マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

自粛の黙示録(Apocalypse Nowadays)

 出口の見えない自粛がつづく。テレビを見ていてもSNSを眺めていても、誰々はこうして我慢している、だからお前らも自粛しろだのとやせ我慢の見せ合いになってしまっている。あるいはお国のためにと見栄を張り、マスクやガウンづくりに精を出す。

 

 すっかり戦時中のあり様だ。8月の戦争特集で東京裁判大本営発表について偉そうなご高説を垂れていた新聞テレビが、兵隊さん頑張れの調子で医療従事者を激励し、徴用工や慰安婦問題にあれだけ良識ぶりながら、水商売の女性や外国人労働者の苦境を美談に仕立て上げる。ずいぶん呑気なダブル・スタンダードである。歴史認識は都合のよい金稼ぎの手段であり、全く現実に応用のきかない代物であることが露呈してしまったのであるが。

 

 例えば学生が授業を中止し、コロナ前線にボランティアとして配備されないかぎりは、この呑気な時代の思潮は改まらないだろう。ある意味楽しみでならない。コロナ禍が収まったら、どのように世界が変わるのかが見ものであるから。

 

 戦前の立身出世のモデルが兵隊だったように、現代は医学部出が大学のカースト頂点という認識がある。しかし第二次世界大戦に兵隊の非道な行為が暴露されたように、医療行為もまた欺瞞や隠蔽が暴露され、「二度と繰り返さない」歴史の過ちとなる可能性がある。戦後ならば軍備はアメリカに依存することとなったが、そうなってしまっては医療はどこに向かうだろうか。

 

 報道を見ていても、「陽性」の判断への苦悩がすでに垣間見える。思うに、医師の判断や決定が生存を左右するのを忌避する風潮になるのではないか。まさか早死にや姥捨て山が賛美されるまでにはゆかぬだろう。医師や看護師を目指す人間はめったにいなくなり、AIやスパコンに任せきりになるのだろうか。

 

 自粛の辞め時も重要である。知事や市長が外出中止を呼び掛けるコマーシャルが打たれているが、彼らが「健康に対する罪」で訴えられる日がくるかもしれない。万一自粛をやめて集団感染を出してしまってもそうだが、収入が減り、家からも出られず精神的な健康を害した人間への補償も叫ばれるようになる。さすがに公職追放までにはならないとは思うけれども。

 

 そして最大に憂慮すべき事態は、コロナ倒産や経営悪化で、外国に身売りする機関や企業が出てきてしまうことである。どこの国とは言わないけれども、感染拡大の責任に賠償を請求するのは結構であるが、それが外資依存の糸口になってはならない。そうなってしまえば、アメリカとの二度の敗戦――第二次世界大戦バブル崩壊を再び繰り返すこととなる。近年の官僚や政治家、経営者は安易な解決法を選びがちであるが、いま時期は長期的な視座で行動する人間が求められている。

 

 それでも買占めや都合の良い情報の無批判な拡散など、軽薄な消費社会はしばらく収まりそうにない。報道の自由は所詮自分が言いたいだけ言う権利の主張であって、今までにない視点の発信や質の向上には結びついていないことが嫌というほどわからされた。街頭お天気カメラで逐一人出を監視し脅迫することくらいしかできないのである!マスコミが「大本営発表」ならば、SNSは「隣組」。けれどもすべては終わってからしか分からないのだ。