マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

道化の権威学、さらけ出し、見られるということ

 Youtubeなどの動画文化の潮流は、すっかり我が国の祭祀芸能の伝統と習合してしまったように思う。前時代のラジオやテレビは、農村儀礼としての「万歳」の来訪や、都市の芸能としての「芝居」とを、同じく都市化で希薄となりつつあった民俗を「大衆文化」なる虚像として現出させた欧米文化を受け入れ、一大公共圏としての芸能、マスコミュニケーションとして大成させた。

 固有の名がなく、役わりとして演じられる「万歳」や「狂言」は、「芝居」を経由して、芸人や役者の個性が賞賛されることとなった。かつて信仰と不可分だった芸能の「世俗性」が強調されることは、役がらや演者の個性、人間性(パーソナリティ)の混同が起こることとなる。公と私、内と外のような、見られない「プライバシー」の領域の保全を求めるのである。こうした意識は、内省的な記録を通じて、近代市民に刻まれることとなった。あるいはギリシア・ローマのストイシズムから立脚するともいえるだろう。しかしそれでも演劇観ありきの反抗なのである。

 劇では道化を演じていても、現実は道化を演じたくはない。そうした人間を古来から制裁してきたのがシャリヴァリなどの民俗文化である。プライバシーをあえてほじくる「炎上」や「晒上げ」のような現代的な運動も、この系譜に属する。しかし社会的な制裁はすでにシャリヴァリのように道化的な恥辱によって罪を清め「帳消し」する作用ではなく、道化を「排除する」意識へと向いている。動画文化も、道化を演じ、生活をさらけ出すように見えて、厳格な公私の線引きを行っている。排除を恐れているのだ。

 「見られ」、生活様式として模倣されるシステムは、偶像とそれにまつわる供犠に似ている。テレビやラジオ、インターネット、スマートフォンという発明は、道化的な人びとの結びつきを繰り返し再生してきた。社会集団の模倣が拡大し均一化するほど、守るべきプライバシー、奪われる自由も増大する。しかしながら、そのわずかなプライバシーや自由はまことに道化的であって、取るに足らない空虚を死守するにすぎないのである。

 プライバシーを守りながら、無意識に集団的なライフスタイルに同調するかぎり、人間はまことに取るに足らない道化である。見られながら、他にまねをされるような権威となる覚悟がある人間は、この動画文化においても生まれないだろう。出版やテレビ、ラジオと同じように、ソーシャルな動画文化においても、新たに権力を生み出すのではなく、古来からの名誉をもつカリスマ、王家や天皇の権威に認められながら、生活様式を攪拌していくにすぎない。