マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

学融資本論――客観性と観客性

 これの続き。

matsunoya.hatenablog.jp

 

景気次第ではあるものの、この数年のうちに経営破綻、機能不全に陥る大学や大学院はおそらく国公立、私立を問わず増えるのではないか、と考えている。学生は学生で高校卒業世代が少なくなるだろうし、学費の負担も重くなる。教授も教授で、事務的な仕事が増え、言論執筆活動とのバランスをとるのがいっそう難しくなると思う。

それでも、若い労働力や購買力の確保や就職予備校としての性質から、地域社会や企業は大学という集金マシーンを見放すことはないだろう。大学自治という建前はあるが、採算の取れなくなった大学は、地方公共団体や民間企業の支援や介入を受けることとなる。これまた先の見えない出版産業や銀行業、とくに地銀を抱き込んで、地域や企業系列に深く根差した、あらたな学歴学閥社会ともいうべき「人財閥」を形成するのではないか、と見ている。

おそらく、「京都学」の如き地域の文化や伝統を学ぶ授業が増えることによって地元産業やローカル中小企業志向は強まると思うし、就職予備校や学習塾などがあらかじめ研究のためのリテラシーや情報収集能力を習得させるカリキュラムを提供することによって、高校から大学への学修環境の変化をスムーズに移行させるような利点も生まれるだろう。基礎教育や就職活動にかかる大学の負担は間違いなく減る。

文系・理系問わず家計的な余裕の元、均質で高度な教育を受け、グループ企業や地方公務員として就職し、必要があればリカレント教育によってキャリアを充実させることも可能というサイクルが生み出される……といえば聞こえはいい。しかしながら「人財閥」は、結局安定した就職や大学運営ばかりにメリットがあって、研究に貢献する面は少ない。学究とはすすんで専門外の知識を取り入れる外部への運動であって、学会や学統という内部の安定をもとめる教育とは性質のガラリと異なった代物である。

 

そうした苦境では、学究の展開、とくに啓発活動は後回しにされていくだろう。とくに人文学研究という「実用的」とは通常みなされていない分野では、現在でもソーシャル・ネットワーククラスタなどで爆発的に流行るが、一般的な認識は更新されないまま、またあらたな研究動向とのズレは開いたままである。

というのも、一般的な研究における「わかりやすさ」や「客観性」というのは、仲間内での慣例として通用するところのそれであって、決して面白い見せ方や特徴あるスタイルを追求することではないのである。それは実のところ内部の教育システムにおける主観にすぎない。観客のいる客観で研究ができたなら、どれほどよいことか。

異なる学域の人びとと、おのれの学究を見せ合い、そこから創作活動をはじめ、メディアで発信する、という循環を作れるならば、喜んで身をささげたい。知的なインフラストラクチャーとして、論文や研究成果の一風変わった共有は、いみじくも文化立国を掲げるならば、五輪万博前後の一大責務となるだろう。

 

とりあえず今の時点では、書店に「教科書から読み解く」や「日本人の常識」などという惹句が躍るかぎり、みずからの専門領域に基本的な知的インフラが成っていないことを学究者は自戒せねばならない。そして、すくなくとも歴史研究においては「歴史小説」「歴史教育」と「史学研究」がごたまぜになっている現実は直視せずにはいられないだろう。(「史学研究」といえど日本史関連書籍しか売る気の無いことも、嘆かわしいことである。)