マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

拡張する神話群――「物語る」言語の意味

 神話学は、「国」「民族」「階級」といった閉域、そしてその比較にとどまってはならない。

 

 「かたる」ことは、常に時間的・空間的に拡張していく性質をもっている。経緯をかたり、「かたる」という自らの行為自体を特権化することは、ひとえに閉じた領域を生成しつつ破壊するいとなみである。

 

 わたしはここ数か月、古代や中世の鍛冶職人や鉱山師、商人たち――ときに霊力をもつとみなされた祭祀芸能者でもある――の活動をつうじ、それが王を頂点とする農耕共同体にどのような物語を「占有したか」ということについて関心をはらってきた。錬金術や秘儀などは、古今東西を問わず職人や商人と結びついていた。職人や商人の遍歴は、異境や異教といった、ことなる領域どうしの知をめぐりあわせることとなった。

 

 かれらはまた、定住的な生活様式とはことなった感覚を持ち合わせている。移動にともなう数々の特権を有することに加え、みずからの属する共同体特有の言語体系によって、周囲とは識別されていた。言語がことなる共同体のあいだの暴力は日常茶飯事であり、しかもそれは理路整然とした閉域の法で取り締まることがきわめて難しかった――暴力を演じ、また扮することはかれらの知の体系の再現であり、つまるところ「死と再生」という特権を準備するものであった。無秩序な暴力はやがて祭儀として完結し、習慣化され、あらたな閉域を――聖なる空間と時間を神と人とのあいだにむすぶこととなる。それまで、移動による拡張は多くが無意味にみえる「流動性」「変種(ヴァリアント)」を生み出しつづける傾向にある。

 

 「かたり」の多くは、(近代人の峻別しようという努力もむなしく)宗教的なものと世俗的なものが未分化であり、それらにまたがる特権化を、ある「もの」、「媒体」にことよせて生み出されている。

 

 職人や商人たちが取り扱う道具――しばし魔法や奇蹟の証とされる刀や杖、臼、薬、山車その他は、その目的となる富や繁栄をその根源に投影しながらかたられる。かれらはその道具によって識別されるような社会集団を営んでおり、その恩恵としてさまざまな特権を支配者から許されている。権力者の墳墓は、ただ強制労働の産物として存在するだけではなく、巡礼し、儀礼にのっとり特権を確認する場として、またその歴史的起点として位置づけられている。そこに象徴されるような「死と再生」という物語の舞台装置は、徒に儀礼の遂行者たちの願望であるのみならず、死者と遂行者との社会的関係の淵源を行為遂行的(Performative)に「演ずる」ことにより、その生を更新する(ありつづける)ために必要とされる。見立て、再現し、目撃すること――マレビトを饗応し、共有することの効力は、今なお呪術的に根強いものがある。

 

 たとえば、生をも死をも振り切るような「あそび」を持つ、「トリックスター」の存在は、その演者と観衆であるところの職能集団どうしをわかちがたく結びつけるだろう。芸能集団と社会の結びつきにより、ジャーナリズムは体を成してきた。ジャーナリズムは社会悪を出し抜くトリックスターとして機能し、その勧善懲悪的、教訓的、合理的な主義主張によって、民衆の国民国家への統合を扇動してきた。1750年代からの「長い19世紀」は、フランスのサロンにおけるトリックスターが暗躍した時代でもある。のちに文化人類学トリックスターを研究する母胎となる、新聞や雑誌などの「公共圏」の誕生にも、理知的に見えてこうした物語的、呪術的なプロットを見て取ることができる。

 

 死や再生のみならず、かずかずの非現実的――反実仮想的な物語は、不確実で、不定形な未来と過去を「置き換える」象徴の体系によって成り立っている。それが拠るところの社会的階層や歴史的展開などの「構成」のうちに、分肢となる両極端の事象とを対応させる視点――これは文献学的には予型論といえるかもしれないが、これは前述の「投影(Projection)」によってそうした階層や展開に一定の「強度」をもたらしている。かたられることばが「張りめぐらされ」、強固であることで、共同体は閉域化され、一種の規範が生み出されることとなる、過去と未来のゆるやかな相似形は、たとえば「して行く」と「して来る」で過去や未来を言い表す文法に見出すことができる。反転した価値観で表されるヒエラルキーの対比といった修辞にもこうした「投影」がみられる。

 

 こうした共同体が緊密な閉域であるだけ、襲来する「特権」のもつ破壊力はその象徴体系のもつ効力、信用としてひとしく強大となりうる。ナショナリスティックな教養で固められた戦前社会を襲ったノマドアメリカ的な消費文化がどれだけ羨望されたことか。羨望することで、みずからに幽霊を投影することができる。聖なる土地、聖なる祭祀を区画し、占有するという行為は、一方の体系をもう一方が破壊する。祭祀儀礼を「演じ」「扮する」ことが、自らが他者に対峙する「特権」をもつことを引き出す。これは近代社会の義務と権利のもととなる基礎的な考えであるし、貨幣のもつ信用と商品のもつ信用を等価でくくり、取引する経済のもととなる。もともとこれは祭司や王などの支配者が「こよみ」や「風土」を熟知し行ってきた「マツリゴト」にかわり、一年中いつでも、世界中のどこでも通用する政治経済を確立する、という近代最大の欲望にのっとって遂行されてきた破壊行為である。

 

 15世紀のルネサンス以降、それまで流動的に遍歴しのけ者にされてきた、職人や商人が主導して進めてきた科学や政治の革命は、先行する王や貴族たちの古典文化にまして「類型化」を促す傾向にあった。活字による出版と教育、読書が定着するにつれ、社会の流動性は失われ、閉域に鎖され、それらに取って代わるような「機械」と「型」の思想が蔓延していく。元来職人たちや商人たちの持っていた口承的な「錬金術」「秘儀」のシステムは、その本質である「流動性」を見失い、近代という定点からみた奇異さのみが強調された。かつて彼らの身分を保証したところの「秘密結社」的儀礼は、社会を顛倒する暴力として、しだいに排除されていくし、神秘主義は、つまるところ野蛮で無知であるというように軽蔑されるようになった。

 

 研究者は、それらが祭祀芸能の名で侵入する、農耕共同体において表面上主張する「豊饒」という偽りの目的に眩惑され、「原始」という目に見える他者を追究することとなった。それは傲慢、偏見に見えて「進歩」という目的のために消費されるべき(文明化されるべき)植民地という他者への潜在的脅威であった。廃用となり、行き場をなくした「原始」は、芸術としてもてはやされたり、形を変えて社会運動の原動力となってはきたが、その本質は歪像であり、細切れに分断されほんらいの統合的視座を失っている。ハードウェアが進歩し、大容量の映像と文字による記録がインターネット上にアップロードされる時代においても、ソフトウェアとしての視点が更新されないままでは、これらがもっていたネットワークの故を温ね、活用することはできない。現前するグローバル社会を維持し、理解するためには、閉域や障壁は乗り越えなければならないのだから。