マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

精神というフィクション――劇的詩学序説

 言語はもともと集団の生、祭祀儀礼のためのもので、個の領域はその派-生である。

 

 自然に適応するための労働や技術のために「詩」があり、そこから空間や時間のための思考、「風土」や「こよみ」の知識の蓄積も生じる。詩のリズムと表現物、そして社会的な関係は、もともと不可分に分かち合われていた。

 

 そこで数々の「劇的なるもの」が生じるのである。詩における「隠喩」という行為は、農耕と金属精錬など、異質な事物をひとつの集団語にまとめあげ、根幹を作り出すわざなのだ。隠喩による飛躍をうずめるために、神話など劇的なるものの想話がおこなわれる。

 

 劇的なるものによることばの境界画定は、おのおのの社会的関係の「欲望」を反映する。つまり隠喩は、その集団の在りように即してかたどられるのだ。擬人化はその端的な作用である。

 

 文字によるコミュニケーションは、劇的な隠喩のかわりに統一的な「精神」を必要とする。欲望は精神、心の作為として理解される。あらかじめ言語に備わった境界を、名前として所有する……これこそ「劇的なるもの」の産物なのであるが、その創造にかかわる飛躍は「原始的心性」として徹底的に作為として把握される。

 

 「精神」は論理や物理、心理といったいくつかの名前のネットワーク、制度や法則で成り立っていると自らを仮想している。「劇的なるもの」も、ある人間の作為のたまもの、言うなれば身体や脳神経の作用によるものだと錯覚する。すると言語はそれらを代理表象する仲立ちにすぎない。

 

 「劇的なるもの」は、人間の作為の「根源」を探究する学問に拡散され、「聖性」や「信仰」、それにまつわる「真理」の追究によって再建不可能となる。記号的、論理的に組み上げられた散文はリズムを喪い、表現物を粗雑に取り扱い、社会的な関係を攪乱させようとはたらく。自我という調和をかき乱すあり方は、言語をものにする過程で、なにものかの「詩」を奪取しようとする。最終的には、なにがしかの社会集団の祭祀儀礼に属することで、「劇的なるもの」へと向かっていくことができる。しかしそれを学問において再現することはまずできない。

 

 

 一般的に、学問においては研究対象となるものは研究主体の研究者よりも劣ったものであるという錯覚がなされている。どんなに平等を希求する学問でも、時間的な優劣、空間的な優劣、社会的な優劣をつけずにはいられない。エリートと民衆、近現代と古代中世には、「原始的心性」の壁があるとされている。

 しかしながら、そこにあるのは学問による、研究対象の不完全なネットワークの模倣なのである。研究対象がかつて築いてきたネットワークを再現するには、時間的経緯と空間的関係を言い表すことのできる言語体系、すくなくとも歴史がわれわれによびかける体の「現代への隠喩」「現代への欲望」は必要不可欠である。それを、学問の共同体が永続的に更新することができるかは、わずかな希望にかけるしかないだろう。