マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

Introduction to Drasmatica――唯劇論と飛躍

 長年積ん読していたホカートの『王権』(岩波文庫)を読んでいたら、ミトラス教のことについて書いてあったり、「唯劇論」に活かせそうなアイデアを多く見つけた。というよりアウグスティヌスが聖書を「取りて、読め(Tolle, lege)」してしまったようにままある話で、その時どきの興味関心に沿った本選びをできているということなのでしょう。ホカート自身は何か民俗学や人類学的視点に立って世界中の王権やイニシエーションなどの習俗の考察を行っていたようであるが、正直海や陸は壁として隔てるためではなく、行き来するために存在するものである(すくなくとも、べきである)ので、「起源」とはいえなくても、通商路上のこうした儀礼意識の共有はあったと思う。

 オリエントと中国、そしてインド・ヨーロッパのさまざまな文化を同一起源とするのは全き絵空事のように扱われているふしがある。さすがに、川崎真治が唱えるように、シュメール語を音韻変化してどうこうすると日本語になる、というのは飛躍がある。しかしながら従来の騎馬民族史観や渡来史観のような、一時代に異民族が流入して、そのまま対立構造が神話なり歴史に反映する……というのは同じように飛躍を感じるのは、私だけであろうか。畢竟ゲルマン民族大移動というのも、「ローマ帝国衰亡史」のようなドラマによって演出された一種の飛躍なのである。しかしながら、現代の移民問題や外国人労働問題にいたるまで、そうした考えによって生み出されたパラダイムは、後世の人間をずっと束縛することになる。戦争中の捕虜や労働者の取り扱いについて糾弾しながら、外国人実習生についてのドキュメンタリーを美談のごとく放送するテレビは、なんと無思慮なことだろうか!

 現実には、現在われわれが直面しているような、曖昧な「われわれ」という存在、どこから来たのかもしれないマージナルな現われしかいないのである。そこから、皆の信用に耐えるようなドラマを生み出し、歴史として作用させていく熱量と力量を備えた人間が現れるのを待つほかない。

 現代においてもなお、古代や中世とおなじように、カリスマ(賜物)であり、ドラスティックであり、ドラマティックであるところの「劇(Drasmatica)」が求められている。あらゆる人文学、哲学や歴史、言語学や宗教、民俗学について学ぶことは、科学や経済といったPerformanceに屈したDrasmaticaを学ぶことに他ならない。科学や経済というPerformative Actは、かつての王権とイニシエーションのアナロジーのような聖性によるヒエラルキー、聖地や祭祀のバイオリズムなどと同じように、人びとを社会的に関係づける。だれも、東京の地下深くに猿人の骨が埋まっているとは思わず、東アフリカの発展途上の土地を目指すし、ゲノム解析では当人の社会的地位と交友に応じた血縁関係が暴露されると信じている(だいぶ穏当に書けた)。

 しかしながら基本的には、気候を神の所業(Deus ex Machina)、夢を無意識の所為(Es)と捉えたような形式主語やDeponentiaの領域からは一歩も出てはいないのだ。それは、極限的に突き詰めるならば生と死のような「飛躍」を埋めるために、「われ」と「なんじ」の契約や、「それ」による攪乱を思考し、物語っていく「劇」の営みが、現代まで生きながらえていることの証左であろう。