マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

伝説リバイバル考:地名とオノマトペ

 これまで「民族」「渡来」集団居住の証拠と捉えられてきた地名。しかし事情はむしろ逆で、気候条件や地形を「地名」として名乗る(その始まりはオノマトペ擬声語や擬態語があったと思う)集団があり、伝承としてさまざまに分化を遂げた、と考えるのが自然であろう。

 縄文語・弥生語という区分を設け、その他種々の外国語で読み解く向きもある。当然それも参考となる。ただ、そうした集団語は社会的な関係をかえって地名に仮託して、伝承、伝達を(詩などで)かたることで形成された文学をもととするため、深入りすると「物語」の域を出ないおそれがある。とくに、農耕民族や農耕の伝来を一パラダイムとして日本史を構成する史観は、さまざまな技術の史的追跡を難しくした。

 現代の移民問題外国人労働者のように、人びとの「交渉」は断続的に、リテラシーの域外で起こりうるものだと思う。そしてその境域で頻繁に起こるアイデンティティの揺らぎのために、「語り」は必要なのだ。そこを考慮することなしに一緒くたにして人文学研究自体を誰彼のアイデンティティの「語り」に同化させてしまったのは、まことに惜しむべき人文学の愚行であった。今も無邪気なことに続いているのであるが。

 地名の結びつきを、依然述べたニュアンセームごとに考えてみた。もともと間違いは承知の上である。

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K-P/M「クマ・クメ・カミ・カモ・コマ」隈地、窪地

K-S/T「コシ・クス・カシ」丘陵地、崩落地

K-L/R 「カラ・クリ・クル・クレ」屈曲、空洞

「穹窿」「蒲蘆」などの漢語も視野に入っている。山地に囲まれ、あるいは川に「えぐれた」盆地などを指すか。ひょうたんなどを用いて洪水を逃れる説話が中国雲南少数民族にあるという(鈴木健之「葫蘆考」『東京学芸大学紀要』1984年)。日本では桃太郎などの小さ子の来訪があったり、浦島が「亀」に乗って竜宮を行き来する話がある。特に後者の説話では他界への行き来がクローズアップされるが、重要なのは帰ってきたら家がなくなり自分を知る人もいなくなっていたというところである。こうした土地では崩落や洪水などが頻繁に起こった土地の事情を反映しているように思う。

 

S/T-N「シノブ・シナ・セ・チヌ」 風⇒山

P/M-S/T「ハセ・ハシ」風・急流

 P/M-S/T「モト・マチ・ミチ・ハタ・ハト・フト」農村、田畑

 茅渟(大阪湾の旧名)、更科・信濃そして山科など。海沿いの風の激しい地域から山がちで颪の吹く地帯へ。海と山の間を川がつないでいる。山、川、海は自然の境界を作り出す。

 女性の呼称「マチ・ムチ・マンジ」と山村の関係。「山の神」という異称が象徴するように、女性は嫁入りを経て他界との交渉を担う。宮中に仕える女房の名前に地名が用いられるのもこれに関連する。詩歌の文化のなかで、「小野小町」「玉造小町」と衰え、死が隣り合わせであるのも、こうした複雑な文脈――山村における来訪者との交流や祭祀芸能がかかわっているのだと思う。

 「マンジ」から、狩人の始祖磐司磐三郎を思い浮かべたり、オオクニヌシの異名、大己貴(オオナムチ)を連想することもできる。狩人、山伏から分岐したとおもわれる武士は、名乗りのときに武家官位を自称する。刀匠は受領名を名乗り、鬼の子孫を自称する八瀬童子も隠居すると国名を名乗る。力士も国名や名勝を名乗りとする。国という「マチ」の名を名乗ることは、生殺という境界を司る役わりと、境界をもつ国名のアナロジーから生じた、先の官女の名乗りと同様の信仰的文脈があると考えられる。

 名乗りのタブーを背景に、こうした境界システムを取り仕切っていた朝廷は、川を通じて山人と農耕民が交流してきた古俗を連綿と維持してきたのだと思う。

 

S/T-S/T「ワタシ・タイシ・タヂヒ」渡し場、岸

P/M-L/R「マル・ムロ・モリ・ムラ・フル」職工、採掘

S/T-K「サカ・サコ・タカ・ソガ・シュク・スクネ・スクナ」山地、市、宿

「嵯峨」「愛宕」などの地名を想定に入れている。

太子信仰、大師信仰については以前ここに書き散らしたことがある。

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  そこには書かなかったが、太子(または大師)信仰には、「夙」という概念が密接にかかわっていると思う。宿場というシステムにも契約とその履行が求められるし、そこを拠点にする非定住民、舟守や職工たちにとっても契約は生命線であった(「竹取物語」でも、戯画化された形で契約とその不履行が取り扱われている)。山路や河原という不安定な地域では、災害が起こると仕事が立ちいかなくなる。貨幣経済とか信用経済云々というように概念化される前でも、契約を守ることは政治宗教的安定として権威者にとっては一大関心事だったに違いない。

 太子や大師「たち」による契約の超人的履行(黒駒に乗り富士山越え、井戸の掘り当て、未来記やおみくじなどの予言)、そして弥勒阿弥陀の救済思想はこうした実際背景による説話であると思う。華々しい神仏や英雄の活躍のいっぽうで、北欧の「血浴」のようなグロテスクな復讐行為も、また芸能において好まれたと思う。まず歴史として物部氏、上宮王家、蘇我氏の滅亡として上代に取り込まれ、町人たちにとって蘇民将来祇園御霊会の主役となり、曽我の敵討ちが正月歌舞伎の人気演目となったように、芸能文化の中に脈々と維持されてきた。御霊や義理人情といった心性への発展と、職能民の卑賤視というヒエラルキー意識が地域に刻まれることとなる。

 歌(転)、和歌(若水アイヌ語ワッカと関係あるか)、そして西行橋から迫(さこ)を導き、地名と洪水や勧進を考えることというのもやってみたいが……資料が集まるかはわからない。

 

P/M-N「ハナ・ハニ・ハネ・ワニ」土、丹

K-K、N-K「カカチ・カハチ、ナガ」蛇(のような川)

 鰐(サメ)や蛇にかんする伝承は多い。その背景として、前者には陶磁器交易が、後者にはその流通を支えた河川があると思う。因幡の白兎や海幸山幸の説話で「鰐」とされた神々は、おそらくこうした商業民である(大和神話に人間誕生の説話がないことは、職能民と朝廷との関係を説明するために神話が編纂されたという背景があると思う。交易で出会うものは「神」であり、天皇との義兄弟関係によって秩序化される、いわゆる加上説が行われたと考える)異類として認識された職能民は、すすぎ、すすませる住吉三神により清められ、槌、星(つつ)として雲居に詣でたのだろう。

 

S/T-L/R「サル・サラ・シラ・シロ・テル・テラ」城館、寺社

P/M-L/R「ハラ・ヒラ」平地

 平野などの物資の集積地では寺社が栄え、また屋敷がひろがる。そこでは災害や戦乱によって多くの寺や城館が失われてきたのも事実で、古い土地において「更地」というのは多くの憶測を呼ぶ。そこで何かの因縁があって更地になったという伝承が生まれる。たとえば番町「皿屋敷」は、お菊が身を投げる前から千姫の乱行が伝えられる曰くつきの地であった。

 穢れから清めという体系からそうした怪現象を説明するため、「お菊」や姫路城の長壁姫や、座敷童の存在が語られる。その造形には、噂を説話化する巫女などの口承芸能者がかかわっているのだろうが、もともとは「菊理媛」にまつわる信仰が根差していたのではないか、という推測を述べたことがある(糸車を回す音をたてる座敷童と結びの糸を「くくる」菊理媛の接点は「糸」にあると思う。それは近代以前の蚕糸の交易と密接に結びついていたのではないか)。

 近代以前、穢れを払い清める祭祀は、なにより経済、富という偶然的要素と表裏一体だった。穢れが祟りや怪異をもたらすという構図は、祭祀支配と経済支配の概念が分離していくにつれ、「福をよぶ」抽象的な利益へとやわらげられていくこととなる。

 

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S/T-P/M「トビ・トミ・タマ」山、烽火

 「鳥」は蛇と並び神としてポピュラーな表象である。霊魂観においても鳥を魂の化身と考える文化は多い。山海を渉る鳥は、商業という世俗かつ宗教的な行為のシンボルとして好まれたことは想像に難くない。「魂」「鳥見」「飛鳥」と、近畿には鳥と信仰を結び付ける地名が分布する。ヤマトタケル神武天皇叙事詩の舞台となったのも一つだが、山越えや航海という困難な務めを日々こなす人びとが基盤にあったと思う。「とびとびに」「だんだんの」山々を渡るという経験を共有することで、人びとは結びつきを強めた。葛城山系に役行者一言主、そして大師系の寺院が残るが、巡礼と日常の差がさほど開いてなかった時代の、古道が山々に整備され運用されていった実情を反映していると思う。

 

 つらつらと書き連ねてきたが、オノマトペと関係ない与太を多々述べてしまった。大事なのは、地名は地形を反映したものであって、そこにさまざまな日常が反映された結果、まるで絵空事のような神話体系が構築されてきたということに尽きる。しかしながらそれは社会的な諸相を反映したAlternateな「現実」なのである。史的に正しいとはいえなくとも、何らかの発想の源になれば幸いである。