マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

隠喩と語源

 語源は基本的に眉唾ものである。とくに即物的、明示的にかたられる「語源」は、たいていがこじつけである。地名などがその典型であろう。それを収集、検証し学問体系にまで昇華するのはまず稀有な大事業だ。言語というのは社会生活の根幹であるため、その正統性と正当性は常に問われるところのものである。

 しかしながら、われわれは日常のなかで「語源」までさかのぼり意識して生活することはない。語源は、特別な「物語」なしでは判然としない。あるいは、各々の淵源というべき特殊な「集団」に思いを致す機会がなければ、言語を共時的、通時的に分析し、正そうと考えることすらないだろう。

 「女房詞」や「コックニー」、「方言」や「外来語」、「隠語」など、近代は国家語の形成過程で、さまざまな集団語を階層化した。方言が波状に分布すると考えた民俗学者たちがその最たる例であろう。文字に残っている史料から再構するならば、宮廷語から中央集権的に武士、商人、農民に言語が模倣されていく、という図式を思い描くのは容易である。かくして、他に類をみない、というより類を求めない「日本語」という規範が生まれ、方言や非容認的な言葉遣いに煩い慣習が生まれた(これは近代国家語ならばほぼ同じ道をたどっているといえる、ただしヨーロッパには印欧語源という緩やかなまとまりがあった)

 そこで、なぜ「ことば」を模倣するかという問いが残る。みずからを他の集団に融即(Participate)させる、なりきるという行為を考察することなしには、語源の表層的な虚構を受け取っているだけにすぎない。わたしはそこに「隠喩」というシステムがかかわっていると考える。

 音声という不明確な伝達手段を文字によって記録する手続き自体が、伝承を権威へと近づけることとなる。その際、さまざまな「他者的要素」が隠喩によって把握される。前世紀に「母権」としてとらえられたような、神殿売春や予言、性愛的要素は、国家的理念や欲望へと塗り替えられ、方言や牧歌といった素朴的な文学技巧は、同様に「黄金時代」「理想郷」といった終末論と表裏一体のイデオロギーへと置き換えられていく。他者の隠喩による同化が、古典教養を形成するといっても過言ではない。

 こうした隠喩の体系は、ローマ=ヘレニズム文学によるギリシア精神の再解釈、詩経儒教による受容、歌垣などの儀礼歌の神話への編纂、古今東西さまざまなムーブメントとして表出している。そして現代にも起こる可能性が十分にある。そしてこの二重の運動が、語源のあらましをせせこましい境界に押し込め、一層錯綜したものにしている。これに抗しようとするわたしの唯劇論的立場は、すでにこのブログで数本述べたので、そこも適宜参照いただきたい。

 

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