マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

神話から文藝、文藝から科学・教養……マニフェスト

 この数日間、水銀朱についての研究から派生し、鉄や銅、礬類やナトリウム、硝石、花崗岩や凝灰岩などと歴史の関係を調べていた。

 

 従来の「風土」論は主に気候や植生が中心であった。そこから気質や精神、文化との関連を説明するのであるが、多分に国粋主義的で、「環境決定論」とまで揶揄される独善的なものであった。しかしながら、北方人は勤勉で、南方人は怠惰で未開などという類型は、「南北問題」のような経済問題として形を変えながら受け継がれているように見えるし、「照葉樹林文化」とか「日本は木の文化、ヨーロッパは石の文化」というようなお決まりの成句となって、知らず知らずのうちに新たな研究の可能性を潰していることもありうる。

 

 近代的な国境や人種、民族の概念にかぎらず、古代・中世・近代等々の時間の枠組みは、本来イメージをもたない不定形な指示対象である。しかし、具体的に物語る「ことば」を与えられ、そこに画像や音声、映像が付随することによって、何らかの意義をもつように凝り固まってしまう。気候や植生すら、何度か訪れた温暖期・寒冷期の繰り返しや、人為的な伐採などで変わりうるにも関わらず、容易にイメージしやすい、人間の文化を説明可能な体系として受け入れられた。

 

 それでもこの安易な風土との合一は、近代の科学者・教養人が、みずからの立脚する「近代性」をいかに説明するかに払ってきた努力でもあるため、一概に否定できない。商人や職人たちが主導してきた産業革命啓蒙主義革命は、古代人や中世人が墨守してきた「時間性」と「空間性」――こよみや風土を知から取り去り、身分を越えた普遍的な学問を打ち立てようとした。(神によって与えられた)周期をもったリズム性や特権意識から、人間主体で改変可能な、自然の法則性の解明、義務と権利へと関心が移り、それにそぐわないものを「迷信」「未開」として排除するシステムが徐々に形成されていった時代でもある。

 

 宗教や文芸など、伝統的な文化を継承した「教養人」たちは、「近代人」というクランに課せられたこの厳しい「検閲」から逃れようと、さまざまな理屈を考えだす。その一つが風土論であり、現代人の眼からは疑似科学的な適者生存や、進歩史観帝国主義、優生思想である。近代以前の「選民」意識を満たすかのような、現代ではタブー視されているこれらの説明体系は、たとえば「先進国」「発展途上国」のようなクリーシェ(常套句)となって21世紀を生き延びている。いくら先端科学を称揚し、最新のデバイスに囲まれていても、人文的教養が「近代」の枠組みから更新されていなければ、それらを使いこなすことはできない。(SNSはすでに小市民的な息のつまる選民意識であふれ返っている!)

 

 いまこそ、「学藝」意識が求められている。古代人が身の回りの事物をふくむ「みずから」の来歴、領域を生み出した「神話」を、中世人が意味を与え、統合し近代へと伝えたように、近代人の遺した「科学」や「教養」を、綜合し時代へと伝えなければならない。

 

 鍛冶や鉱山にかかわる知識は権力にかかわる「タブー」であるため、ときに悪魔や鬼のような「アウトロー」として、中世社会では放棄すべき「現世の富」、近世社会では唾棄すべき「貧しさ、無知無教養」と見なされ、正当に評価されてこなかった分野である。また放浪を続け行く先々で「特権」を主張する必要性から、「農耕民族」の研究のなかでは原始的な祭祀芸能と見なされている。漁撈や狩猟などの儀礼をふくむ多岐的な信仰体系は、通説的な原始的イメージとは反し、天体の運動の観察、土木工事による墳墓および建築物の形成、そして鉱石や水脈などの知識を要し、さらにその土地その土地の宗教的・政治的支配者と対等な知識人である必要があった(たとえば12世紀の石工たちはスコラ哲学を学び、それに沿った教会建築を行う必要があった)。かれらが定住するまでに持っていた、多くは口承、無文字の学藝の体系は、近世以降の規範意識のために、おぼろげにしか伝わっていない。

 

 しかしそれは、近代以降は「美」として処理されてしまいがちである「石の文化」「金属の文化」に顕われているはずなのである。路傍の石仏を見れば、そこに産出する可能性のある鉱物があらかたわかる。あざやかな水銀朱やベンガラを施された墳墓を巡礼してもである。温泉は同時に硫黄や明礬やナトリウムを産生するし、井戸の奥底や荒れ果てた家屋からは焔硝を取り出すことができた。たたらを踏む特徴的なステップは魂を呼び寄せる呪術的な反閇や舞踊へと姿を変え、南東の風への信仰は「竜蛇神」の崇拝、物語へと結びつく……

 

 現代を生きる我われは、「いつでも、どこでも、だれでも」当てはめることのできるような、いわば普遍的でマクドナルド化した科学、精神論で文化を説明しようとする。物事があまりにも細分化され、微視的になるばかりで、全体像としては前述の「選民」を換骨奪胎したにすぎない現代意識がいまだ罷り通る。学問をジャーナリスティックに、またエキゾティズムへの憧憬、好奇の目から見る視座は、杓子定規に現代的価値観を押し付け、歴史に「もしも」を付け加えかねない不器用さと表裏一体を成す。

 

 思うに、人文学によるこうした考察は、外来思想への無批判な崇拝や、非現実的かつ空想的な生活様式の押しつけにたいする環境的な負担を見直し、ほどほどに見合った「エコロジー」「エコノミー」を実現するのに役立つのではないか。もちろん、グローバルな世界におけるローカルの立ち位置を再確認することで、自国中心主義、孤立主義に陥る恐れは排除できると信じたい。

 

現在、主な関心のある領域は以下の通りであり、すべてが緩やかにネットワークでつながっている。

 

●水銀朱、鉄や銅、礬類やナトリウム塩、硝石、温泉、花崗岩や凝灰岩と歴史文化

●鉱山・鍛冶伝承の研究……神仏習合との関連において

佐藤信淵

●中世ヨーロッパ・ロマネスク期の文芸と錬金術の研究(12世紀ルネサンス前史)

●中国古代神話と中世怪奇小説の類型学

シルクロード海上交易路、十字軍などと文化交渉(および前段階としてのヘレニズム文化)

●語族とクレオール文化

●農耕文化と各種ノマド文化との交錯としての神話、祭祀芸能誌