マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

情報操作概論――どうすれば有名になれるか、または「無識者(むーしきしゃ)」心得

 文系研究者は基本的に無名である。無名だと出版物を出そうにも出せない。研究者としての成功や科研費やなんだのやりくりのために、大学や学会のアカデミズムに歩調を合わせることとなる。そうすると内輪での評判はよくても、一般の知名度が皆無となる。これでは出版社も渋ってしまう。結果、文系学問は無益だと切り捨てられる。

 

 とにかく、このままでは情報化社会は活字文化社会と同じ道をたどりかねない。匿名で何でもありの雰囲気が消えうせ、自由な議論を謳いながら、心理的、社会的にものを言えなくするシステムが、このソーシャル・ネットワークの時代にもやってくる。だれもがヴォルテールのように相手が異なる立場で発言することを許してくれるわけではない。

 

 「情報操作」は、そのような不寛容な社会に取り入り、自らの意見を表明する地盤を整える手立てである。何もスパイや政治家のやるような汚い仕事ではなく、人間が普段から行っている「思い違い」や「腹芸」、「噂話」などの類から始まることであることを理解しなければならない。

 

 多くの研究者は、学んでいる学問領域が行ってきた「情報操作」の方法を、みずからに適用することができていない。経済学者が相場で成功することが難しい、と言われていることによく似ている。おのれの学問に染みついている欺瞞や裏を疑うことのない、というより気づかないような清廉で純粋な姿勢がそうさせるのであろうか?

 

 とりあえずまず、研究者が有名になる方法から「情報操作」の基本を考えてみよう。ここでは芸能人を例にとって考えてみる。

 

有名になる≠当たり障りのないコメンテーターになる

 「破滅型芸人」というのは、芸能界のサラリーマン化ともいうべき均一化によって、ほとんど見られなくなった現象である。芸能人はとかくコメンテーターや文化人になりたがる。下品な笑いでむしろ「笑われていた」お笑い芸人も、十数年後にはすまし顔で正論を言うようになってしまう。

 

 これはどのような心境の変化だろうか。芸能事務所があらかじめ確保していたワイドショー番組のポストを、司会者にはなれないがひな壇には物足りないタマにやらせるとか、テレビ局の知り合いが報道局に移転した伝手だとかいう事情はもちろんあるだろうが、芸人側にも一種の守りの姿勢、これ以上有名になっても笑われたくない、尊敬されたいという矜持が芽生えることが考えられる。若いころはどんなに恥知らずな芸風を確立していても、ある時期に結婚し、子育てをしてしまえば、ホームドラマや車のCMなどに起用され、好感度が高く上司や親にしたい芸能人として「出世」していく。

 

 昨今はツイッターで政治的発言をすることの是非が問われることとなった。一般人がふつうにツイートしていたハッシュタグをつけツイートをしたくらいで炎上するのはおかしい、と開き直るのである。しかしながらこれには重大な思い違いがある。すくなくとも芸名を名乗って活動をする以上、芸能人は芸能事務所の「商品」である。そして出演番組やCMを通じ、スポンサーとなる会社の商品のイメージ・キャラクターとして活動しているのである。特定の政治思想と商品が結びつくことは、多くの場合スポンサー企業の利益の追求と反する。そのため降板や引退といった措置が講じられてきたのであるが、近ごろはスポンサーの撤退、テレビ業界の衰退などで不祥事と復帰のスパンが早くなり、またクレームや不買運動を先回りしてこうした対応が行われるようになったため、「芸能人の不祥事」というものが形骸化してしまったのである。

 

 多くのサラリーマン化した芸能人にとって、自分が「商品」として扱われている意識は希薄だ。ステルス・マーケティング騒動からだろうか、ツイッターや動画サイト上のインフルエンサーとの垣根は低く、自らを「流行を拡散させること」をノブレス・オブリージュとした貴族かなにかと勘違いしている。彼らにとっては「炎上」は優雅な生活に終止符をもたらしかねない没落であり、一所懸命頑張ってお茶の間の正論を代弁し、文化人として自らの趣味を高めようとする。しかしながら、それはみずからの「有名」を食いつぶし、世間から忘れ去られ埋没する一歩手前の悪あがきにすぎない。

有名になる=不快になる、社会現象になる

 売れるまでの「不快さ」の増幅こそがタレントの本質である。有名になるには不快さを売りにしなければならない。マンガやアニメの「陰険な関西弁キャラ」が、人気者としての関西芸人の東京蹂躙の予兆であったように、コメンテーターやYoutuberの多くも、世間知らず(古市憲寿の変貌!)だったり、子どもにはまねさせたくないような不快な言動から注目を集め、まるでセレブリティのようになっていく。根暗、オタク(岡田斗司夫)や意識高い系(ホリエモンキンコン西野)、昨今は陰キャやチー牛など、不快なライフスタイルはいつしか共有され、さながら「時代精神」であったかのように改変、懐古されていく。

 

 思うに、研究者が大成するには、若いうちから不快な言動をとるほかないのではないだろうか。私のようなコネもなく無職でどこの研究機関にも拾ってもらえないようなモグリの研究者はとくにである。それは意見を聞いてもらえるまでの時間稼ぎとしての効用もある。「どうしてそのような恥さらしで不快な行動をとるのか」という問いと興味が、芸能人の有名になるメカニズムの根底にあるからだ。

 

 私はこのことを踏まえ、不快に生きる新しい研究者のスタイルを「無識者(むーしきしゃ)」と名付けることにした。無職と有識者のカバン語である。仮に職を得たとしても、研究者としての職がないのなら無識者である。どうせ有識者も知識としては微々たる違いにすぎない。

 

そして、共通の敵をつくる

 NHKから何とか党や令和何とか組とかいう、芸能人に片足突っ込んだ泡沫政治集団がなぜ流行るのかを考えてみたとき、かれらが「共通の敵」を作っていることに気づかされる。なにも自民党やかつての民主党とて、共通の敵をつくることで選挙に勝利してきた。ネーム・バリューとは自分の名前ではなく、敵である人間の名前が重要なのである。これと「不快になる」を組み合わせると、自らの支持者にはさながら現状打破の救世主のように映り、敵対者にはお尋ね者、つまはじき者のような扱いを受けるようになり、さらに影響力を拡げることができる。「ユダヤ人」を敵視したナチス、「共産主義」を狩ったアメリカ、「フェミニストや不謹慎厨」を敵に回したナインティナイン岡村などにみられる現象である。

 

 私が昨日知域総合人文学研究所の設立宣言で、名指しで乗っ取ると発言したのは京大人文研と日文研である。これには正直失敗した。いくら文系学問の体たらく、カネにならない孤立主義の元凶とはいえ、共通の敵として挙げるには小物なのである。

 

 視聴率主義と奇をてらうゲージツ主義に堕したNHKやマンガ、雑誌出版社などの反知性を訴えるか、「就職活動は学生運動を抑え込み、政府と電通、そしてリクルートの陰謀である」とでっちあげて不快にふるまうか……ここはしばし熟考を要する。