マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

マレビト補論:「説き語り」の系譜学

 言語を研究するには、伝えるための文法構造と伝えてきた文化体系とを総合的に見ていかなければ、全体像をつかめない。

 およそ世に行われている研究は、どちらかを間に合わせで補い成り立っている。科学という文化でも、政治経済という文化でも、それを伝えてきたことばの構造は、翻訳の過程で有耶無耶にされてしまう。対して、文法や概念の構造などを考える哲学的な分野においても、他領域の文化知は「通説」の段階にとどまるように見える。

 否、翻訳までもがないがしろにされつつある。生硬な文体、未消化の外来語によるジャーゴンが罷り通る学問を、はたして「受容した」と言えるだろうか。さまざまな社会集団がアクセスすることが可能で、異なる文化の間で通用する言語に置き換えることができなければ、どのような器用な技術を発明したとしても、閉塞的な環境において無用の長物と化してしまう。

 かつての「ラテン語」ないし「英語」、アジアにおける「漢文」には、文法の変化、借用語流入こそはあれ、それを爆発的に広めるだけのシステムと影響力が存在した。軍事力や政治力もさることながら、明確に規範化された「文語文法」が存在していたため、書物などのメディアにおいて他の言語を圧倒することに足る「純粋性」を獲得したのである。話者人口が多いとか、経済成長が著しいという素朴な理由で「国際語(Lingua Franca)」が決まるわけではない。英語文化圏と英文法のように、なにが異質でなにが本質かという境界をきちんと自らの言語で説明できる体系こそが、次代の国際語となりえる。

 

 しかしながら、新しく概念を作りださずとも、この体系化は可能である。そのためにこれまで行われてきた説話を「説き語る」行為を見ていくことが求められる。迷信や悪習かはともかく、「説き語る」行為はその共同体に一貫した信用性を付与するものである。「アウシュビッツの後には」という成句を引用せずともいい。歴史という物語で保証される「伝統」は、共同体の成員に自信を与え、どのような愚かしい蛮行をも行わせることができる。

 身振り手振りを含んだ言語による「劇的な説き語り」が、目に見えない長時間の「変化(へんげ)」をきわめて一瞬で示すことにより、その場を共有する人びとの注目をあつめ、信頼を維持することが可能である。親しい人の間の「ここだけの内緒話」、巨額のオレオレ詐欺、どっきりカメラ、フラッシュモブといった現代の卑俗な事象から、古来より伝わる集団陶酔的な仮面劇や祭祀儀礼にいたるまで、「ヌミノーゼ」とか「遂行的言語行為」「単純接触効果」とかいう術語を持ち出さずとも我われが現実に体験するところである。社会的な労働や、戦争、売春にいたるまで、何らかの人称(Person)、役わり(Performative)を持った人間は、互いに接し合い、広義的な「家族的類似」のもとでまとまっていく。

 説き語りは数多の「神話」を生み出してきた。「なぜ」社会的な行為を行うのか、という問いを、「なにが」社会的な行為を行わせるのか、と移しかえながら。前者に漂っていたぼんやりとした時間性は、鮮明な空間性へと切り替えられていくだろう。「異形」かつ「場違い」なトリックスターが、共同体社会の「先駆者」としてあがめられるのだ。洒落などの連想も契機となって、目が一つだったり、羽や角が生えていたり、太陽や動物から生まれた人間が「マレビト」としてあらゆる知恵をもたらす。自然現象や、剣や杖や竪琴や臼など、特定の階層を象徴し、動植物に生死をもたらす「道具」も説き語りの格好の題材である。

 文法的構造としては、ダイダラボッチや道場法師といった説話群に見られるように、もともと「星」とか「法師」の類の敬称だったものが、いつの間にか「ボウズ」や「坊ちゃん」といった愛称、得体のしれないものへの蔑称に変化し、「金坊」のように指小辞(diminutive)や単に特定のモノを指す冠詞的な働きへと変化していく過程と捉えることができる。

 それらが神格化され、道徳的模範や共同体の起源として一定の信用を与えられることは、その集団に「禁忌」をもたらす。神が夜這いを行ったさいに途中で鳥が鳴いたから、そこの村では鳥を飼わないという信仰に端的に現れた価値観や、「ことわざ」「慣用句」「故事成語」として一般化された表現、さらにいわゆる「差別語」「卑語」のタブーまで、その「神格化」の方向性はともあれ(俗語化したり、差別的な表現は一見して「負の」神聖化に見える)、表現の発出にさまざまな制約を加えるのだ。

 「マレビト」による「マレビト」の模倣的な説き語りは、多方面に伸長する権威を生成しようという目論見のもとでおこなわれる。得てして、その企みは成就され、「伝統」という虚構のもとに、広域への「伝達」次代への「伝承」がなされていく。

 

 動物もある位置を指し示したり、因果関係を理解して道具を使用することができる。それでも時間を圧縮して空間として思考し、表現する技術がなくては記号的な関係を操っていても言語とはいえない。それを踏まえて、祭祀芸能にみられる様態の変化(へんげ)、そして数学的な微積分や群論などによる物理現象の理解は、古代中世の説話的語りが高度に抽象化され、政治経済上の変動を経験しながら積み重なっていた文化というべきである。