マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語文化:生と死のあいだに……

 このブログでは、伝統的かつアカデミックな言語学とは異なる「言語についての学問」を追究するべく努力してきた。

 

 模範的な言語学では、たとえば「ピエールがポールを殴る」という文を、名詞や動詞、3人称現在や主格・対格という文法的な要素に分解し、同程度の文章、「ピエールは学校に行く」や、「リリーがべスを殴った」という文と比較し、その差異を「他動詞対自動詞」や、「現在対過去」といった現象(あらわれ)の対立として観察している。そしてそうした区分がなにに起因するか――民族や国家という巨視的なコンテクスト、あるいは脳の認知や生物的なミクロの進化を原因として解明するように展開してきた。

 

 外形としての文法と連動するように、内容物としての説話も、要素ごとに分解され、構造的に比較されている。こちらも同じように、集団語の内の巨視的なコンテクストと個の認識という微視的なコンテクストのもとで説話という現象が説明されてきた。

 

 文法と説話は、しかしながら、言語文化にとって欠くべからざる二大構造でありながら、言語学においては根本的に噛み合っていない。文法と説話伝承双方を取り扱った研究に出会うことはきわめて難しい。とくに日本の研究者の言語にかんする関心は、その時々のヨーロッパの流行をいわば受け売り的に翻訳し広めるのみで、俯瞰の視点で、オリジナルの言語でかたるものは皆無にひとしい。

 

 日本語で基礎的な研究が容易に読めることはたしかに利点ではあるが、そこには別の問題も潜んでいる。資料集めの制約もあり、他分野の研究を参照することが難しかった昭和時代以前はともかく、リファレンスがきわめて手軽に利用できる21世紀にはいってもなお、先鋭化した研究どうしを学際的に比較できずにいるのは、大いなる損失であるとしかいいようがない。一つひとつの研究には、研究者個人が気づきえない先入見や早合点、旧い知見や無知が含まれており、単純な比較はむしろ害でさえある。それでも、説話や文法にかんする、個々の研究の問題点を洗い出し、統一的な視座によって方向づけ、究明していくことが、他分野の研究をアップデートすることにもつながると私は信じている。

 

 

 往昔の言語文化研究は、近代科学文明を中心として、周縁の社会を「素朴」で「アルカイック」な研究対象にする傾向にあった。古典的な神話や野蛮な民族、女子供やアウトサイダーの有する言語文化は、進歩していく人類の「発展の過程」としてのみ意味をもち、都市に住まう洗練された教養人――多くが産業革命や啓蒙革命により発言権を得た商工業者に列なる――を中心とした精神的ヒエラルキーを形成した。

 

 ポスト・モダンやポスト・コロニアリズムといった知識人たちの運動も、60年代に端を発し、現在も根強く続く社会的アピールも、「長い19世紀」に形成されたこの近代的な「精神」の言語文化の両極に依拠するかぎり、旧態依然とした構造をいわば無意識的に引き継ぎつづけている。停滞しつつあった人文学を、たとえばその時代に進歩した(と感じられた)社会科学や自然科学に隷属させて「科学的」に説明ないし証明したりしたと思い込んできたことも、このヒエラルキーの浸透を疑問にさえ思わない状況に拍車をかけている。

 

 これはけして知識人の高踏的で冷笑的な体質いかんという問題ではなく、現実における差別的なシステムが、たとえば「民衆的」などというあやふやな美名のもとで塗り固められたり、名前が変わっただけでそれが継続されていると認識できない、歴史を繰り返す愚、ヒューマニズムの破綻を意味している。現代における人文学的な視点、教養の欠如は、すなわち経済や科学の根幹たるヒューマニズムの破滅にほかならない。それは一概には悪とは言えない。我われを覆う停滞の雰囲気は、いいかえればヒューマニズムが人間中心主義を脱皮し、別様なものへとうつる機運ともいえる。

 

 そうした社会のあらゆる先入見を排した、究極的な言語文化の淵源に立ち返ってみれば、そこには「生と死のあいだ」が存在する。そのはざまを埋めるように、繰り延べるように、我われはモノやコトを占有し、空間や時間を近く-知覚する。延べる-述べ、騙る-語りは、モノやコトと一体化することで、確証、信憑性を他者と共有し、空間的な伝達作用、時間的な伝承作用を機能させる。時も場所も離れた神話や伝説がしばし共有する説話素は、そうした作用を経て物語が広がった目印となるだろう。それは「貨幣」の流通システムとなって、豊かさを示すしるしとして現代にも息づいている。言語にくらべて貨幣は、通用する空間的な領域(space)、時間的な限度(time)が統一され無制限であると錯覚しているが、両者ともその意味や意義はつねに変化しつつあり、きわめて不確実なものにすぎない。

 

 あるいはこれを歴史的に、墳丘墓の周縁が聖域化し、そこにシャマニズムや巫覡の語りが発生し、一部は聖なるものへの信仰と化し、一部は民衆的な芸能、劇(ドラマ)へと異化されていった過程とも捉えることができる。それらの担い手として冶金や鉱山の知識を持った漂泊民たちが農耕社会ともった関わりは、死への問題――ケガレとして価値化される以前に、自然災害や兵乱などを起こす予兆として、具体的な畏怖を伴っていた。かれらは結社、巡礼により各地を移動し、聖域や聖なるものを制作、維持する必要不可欠な存在でありながら、それらを崩壊させかねない破壊衝動を秘めていた。信仰という生へのプロパガンダは、いがみ合いを起こしかねない共同体内の成員を通過儀礼で均一化し、破壊衝動を外へと逃がすように制度化された。古代中世の知識人のこうした試みはひとまずは成功していたように思える。

 

 畏怖は具体的な空間(風土や建造物)や時間(こよみや祝祭)とむすびつき、権威、権力として効力をもつ反面、鏡像のように、忌み嫌われるタブーを塑像していった。そうした存在への畏怖を超自然的、反実仮想的な「振る舞い」として象徴し、具体的なモノゴトへと――家畜や穀物、魚獣の収穫や木材、石材、土の衣食住にかかわる道具への加工、分有は、それらに必要な天文観察による気候や季節の予測、山河の環境変化などと重ね合わせられ、神話化した。

 

 かたりの文化は、時にコントラストを徹底させ、時に顛倒した世界を描くことを通じて、人間性の分節、分肢を主張する――それは、反実仮想的で複雑な文法構造をもつ古典文法から、それらがお決まりのクリーシェへと退化し、直説法しか存在しなくなりつつある俗語、口語に写し取られることで、良くてせいぜい純朴無知な想像力、悪くて虚言や病的な誇大妄想へと受け取られ、近代社会に偏見をまき散らすこととなった。

 

 反実仮想的な分岐は、直線的な時間や空間的な位置関係、成否を決定せしめる平叙文的構造にくらべて、「詩的」「文学的」な感受性に依存するものと捉えられてきた。多くは仮定、条件、比喩などに細分化され、その民族語、国語固有の(典拠がはっきりした)定型表現、スキーマを用いるように強制される傾向にある。この強い境界意識が、言語文化において「生と死のあいだ」を成すもの、すなわち聖なるものへの畏怖であり、いくぶんか戯画化された「欲望」や「忌避」として言語化されうるものである。

 

 しかしながら、それは前世紀において考えられてきた、モノやコトを統一的に支配し、それらから一段高次に隔てられている「精神」ではなく、モノやコトの確証性・信憑性として機能し、共同体内で共有される性質の言語文化なのである。