マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

有用性と消費、そして聖性についての考察

「人類学」的な思考で歴史や社会をごたまぜにして文化を論ずるのはあまり好みではないのであるが、すこし論じてみたいテーマがある。ゆくゆくは共時性や通時性を考察しうるものではないかと思うのだが……

 近代科学はおもに近世ヨーロッパの貴族、商人や地主たちによって意味が組み替えられてきた呪術の末裔である。近代に「未開」とされたその他の地域の呪術の思考と異なる点は、空間や時間をはかる尺度が徹底して抽象的な数や記号に置き換えられてきたというところに尽きる。数学的な秩序以外に意味をもたない数で計量し、記号により関係を論理的に表すことが、地域や時代を問わない普遍的学問としての科学を生み出した。

 ただしそのぶん、かつて支配的であった「呪術」がもっていた祭祀的要素、儀礼的要素が複雑に分化し、社会や歴史を総合的に把握することが難しくなってしまった。「精神」にかかわるような、数量化できない非科学的な問題は粗略に扱われざるを得ない。さまざまなせめぎ合いを経て、「消費社会」として構築された現代は、かくして長い間放置され、分化してきた呪術の「聖性」「権威」を統合し継承している。オカルトな疑似科学新興宗教の流行は、「見えない」科学を呪術へと再編して万人に分かりやすく共有する運動であるといっても過言ではない。その時に「有用性」と「消費」が関係してくる。

 

 近代以前の感染呪術錬金術道教は一般的に、金や仙薬の「聖性」を、身体や富への「有用性」とみなしている。それをもとに、数々の隠喩が形成され、物語や仕来たりとして伝達、伝承される。伝達される地域、伝承された時代のあらゆる事象が、それらとのネットワークによって語られるのである。ある神話の記述が、天文的な知識とも、農耕祭祀とも、精錬技術とも、王権の隠喩とも受け取れる。それは呪術の有用性すなわち聖性を権威として機能させてきた「社会」のあり方を暗示する。

 そして「聖性」の前に、数々の「消費」が存在する。この消費社会でもっとも有用なものは、貨幣や財産を多く貯蔵し、熟練した労働力を備え、勤勉かつ欲求に抑制のきく人間である。しかしながら、日常はそうした社会的な価値を摩耗させながら進行していく。浪費家、犯罪者、病人など、さまざまな類型によって消費が聖性へと関連付けられるだろう。社会における人間どうしの仲立ちとなる貨幣の流れや量も、それにあわせて変化していく。

 近代以前の呪術にも社会的な価値の消費は存在したように思う。物質も人格も、ある程度の適格性が追求され、階層秩序(ヒエラルキー)を構成した。そして仲立ちとなる米や金、タカラガイといった具体的なものから力や気、マナといった具象的なものが取引される。これらは仲立ちとしての計量可能な貨幣や数の確立につながった。

 「消費」を円滑に行い、有用性=聖性を滞りなく維持していくのに必要なのが「契約」であろう。自然に生じた消費に、「わけ」を付与し分かち合うことによって、社会に参与する人びとそれぞれに役わりが生まれる。役わりに応じた消費を課すことで、社会の安定がはかられるのだ。祭祀や儀礼などがそのロゴスの一端を担う。

 

 文化の学究にあたっては、消費や聖性によって紡ぎだされた網目、条理を解きほぐすことは容易ではない。されど言語と物語文化の連関への思惟が、その隔たりを埋めると期待している。