な物言いといった重みづけに帰着する。時間の前後や空間の遠近、人間たる話者の属性にいたるまで、さまざまな比喩のケースのもと、あらたな表現が生まれる。

そして、名詞に連体的「分節」(形容詞)、動詞に連用的「分節」(副詞や前置詞助詞助動詞接続詞)を想定しなければならぬように、親=分節と仔=分節によるつながりを――この表現はある変形文法の本から借りたが――考える。子分の多い親分ほど強いように、自然な文章であれば、全体の文章のなかでも多くの仔=分節で条件付けされる親=分節が、より強意的であるのではないか。

 

根源として扱われるような、無限定な「ある」ほど集合体を「同意なしに」包摂せしめる勢力はない。しかしながら、無限定な「ある」はいささかの「同意」も得られぬ個人的な領域に根差し、つまり言語を杜絶せしめているため、たとえば宗教などのテクスト共同体で取り扱われるときは、仔=分節を多く引き連れた親=分節を備えた「ことわり」という形で模倣される。

 

言語質料とロゴス

かたりに生じるロゴス

以上に述べた文法の「かた」は、符合をつうじて共同体の諸事物の「形代」としてはたらきかける。つまり、「例(たとえ)」として、身代わりと変わり身のもとになるのである。

それぞれの空間において集積された知は「風土」、時間は「こよみ」として習慣化され、社会的関係群のさまざまな顕現(あらわれ)へとーー価値尺度慣例といった解釈の集合体をなす。

集合体はみずからの要素の所有と変換だけでなく、ほかの体系との共有と交換(Communication)を行っている。労働や欲望がその代表的な表現である。それは祭祀や信仰といった小文字の文化(culture)として、かつては「風土」と「こよみ」に拘束されていた。しかしながら、近現代のある時期を境にして、社会的関係群の優位とともに大文字たちの文学(Literature)や科学(Science)へと変化していく。

大文字たちの、という言葉で表現したいのは、「常設」の文学や科学が知となりえたのは、風土やこよみを離れた、理想的な空間や時間の創発と、国家、民族、精神、理性、美などの解釈の一般化が、ほぼ同時に現象として見られるということである。

それ以前の小文字の文化の「かた」は、「非常」「無常」にたいして時間知や空間知を適用し、社会的秩序へと取りこもうとする「例外」の知であった。驚異や脅威にたいする起源譚や応報譚、それらはまさしく呪術的であり、迷信的であり、劇的ともいえる。

ところが近世以来の「かた」は、これら例外の知には生き残りを許さなかった。例外であることは異常であり、「常設」の権威へと示し合わせ、変化のない空間、時間、社会的関係へとみずからを装うことが、ともかくも自由の体現とされた。

国家、民族、精神、理性、美などの義務のもと欲望し、労働することによって、相応の権利を得るシステムの「再生」。自らの社会や歴史もそれにしたがって解釈され、「晴れ」と「褻」、「労働」と「余暇」、「聖なるもの」と「穢れたもの」などの対なるかたが「つねに」あるかのように、それまでの社会や歴史を再解釈し、模倣していった。結果、常設された欲望はその境界線を拡げ、際限なく肥大し、「帝国」をその時間軸上、空間軸上に展開し、やがて跡形もなく消えていった。

残ったのは「風土」や「こよみ」の集積を軽んじた瞬間的な(Ephemeral)欲望の充足経路、それをかろうじて支える地球儀的妄想(Globalism)、そして作者の作為を反芻するために仕立て上げられた作品群(Masterpiece)である。古今東西の古典的な抒情詩、叙景詩、叙事詩が受け持っていた機能を、より先鋭化する形で、映像音声やプロパガンダ、文字情報が行き来する。これらは常設的な自我を保ちながら、活用させることなく非常状態、例外状況のもと埋没させようとするだろう。あらゆる価値尺度や慣習が大文字の文学や科学により階層秩序となり居座っているがため、その下の自我や無意識は模造されたステレオタイプ代理人、さしずめ身代わり、変わり身でしかないのだ。

それはあまりにも窮屈であるので、ひとはたびたび劇的なしぐさ、ことばによって責務を免れようとする。大文字の圧制から小文字の文化、主流から傍流へと逸れることを学んだ人は仮面をかぶり、劇へと身を投ずる。しかし、自身のかたりに生じたロゴスを看破し、劇薬としてみずからを救うことのできる者はいるだろうか。その意味における再生は難しい。

 

古代から現代までにいたる言語呪術、あるいは芸能と呼ばれるものを収集しなければならない。笑いや涙といった情感は、古代中世の早い時期から儀礼とともにコントロールが志されており、近世に国家的精神のもと厳しいマナーを与えられ、近現代のさまざまな「発見」を介して、近頃は分散し、鬱屈しているように見える。つねに権威と結びつき、「理性化」の過程をたどってきた芸能は、古代ギリシアや中国のハルモニアの時代から遠く離れ、再び暴力と同体であることを暴かれようとしている。言語的にも哲学的にもあまり考察されてこなかった言語の嗜劇的側面を考察することで、人文学にまつわる議論が活発なものになるのを願って。