マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

フォークロアの研究――いわゆる「都市伝説」「集団幻覚」から

 「科学文明社会」を生きる人間においては、迷信におちいることは恥ずべきこととされている。その一方で、全体主義や都市伝説、疑似科学など、およそ現代人とは似ても似つかない迷信的な信仰をもつ人びとを、近現代の狂騒は生み出してきた。

 

 現今の「コロナ禍」や、その他の流行現象もそうした迷信に分類される日が来るだろう。いくらウイルスの飛沫感染が防げるとはいえ、繊維よりもはるかに微細なウイルスをマスクで防御するといった発想は迷信的である。しかしそれでもマスクは買い占められて店頭から消えた。ウイルス感染を実効的に防ぐというより、我われがウイルスからいかに隔離されて清浄かということを「表象する」ことに重きが置かれ、社会が変質していくこととなった。かくしてマスク、接客や受付のカウンターのビニール仕切り、テレビ会議の画面は生活様式となった。

 

 合成などでいつもどおりの接近した状況を演出できるはずのテレビですら、「視聴者への配慮」としてリモート出演や間引きを行い、あまつさえ「緊急事態以前の録画」などとの但し書きなどで演出している。これは決して視聴者のリテラシーが低くささいな密着に苦情を入れるという現象だけではない。もっと意義深い学びを得ることができる。

 

 人間社会はあえて正常さという「迷信」を作り出す。そしてそれを表象する。こうした社会の変質の好例に立ち会っているのだ。我われは「物語る」という行為とその産物――理知的なディスクールや、一見対照的ともいえるフォークロアの研究を通じて観察することができる。

 

 なぜ我われは異常を異常なほど憎むほど「正常」なのか。その答えは簡単である。古来より「文明社会」は、ある時期において通用してきた「迷信」や「狂気」といった恥ずべき行為として規定し、切り捨てることで共同体の正常さを装ってきたからである。もとより「正常さ」とは曖昧なもので、敵である「異常」を祭り上げることでしかその姿を表象することはできない。

 

 以上は正直ミシェル・フーコーを手繰れば容易に見つけることのできる考えであり、数万の学者がすでに通過したところ、いわば「時代遅れ」であろうが、西欧哲学の流れのもとでとらえられてきたこのメカニズムを、たとえば民話学とかその他の「畑違い」の領域と一緒に論ずることは無駄ではないだろう。

 

 すくなくとも戦後の言論においては、出版受けやバズりのするようなセンセーショナルなものではない、着実な積み重ねに時評をする環境が絶無である。海外の流行を模倣し、分かりやすい表層を掬うような研究者が好まれ、井の中の蛙のようなスペシャリストが尊ばれるのは仕方がないことなのだ。科学技術を西欧から取り入れるための大学というシステムの導入――模倣から運命づけられていたことだ。

 

 迷信を排除し正常さを演出するメカニズムは導入しても、その全体を客観的に観察する集積が構築されずじまいであった。「都市伝説」「全体主義プロパガンダ」「疑似科学」「集団幻覚」「カルト宗教」「詐欺」を糾弾する人間はいくらでもいる。しかしてそれらについて総合的に考え自省する人間はいない。

 

 この盲点は作者から読者という旧来の一方通行的なコミュニケーション、近代の出版文化から生まれた驕慢であったといっても過言ではない。日ごろそのヒエラルキー下で「精神論」を戒め、「自浄作用」を求め、「デマによる迫害」を悲劇として語り伝える人間であっても、アナーキーに際しては無力としか言いようがない。「お前が言うな」「いざその立場に置かれたら自分もそうする」「人それぞれだ」といった態度を決め込むことは容易であるが、戦争、震災、疫病といったアナーキーを経験して、言論なり研究を完成することは難しいことが、現今の状況――「歴史は繰り返す」と端的にいえるようなこの惨状から見て取れる。

 

 「書かれた」言説の世界は、前述のごとく作者対読者の一方的な伝達、伝承をモデルにしたヒエラルキーを仮想しているが、現実は――誤解される可能性もあるが、書かれざる口承文学の世界という言葉を用いれば――噂に尾ひれが付くという言葉で象徴されるがごとく、相互に生成し合うオープンかつアナーキーな領域なのである。不特定多数との対面による伝達、伝承により「常識」や「慣習」が形成され、見えないけれども確かに存在する境界線によって内外が区別される。

 

 戦争や震災、疫病による明らかな生活様式の変化は、ヒエラルキーによって統率されていたはずのアナーキーを変動させる要因である。それは、社会的な「対面」の形式の変化によってそれに付随する文化に決定的な改変をもたらすことにより、それに釣り合う「語り」を生じさせる。「未知」の現象、緊急事態に対する新たな取り決めへの模索である。

 

 思うに、「都市伝説」「集団幻覚」「疑似科学」とかといった迷信はこうした事情のもとで「生成」され、排除される。フライドチキン用の何本も足のあるニワトリとか、下水道に住む白ワニという表象は、個々としては「敗戦によるアメリカ文化の流行、選好」や「都市化による地下上下水道、暗渠といった未知の領域に対する説明」といったれっきとした存在理由があったものと思われる。

 

 かつ、そこにはアナーキーな対話を阻害するようなコミュニケーションの拒絶や一方的なコミュニケーションへのカウンターという性質を帯びている。突然出現した外来の新設備、従業員と客によるやり取り、そして秘密のレシピという売り文句は、古くからそこに存在する地形や建築物と同等の説明体系を要求する。古い伝統的な都市空間だからこそ、新しい異質な事物を常に必要するという事情もまた伴う。この交錯した状況が、「迷信」という一時的信仰を、集団幻覚という運動の原動力でもあるのだろう。

 

 そしてそれは従来未開や素朴とされる「呪術」――虫を使った呪詛や、人型を川に流す風習、雨乞いや豊作などの予祝にも、たとえば蚕が絹糸を産生し莫大な富をもたらしたこと、河川で人品の交易がおこなわれた事実、金属精錬や狩猟などの技術を必要とした神仏祭祀が、農業共同体の中で維持され、変化してきたことなどを想起させる。

 

 それなりの背景をもって語られた物語が、コンテクストを離れ伝承されていった経緯が忘れ去られ、「迷信」となっていく。これらを科学社会や文明社会といったフィルターにかけ、むりやり合理化したり、国家や民族固有の「精神」として価値を見出すことにより、無批判な「幻覚」として再生産されてきたのが、近現代社会の「物語」の正体である。

 

 現在の社会も、フォークロア、コークロア、ネットロアにつづく「テレワークロア」を生み出すだろうことを、ここに予言しておこう。願わくは「田舎での疎開生活は辛く苦しいものだった、だから戦争は繰り返すものではない」といった都市生活者の権威的な言説が見え隠れするような戦争体験の域を出ないテレワークロアが生まれないことを願うのみである。否、すでに生まれつつある。「マスクやホットケーキミックスが転売され店から消える」「外食宅配サービス従事者の交通事故死」「コロナ患者の家への差別的落書き」などの表象は、すでにその兆候をみせ始めている。フォークロアの起因するコミュニケーションの欠如や差別は、単純に語り伝え、戒めるだけではなくならない、深刻な構造を呈しているのだから。