マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

#『市民ケーン』が最高の映画とかいう風潮に抗議します

 もし大学の講師だったらこんな授業をすると思う。

 

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 2020年になってもなお『市民ケーン』が史上最高の映画だそうだ。

 

 こういう「映画通」の選ぶ映画というのは、ご多分に漏れず「懐古」や「思い出補正」が入っているし、最新の映画を推したは推したで「ミーハー気質」や「業界のお手盛り」などを差し引いて考えなければならない。テレビや雑誌でごり押される映画は、たいてい放送法かなんかで「番組」として放映されることを条件に宣伝されている。アニメやマンガが原作のコスプレ学芸会を有難がって見ている連中もいる。

 

 ハリウッド映画も似たり寄ったりで、さほど変わることはない。近頃は剽窃などのやかましい権利関係を追及されないためか、アメコミの映画化ばかり。白黒時代の大げさながら巧みな演技やモンタージュはすっかり姿を消し、弱気な主人公がくどくどと文句をたれたり仲間割れを起こしながら時間をつぶす。そのくせ政治的主張や商業コマーシャルだけは大声をあげてやってのける。使用されるCGの資金稼ぎである。

 すでに映画で繰り広げられているのは演技ではない。カメラの前でどれだけ醜く、派手にわめき散らかすか、「映画」の皮を被ったつまらないマーケティングは成立しているのである。

 

 さて、そんな中で『市民ケーン』が1位を取ったのにどういう意味があるか。たぶん、これはオーウェルの『1984年』や『動物農場』を売るために編集者や書店員が書く推薦文と同じ理屈である。つまり、「これぞディストピア!」「現代に通ずる不朽の名作!」といった薄っぺらなキャッチ・コピー。

 

気になる『市民ケーン』のあらすじは?意味深な「バラの蕾」の正体を調べてみました!

 数々のスキャンダルにまみれた新聞王ケーンが最期に残した「バラの蕾」なる言葉は一体何を指していたのか?なんと、それは相続した莫大な富と引き換えに失ってしまった子ども時代の象徴、ソリの「バラの蕾」号でした!だけどもそれは遺産整理の時にゴミと間違えて燃やされてしまい、永遠の謎となってしまったのでした、チャンチャン!

 

 いかがでしたか?『市民ケーン』は名作なので、ブログでは書ききれない魅力がたくさんあります!パブリック・ドメインなのでネット上でも容易に視聴が可能です。ぜひご覧くださいね!

 

 などというまとめブログ的なあらすじを思い描きながら見て、「ああ、トランプが異常で幼稚な政治運営を行っているのは、市民ケーンと同じように富で人生が狂わされたからだ」、とか「安倍が自分に従う取り巻きで三権分立を亡き者にし、言論を封殺し政権にすがりつくのはまるで『市民ケーン』を見ているようだ」なんていう感想を抱いた御仁がいたとしたら、(それはそれで勝手であるが)冒頭に思わずこぼしてしまった映画の衰退は、こうしたつまらない映画ファンのせいなのだと思う。

 

 そういった意味で、オーウェルの作品のつまらないもち上げられ方と同じ既視感を抱くのだ。たぶんオーウェルの作品の読み方も、描かれているディストピアを完全なフィクションとか過去の遺物として、現実世界と切り離して読む人間(「これぞディストピア!」)と、たとえば現代のトランプ政権とか安倍政権とか北朝鮮とか中国とかロシアとか、自分の嫌いな政治体制に当てはめて満足する人間(「現代に通ずる不朽の名作!」)のどちらかなのである。

 

 じっさい動物農場のアニメ映画は思いっきり共産主義に当てこすったうえで結末も改変されている。でも、西側の体制だって、ドゴールの強権とか、イギリスの停滞を招いた鬱屈した階級社会、アメリカの理不尽な赤狩りといった「農場」と似たり寄ったりのものだったのである。そうした意味の現代の批評、示唆に富んでいるからこそ「名作」なのだ。

 

 なんというか、そういう自分を客観視できる新たな別の視点の提示、というのは人類の素晴らしい文化的営為、「検閲」によってかき消されてしまう類のものなのだ。ヴォルテールが何を言おうが、自分の好きなものしか見たくないし聞きたくもないから「言論の自由」を振りかざす文化人も、りっぱな「検閲」主義者である。そういう私も自分と違う立場にはきわめて不寛容な、りっぱな「検閲」主義者である。モンティ・パイソンの「ライフ・オブ・ブライアン」をめぐる論争を嗤ってなんかいられない。

 

 話がそれた。「市民ケーン」は、全体として記者の又聞きによる新聞王ケーンの人生の構築であり、「信頼できない語り手」の大将みたいな映画である。「バラの蕾」の正体が知りたいというゴシップ的興味から人生を追跡しているだけで、結局「子ども時代の幸せが失われた」という一応ウェルズが示唆する結末にも、たどり着かないままなのである。

 

 しかも、取材相手は死んだ後見人の回顧録、腰巾着、記事で衝突し失脚した友人、無理にオペラ歌手にされた元奥さんといった、ケーンの真意がわかるはずもない人間ばかり。そいつらがあることないことを喋りまくる。しかし、それっぽーく時系列で語られているから、まるで「子ども時代の純粋で幸せな体験が失われた男の、暴走の一代記」みたいにミスリードしてしまう。とくに日本人には、母親を喪って永遠の女性を追い求める「光源氏」とかと近い、親しみやすい一パーソナリティに見えてしまう。

 

 

 でも、別に「バラの蕾」のソリが焼かれたって、市民ケーンの純粋な子ども時代が失われたわけではない。むしろ、その後のケーンの人生はまるっきりソリ滑りで遊ぶコドモである。新聞を買収してみたり、海外でよくわからん美術品を買いあさってみたり、政治活動してみたり、愛人をオペラ歌手にしてみたり……なまじ金の使い方が驚くほど子どもじみていて下手だから、遊びがわからない人びとの好奇の目や謀略にさらされることとなり、まわりを不幸にさせるのである。結果として、周りの人物をソリのように乱暴に扱って遊んでしまうのだ。

 

 「火星人襲来」とかでアメリカ全土をオモチャにした前科があり、その後も終生映画作りに苦汁を嘗めることとなるウェルズの自戒が描かれた映画であると思う。でも、一般的にはこの映画は悪名高い新聞王ウィリアム・ハーストを元ネタにしたと考えられ、ハースト本人を激怒させた。そうした醜聞的でセンセーショナルな見方が、オーソン・ウェルズの人生を狂わせることになった。

 

 ケーンはメディア王だがコミュ障だ。さいごに出てくる立ち入り禁止の看板は、たぶん人生の終焉に際して、自分の心をさらけ出していたつもりだったが、だれも「立ち入ってくれなかった」ケーンの絶望のように感じる。でも、市民ケーンが現代人の病理を予見していたのである!と告発する気にはならない。すくなからず皆が経験したことであるだろうから。

 

 まあ、うろ覚えのあらすじから考えた愚説なのであるが。

 

 最後にくだらない自分語りである。去年の正月に映画を見て、この見方を発見して以来、すっかり『市民ケーン』に染まった。というよりむしろケーンの影が強迫観念としてこびりつき離れない。もともと自己を表現するのは(いくつかのくだらない創作や研究をのぞき)苦手だったが、本当に苦手になってしまった。友人づきあいも、所詮他人を利用したソリ遊びに見えてしまう……そのうち何人かとは、ほんとに疎遠になってしまった。

 

 「報連相ができていない」「自分勝手」と叱られ続け、出版社は就職してすぐに辞めてしまったし、夏から1月まで続けてきた末期がんの母の見舞い、看取りも、所詮は「自己満足」だったんじゃないかと思えてくる。コロナ禍で、再就職もうまく進まないし、アルバイトや派遣も中途半端に始めてしまうといけないじゃないかと考えてしまい、社会復帰がいまだにできていない。

 

 そのくせ、偉そうに私的研究所を作り、不遜な物言いを続けている。不思議と「完璧主義」なのか何なのか、アカデミズムや社会に聞き入れられる自信がないのにである。風刺活動をしていても、動画や小説やマンガを描いていても、新興宗教をつくろうとしていても、ユーモアを誰にも拾ってくれない一抹の寂しさから、だんだん自信がなくなってしまう。ソーシャル・ネットワークのお歴々のサブカルめいた知識のひけらかしあいにも幻滅してしまい、アウトプットはますます苦手になっていくばかり。就職しようにも面接でいい経験をしたためしがないので、練習を避け、現実逃避にこんな記事を書きなぐる毎日である。そんなんだから自信満々に「自己表現」したためしのない相手から「発達障害」「自己中」って言われるのよ。あーあ。