マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

歌謡発生の後景――男子の本買いと、そこからの着想

今回の男子の本買い

古橋信孝『万葉歌の成立』、講談社学術文庫、1993年(原著1985年)

アンドレ・ヨレス『メールヒェンの起源』、講談社学術文庫、1999年

 

 やはり講談社学術文庫ちくま文庫は、古書に限る。

 

 『万葉歌の成立』は、万葉集の歌を沖縄の神謡や古代中国の詩経と比較しながら、その独自のジャンル性を忘れずに解説した書である。なんで今まで手に取らなかったんだろう?と思ってしまうくらい、現在の研究に役立ちそうな本だ。とくに「生産叙事」のアイデアは、農耕や巡行、歌垣など、万葉文化の表出としてのうた、かたりという立場を思い出させてくれる。

 その文化は、現代を生きるわれわれと隔絶している、とは書かれてはいるが、日本語を話しているからには向き合わなければならないし、解釈によってわれわれとの類似性を見出すことのできる多義性をもっている。

 

 『メールヒェンの起源』は、そのタイトルにそぐわず言語とドイツの民俗伝承全般にスポットを当てた書である。しかもドイツ文化だけではなく、ギリシア・ラテン古典との比較も行われているのだ。1929年の初版であって、印欧語学や古典学、そして法学の成果が積み重なった1冊である。原題を直訳した『単純形式』のほうがしっくりくるのだが、どう考えても売れないのでしょうがない。

 解説に引用されていたW.カイザーの『言語芸術作品』や、より後のポイカートの『中世後期のドイツ民間信仰』と併せて読んでみると面白いだろう。

 

 文学的テクストの解釈を、「精神」や「哲学」といった後付けの理念にあてはめるのではなく、語られていた共同体の民俗文化や他文化との共時性に踏み込んで考察する態度が、この両書には共通している。一目見ただけでは理解しがたい「文法構造」と「文化体系」から、いかに「拒絶」しえない’(迷信や野蛮、狂気といった他者でひとくくりにしない)現われを説き語るか、といった点で極めて示唆に富んでいる。

 

本題

 メールヒェンはMARK(標)と同源である。しるしづけられた一区画であるマーケット、道祖神、治癒神のような役割を果たしていたメルクリウス(ギリシアにおけるヘルメス⇒ヘルメノイティクという連関も分かりやすい)、境界付けられた前線まで謡いながら行進するマーチとも多分同じである。境域上の都市に侵入するさまざまな階層の人びとをまとめあげるために、市場でも、劇場でも、戦場でも、共同体の「融き‐象り」として「解き語り」が行われていたことは想像に難くない。

 

 死者の再生とか、若返り、錬金術による富の獲得といった非現実的なことも、「解き語り」の世界では可能である。本来不可逆であるはずの「時間」を操作するという発想は、現実の技術、腐食を止める香料やメッキなどのアナロジーで生まれたものにちがいない。「まつる」ことは、「待つ」ことに費やした時間の可視化である。

 

 万葉集の編まれた奈良時代末期を考えてみる。法や歴史が編まれ、律令国家として朝廷は始動した。大仏を建立するという一大スペクタクルが終わり、労役を行っていた人間や使用された技術の存続が問題となっていただろう。プロジェクトを推進した立役者である行基はすでにこの世になく、農村の流動や戦乱が影を落とす(まさしく、正倉院展のバックグラウンドである)。

 

 メッキや顔料に使われる硫化水銀(辰砂、丹)は道教の養生術としても有用と考えられた。行基のような私度僧や、狩人や修験者たちといった畏怖すべき「山師」たちは、金銀銅鉄や鉛などの価値ある金属を探す傍ら、こうした鉱脈、水脈を求めて全国を巡っていたのだと思う。都市に集められた辰砂は、魔よけに利用され、「あをによし」奈良の風景を作り出すこととなった。

 

 彼ら農耕文化の先駆者たちの行動は農耕民によって伝説化され、はじめは「風土記」や「古事記」のなかのオオクニヌシスクナヒコナの事績として語られた。それに取って変わったのが行基などの遊行僧であり、かれらは人びとを教化しながら、農耕や鉱山の設備を整備していった。中には道教のように政権の中枢に食い込み、失脚したことで好奇の目にさらされたものもいた。しかし巷説に流布した女帝との「愛欲」の伝承は、やはりかれらが実践したメッキや養生の技術とも連関させて考えるべきだと思う。金精信仰のように、豊穣儀礼として読み替えられながら、祭祀として記憶されていった。

 

 こうした万葉から平安の混乱期にあって、近代的には鎮護国家の新たな精神的支柱と考えられてきたが、鉱物、水資源の安定的供給による農耕共同体の再建といった実際的使命を帯びながら、伝教大師弘法大師が唐にわたっていった。(密教の「成就」においては、水銀による作業が悟りの完遂に見立てられた)比叡山、吉野、熊野、高野山といった場所が、神仏習合の新たな潮流を作り出していった――ミトラ教ゾロアスター教の痕跡は弥勒摩多羅神阿弥陀如来として、「彼岸」という新たな異界の出現をもたらしたのであった。

 

 太子や大師に帰せられてきた、温泉や湧き水を掘り当てる技術は、しかしながら、日本神話ばかりでなく中国、インド、ペルシアの古典とは無縁ではない。高貴な人物が流浪の果てに巡り合う、アナーヒターとか西王母とか、その他水の女神との秘儀的な恋愛(ロマンス)である。その背景には、先駆者たちが資源を探ることが、山中で酸欠や栄養失調などの死(ヒダル神やミサキ神による祟りとも考えられた)と隣り合わせとなりながらも、農耕共同体や王権の基盤として欠かせなかったし、起源譚として必要であったことが考えられる。農耕行事の規範として、また禁忌として、共同体の成員一人一人の生に根差した「マツリゴト(生‐政治という言葉を使っていいように思う)」が表現されるのだ。

 

 川や温泉地の近くに、市場、芝居小屋や遊郭などの悪場所が「古典教養再生装置」として、そして寺社の特権とともに近代まで残存したのは、こうした意味があってのことである。そしてマンガやアニメ、アイドルといった現代「クール・ジャパン」的大衆文化まで脈々と連なる物語の歴史を描いていく。死者への記憶、時間への沈痛な思索とともに。

 

 ヨーロッパでも、古代の異教崇拝とキリスト教的聖人崇拝のあいだに、必ずやこの系統の農耕共同体の祭祀とその先駆者の記憶が存在するはずだ。

 

この論を考えたきっかけ

 この論は、このご時世に京都を放浪して得た古書と、ある問い――神社の水には、なぜ決まって「飲用不可」と書かれているのかという疑問から生まれたとりとめのない歌謡発生論である。もちろん井戸水の汚染などの衛生上の問題もあるだろう。しかしこうした聖域の水というのは、もしかしたら農耕共同体の先駆者がわざわざ選んだだけあって、水銀や硫黄、鉱物が多量に含まれているため、飲用に適さないと(現代的には)考えられているのではないか?という仮説からひねり出したものである。ある思想体系によって、なんらかの功徳、治癒効果が認められていたのだ。

 だがこうした類の考察は、昭和時代の公害などで有機水銀と無機水銀がごっちゃに理解されたり、スピリチュアルなエコロジー疑似科学などに陥る危険から、半ばタブーとされてきたのだと思う。寺町への移転や戦災、買収による強制疎開のように、移転することで証拠がなくなってしまったこともあるだろう。特に最近は寺社の敷地にマンションが建ち、土壌の汚染などで失われてしまう水脈もあるにちがいない。これは南方熊楠の神社合祀、鎮守の森保全なみに本腰を入れて取り組まなければならない課題である。

 さて、そんな中 「全国水文環境データベース」なるものを見つけた。これや鉱山、温泉の所在をマッピングすることで、寺社仏閣などの聖地と古代中世の技術との関係に、なんらか資するものができるのではないか。

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