マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語:文化と文法

 このブログでは何度か言語について取り上げてきた。「ポスト・オリエント学」「情報文化圏交渉比較環境人文学」といういささか皮肉めいた題名で研究してきたことは、歴史や文学のみならず、人間の行動の規範となる科学全般が、いかに社会集団の地域的、通時的交流に依存されるか――シルクロード海上交易的なつながりを例にして、錬金術や祭祀呪術、神話の拡がりをまとめてみようという試みであった。

 

 吉野裕子(陰陽五行説)、伊藤義教(ゾロアスター教研究)井本英一(イラン学から東西説話交渉史)、佐藤任(インド密教史・錬金術史)、白川静(中国古代史)、澤田瑞穂道教・中国説話研究)、吉野裕(古事記から冶金史)若尾五雄(物質民俗学)、真弓常忠(古代日本の冶金研究)など、前世紀の研究者たちの野心的な論を総合すれば、「世界神話学」のような人類の移動や染色体グループによる神話研究とは違った、技術の往来とともに神秘的世界観が混淆していった様態が明らかになる。

 

 「霊魂」にまつわる神話的言説は、酒や香料や金属、そして米や小麦など、純化が必要なあらゆる事物と人間のアナロジーによって生まれたものである……ということがわかってくる。祭祀は、それらを支える労働を「まねる」ことで(農耕、ときに性行為が選ばれる。しかしながら近代的に思い描かれるような、素朴な「農耕」、エロティックな「性行為」の意味合いとは異なる)霊魂ないし真理を解釈しようと試みる。そうすることで、空間や時間上の一点一点に特別な意味を持たせる作用が――「聖性」をもつ「権威」として生まれるだろう。これが各地域、各時代の「文化」である。現代の政治、経済、文学、宗教、マスメディアなどの大衆芸能、公共圏などは、これら古代中世の人文学が科学へと変貌するにしたがって細分化して観察されたものであるといえる。

 

 以上に述べたのが文化の説明であるが、これは言語のいち側面にすぎない。言語が文化を拡散するには、しかるべき「文法」を伴う必要がある。そして文法が異なれば、文化の境界もおのずと現れてくる。

 

 現今行われている言語学的比較や考察は、この構想を説明するには不十分である。それらは文化による障壁を守るべき言語的「規範」として、構造の考察と混同している。彼ら言語学者の関心は、正確な音声表記、術語を用いた言語標本のコレクションであるが、それらは「首都/地方(方言)」や、「幼児・病人/大人(役割語)」、「現代/古代」などの、前時代に確立されたコロニアリズム的社会構造を、無意識に当てはめるものである。

 

 印欧祖語や、たとえば民俗学といったプリズムを通して、古代や中世の言語行為を観察する「意味合い」をどれほど正確に認識しているだろうか?それは、新しい科学的分析の方法論や、ポストコロニアリズムカウンターカルチャーフェミニズムなどの政治的主張が学問に浸透しても「お題目」程度のものであって、範型的にはさほどかわらない、さながら中世の「転倒した世界」的虚構にすぎないという危惧である。

 

 それではどのような方法で言語、文法を考えればよいのだろうか。まだ模索中ではあるが、「信用」という概念を用いて記述することを只今企図している。信用とは、連続し、連関し、一貫性をもつとみなされるような関係や範囲のひとかたまりのことを指す。

 

 言語はその本性から、辞典の一項目ではなく、貨幣や金券(チケット)のようなものである。本来の意味とされる語義、社会的に認められた比喩などの転用、歴史的変遷を漠然と考えながら、我われは言語を操る。「ピーターがポールを殴る」といった日常的な文脈から、「犬も歩けば棒にあたる」といったことわざ・格言、はては「無色の緑が猛烈に眠る」というナンセンスな言葉の塊でさえ、何かとして払い戻されることを企図して発される。それは額面とその対価を信用して貨幣や金券がやり取りされるのと似ており、我われは物価変動や国家の存亡をそれほど予測せず無邪気に貯金するのと同じく、いつ通用しなくなるかわからない現代語法でしゃべり、記録を行っている。

 

 ふつうは、現代日本の大多数の人間が理解できるような言葉が、現代日本語として記述されるのであり(このブログを除いては)、それは辞書を用いて逐語的に外国語に翻訳しても意味が取れないのは当然である。両言語の文化的背景を押さえ翻訳することが会話においても文章においても求められており、それは私的な言語領域から集団への表現においても同じことが言える。

 

 説話では、角の生えた鬼や超自然的な驚異などが「説き語られる」。古代・中世においては、それは特定の社会集団において自然現象や協働のための固有のコードをもって語られていたが、それが広域に広がるにつれ本来の意味をなさなくなり、「迷信」とか「おとぎばなし」といったレッテルを貼られることとなった。民族・国家の「精神」の体現であるとか、機知、美の表現だという「合理的」な説明がなされたり、こどもや野蛮人に道徳を「教育する」という目的のもとで改変が行われたりするのである。

 

 説話と社会集団の分離は、経済や政治など、近代的に再編された「信用」にもとづく社会的秩序に――カーストや差別の問題や、教養と大衆文化の両極化、卑小化、細分化といった全体像の見えない状況を作り出した。そして言語が担ってきた枠組み、役割自体が過小評価され、(近代社会で「信用」が持たれるような)合理的なロゴスを(記号的に)説明、証明するのに、「自然言語」は力不足であるという神話が広く行われたのである。

 

 記号や等号を用いた数学のロゴスは、言語のほんの特殊な一例にすぎない。何度も述べてきたように、言語とは「劇的」に「説き‐語る」ことにより、社会集団を「融き象る」ことである。歌垣の歌謡、フォルムのローマ法、シングのサガ、城市の百家争鳴、アゴラの哲学――そのどれもが「劇的」な物語を有し、社会集団を「信用」によりまとめてきた。それは現代のアカデミズム的言論やマーケットで繰り広げられる金融とは精緻さなどでは異なるが、本質としてはどれも「語り」の歴史の一端であるはずだ。

 

追記

 このブログでは「体」と「用」がつくことばや、「モノ」や「コト」とつくことばを注意して用いてきた。前者は幾何学的な「点、線、面、体、作用」や、日本語の「体言、用言」、そして禅の「体」と「用(ゆう)」を念頭に、後者は「モノがたり」や「できゴト」、並びに廣松渉和辻哲郎の哲学研究を鑑みた表現により、体(もの)を用(こと)が包摂し、一箇の変化を受け容れるような入れ子構造となることを思い描いた上の叙述である。

 

 「受動」は体、モノ的表現(名詞的)であり、「能動」は用、コト的表現(動詞的)である、他動詞、それにまつわる格や助詞は前者、自動詞のそれは後者……と当てはめていくと、文法的範疇にある傾向を見出すことができる。そして、中動的表現は両者を媒介する特殊性を持ち、より「信用」を持たせることが――仮定的な婉曲表現や、物語文学の敬語表現が意味するところに近い――明らか「となるであろう」。いまではすっかりなじみとなってしまった「思われる、考えられる」といった学者語法、「させていただく」や「こちら~になります」といった敬語表現は、それらのもつ特異的な社会性にフォーカスされて考えられるべきだ。

 

 言語学が文法的誤り、語源的誤りを詮索するところから脱し、より抽象的に言語を研究するために、ここに問題提起を行いたい。