マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

「知性」学の現在のために

 植民地時代、ヨーロッパの国々は陸上海上を問わず区画し、みずからの領土を拡大していった。「探検し、地図上に線を引く」冒険譚と地政学によって、国際政治が展開されることとなる。

 その後の戦争、独立、グローバル化によって、地理上の国境はなくなるかのように喧伝された。しかし孤立排外主義の蔓延、そしてコロナウイルス肺炎による「封鎖」に見られるように、それはひとときの幻想にすぎないのである。表面的なコロニアリズムは政治的努力で克服しえても、社会的なシステムや、精神や理性や美といった個人的なメカニズム、そしてそれらの根本に在る人文学、学問が停滞しているからである。

 

 人文学は啓蒙理性の普及により宗教や信仰から切り離されたことで、存続する基盤は脆弱なものとなっている。「大学」「アカデミズム」の外に知られることのない叡智は、学問に社会の循環をはなれた孤立排外をもたらすことで、さらなる物好きの趣味へと堕している。出版もマスメディアも学問を見捨て、実際的な知による営利を追求するようになっては、「高等教育」という栄誉だけが実質社会と学をつなぐ架け橋なのである。

 高等的な知識のもとに群がる、ソーシャルネットワーク上のつながりとてその誹りをまぬかれえない。世間の耳目を集めるような「バズり」中心では、新奇に見えても旧弊で不確実な情報が氾濫することになる。

 それでは、なぜ人文学は食えないのか。一般的に社会に必要とされる物質的な技術や知識の習得が優先され、思弁的な精神や理性、美の研究は二の次だと考えられている。それだから、というべきか、たかだか二百年程度の流行ものにすぎない、「民族性」や「国民気質」、「天才」、「心」といった精神の虚構に手間取ることとなる。

 美や理性において精神の優劣に拘泥し、その中で病的な精神を排除する差別的なシステムがまだ通用する。それどころではなく、人文学研究自体がこの蒙昧にとらわれている。こうした精神のブラック・ボックスの中身を予想するのにこだわる傾向は、しぜん学びにおいても外界の交流に着目しない内向きの風土を作り出す。精神の分析等々による、歴史的「起源」「根源」というフィクションは、いくらでもこじつけられるのである。営為、交流の歴史こそ求められるべきだと、私は考える。

 

 私は精神や心は「ある」「なし」ではなく、その表現の背景に潜む「隠喩」をたどる必要があると考えるし、「隠喩」の背景にある人びとの交流の諸相を探究したいと思っている。外形としての言語構造も内容としてのロゴスの権威や信仰も、分け隔てなく書物から探り、口承時点の「グローバル性」(従来人類学的に捉えられてきた「普遍」)として観たいと画策している。

 その先駆けとして、伝承の類型がなぜ生まれたのか、風土環境や天文歳時などの信仰の背景を考えたり、心とされるネットワークの起源にある詩的文学、労働歌謡や錬金術、呪術などの再解釈を行ってきたわけである。避けてきたオカルトや大語族、安易な民間語源や民族同源論に陥りがちではあるが、これらの領域をアップデートすることで見えてくる事象があるのだと思いながら、読書の日々を重ねている。

 ちなみに、最近のトレンドは仏教西アジア起源論と密教錬金術です。