聖徳太子と秦氏の関係、そして秦の始皇帝やユダヤ教、ネストリウス派キリスト教との妖しげなかかわりについては、何冊もの本が著されてきたのでここではあえて論じない。いくら鎮護国家や律令国家、守護地頭といった体制が整えられたとはいえ、古代や中世における国家や仏教は現代におけるそれとは根本的に異なるといわねばならない。
口承的な「語り」によって緩やかにまとまってきた社会や歴史は、研究者がいかに文章を弄しても、書物の「文化」ではけして近似することはできないものがある。ここを閑却して、書物文化と国家権力や信仰をむりやり重ね合わせていった結果、社会や歴史はヒエラルキーと選民主義に満ち満ちた無知へと人を導く。
「聖徳太子」像はこの「語り」の歪みを受けた最たるものだと思う。「聖徳太子は実在しない」という説は、歴史になにがしかの事実を見出して、それへの知識を根掘り葉掘り調べて満足する「歴史総力戦」的態度においては、現実に存在した「厩戸皇子」の事実とそれ以外の空想を分別する大義名分である。「聖徳太子キリスト説」というのも日本と西欧が肩を並べる文明国だという主張のためなら結構だろう。
しかしそれは近現代の社会的ヒエラルキーを映した物語であって、歴史研究だとは考えられない。「シルクロード」「海上の道」のような交易路と、そこに生きた人びとの生――信仰、巡礼のさま、権力のありよう――その名状しがたき暴力性を記述してはじめて、歴史を研究したことになる、と私は思う。
太秦や四天王寺はそうした暴力の起点であり、いまもそうでありつづけている。秦河勝と聖徳太子の伝説の故地は、いまでも舞楽や能楽、そして映画等々娯楽の発生地として名を残してきた。それは同時に、交易の要衝として兵士や労働人足、芸能的信仰者などが集まる政治的に不安定な土地であるといえる(もちろん、地理的に災害も多く、不安定だと社会的変動にも直結するという背景もある。そのような状況下では、現世的享楽のみならず、浄土信仰などの想像が必要とされる)。
権威と安定をもとめる貴族、寺社仏閣は私的な娯楽を不道徳とし、道徳的かつ公な娯楽へと作り変えることによって、こうした悪所を統治していったと考えられる。「聖徳太子」「弘法大師」などの国家的宗教的救世主像は、そうした上からも下からも要請された、抽象化された「太子」や「大師」にまつわる物語から生まれた虚像であろう。
秦氏が秦の始皇帝の子孫であるという伝承や、ユダヤ教やネストリウス派キリスト教を信仰していたという説は、この「太子」や「大師」にまつわる伝説群を定着させたことに発すると思われる(史記の燕の太子丹と始皇帝、舞楽の「蘭陵王」などが「太子」説話群にはいり、杖から木が生えたり井戸を掘りあてるという奇跡譚が「大師」説話にはいる。シルクロードの西では、ヘレニズム期に流行したアレクサンドロス大王やテュアナのアポロニオスの説話がおなじように演じられてきたのだと思う。また賤民とみなされた渡し守「ワタシ」や「タイシ」は、この関係でとらえられるべき)。そして、「ミトラス」という思想と信仰が、この物語へ密接にかかわっているのではないかというのが、長々と書き連ねた本稿の核心である。
ミトラス信仰はペルシアの光明神が、「契約」という抽象的な事象の守護神という立ち位置で奉じられ、ローマの兵士や下層民による秘儀的な信仰として盛行した。ただし、ここで扱うミトラス信仰は、こうしたペルシアやローマに残存した遺構から類推された、近現代のオリエント学で「ミトラ教」とされるものからは外れるように思う。
交易路において漠然と共有されてきた、経済的な商慣習や消費に必要な「契約」とその「対価」という知識が、宗教的な行と救済に適用される現象、これが私の考えるミトラスの思想と信仰である。そこには「太陽神」という明るさ=明確さの隠喩がはたらいている。そしてミトラスへの渇望は、弥勒信仰という明らかな影響のみならず、そのヒエラルキー――大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父――を日本の芸能の「かた」へと持ち込んだ(正倉院の舞楽面が、この位階を反映しているという説がある。伊藤義教か井本英一だったか、また日本の舞楽や猿楽の創始者とされた秦河勝が、『明宿集』なので初瀬の川から童児として流れてきた伝承をもつことも、オリエントとのつながりを考えさせる)。
ローマのミトラス教でこれらの信仰を担うのが男性のみだったというのは、現代的な密儀宗教観というより、演じるうえの禁欲、女形などの需要だったのではないか。マツロワヌ異人や鬼にさらわれる娘、鳥人や猛獣への畏怖と討伐、神威の使者に導かれる兵士、あらゆるものに成りきり、「契約」と「対価」をまねぶことが、軍事的宗教的政治的な規律のために必要とされたと、私は見ている。
聖徳太子の物語、そして展開にも「契約」と「対価」が、仏教的色彩ではあるが表現されている。四天王寺の創建、片岡山の飢人など喧伝された説話は、太子がさかんに仏と結縁し、現世的利益を得たことを強調している。そればかりか、聖徳太子は「未来記」を著すことによって、不安定な中世を生きる人々にも生の救済という契約と対価をもたらそうとした。もちろんそれは学僧たちの仮託だけれども、ミトラス的発想が長い時間を経て持続してきたことを証するに余りある。
「大師」とミトラスの関係については、高野真言系、浄土思想系などによっておおくのヴァリアントがありそうなので(不勉強なので)、ここでは詳述しない。ただ、京都そのほかの六斎念仏や大念仏狂言は、もっともラディカルにミトラスを表現している芸能だとおもう。農耕的な田楽と、それを真似た猿楽、そして能やかぶきへの発展は、舞楽経由での影響がありそうだ(念仏やかぶきについては死者の一時的再生という別の文脈から論じる必要がある)。
ここまで考えを巡らせたところで、名状されがたい「暴力」を公に認めさせるためには、「契約」と「対価」を表明し、それが受け入れられなければならない……という法的なシステム、思考が働いていることがわかってきた。古代や中世において物語るということは、たんなるシュールな空想を開陳するのではなく、こうした思想的支柱において物語る、ということだったのではないか(パレーシア、ともいえるかもしれない)。