マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

次代のフォークロアのために

 人と人が接し、何らかの表象や指示――いわゆるコミュニケーションが行われるとき、それらが明確に伝わり、実行されるかどうかは不確実である。そのため、コミュニケーションをより「均質的」に、誰でも同じように享受できる手続きないしシステムが整っていることが、音声や身振り、文字の体系を「言語文化」たらしめる要点であるといえる。

 

 こうして課された条件は、すでに万全に伝わるべく整備された、近現代の国語や科学観に慣れ親しんだ人間にとって、無意識に受け入れられ日常的に見過ごされているものである。サルや動物に言語が存在すると主張したり、有史以前の文字や文化を発見したという研究者には、それらが真に伝わるような「言語文化」を研究対象がひとりでに維持してきたのかという考察をうやむやにしている。考古学や動物行動学は、実験観察や発掘という行為を通じ「人間社会」を中心に据え、そのコミュニケーションの体系を絶対のものと信奉することで、動物や有史以前という「他者的存在」の言語を類推的に判じている。

 

 人文学とてこうした「言語文化」をはっきりと認識しているとはいいがたい。古代の言語を、また外国語を教養として学ぶときも、そうした「他者」の民俗まで踏み込んで、コミュニケーションがいかに維持されているのかを考えながら学ぶ人間は少ない。たいてい珍奇な迷信、風習として表象される。金がらみのスキャンダルに事欠かない、占いや魔よけや秘密結社という迷信も、宗教や信仰という言葉でさえも毛嫌いする人間も多い。恐ろしいことに、自国の儀礼であっても、近年は政治的中立・多様性とか虚礼の廃止とかいう理由で簡素化され、きわめて無頓着になりつつある。エアコン、ファストフード店、高速道路、大型ショッピングモール――年がら年中同じ生活様式を保つことが容易になり、季節感や土地柄などその場その場に適した習慣は時代遅れのものとして排除されていった。かろうじて残っている節分や節句イースターなどの行事は、今や消費社会のいち「トレンド」「風物詩」として生き永らえているにすぎない。

 

 しかしこれらは元より、他者とのコミュニケーションが円滑に行われることを企図した、言語に深く結びついた文化であるはずである。こうした慣行を排することで、かえって必要な情報が必要な人のもとに行き渡らなくなったり、何を実行するにもより金や資源を浪費する冗長性にわれわれは直面している。こうした鈍重鈍感な社会を「経済的な成長」「文明の進歩」と呼ぶのはたやすい。人間の相互理解の限界が生んだ、戦災からの復興成長を考え直すきっかけを、自然の猛威への震災、そしてコロナ禍を経験してもなお、十分に活かしているとはいいがたい。

 

 活字によって、言語文化はその通用していた環境から隔離され、人間の想像力や権威主義が生み出した「精神」「虚構」と位置付けられた。神秘主義者やオカルティスト、ロマン文学者はては幼児の娯楽にしか過ぎず、新奇な科学に駆逐され、大衆文化によって刻まれたステレオタイプはいずれ忘却される運命にある。ささやかな抵抗として、好事家たちは消費社会のセンセーショナルな事件や流行するフォークロアの中に、その残滓を見出そうとした。

 

 反体制の義賊、トリックスターピカレスク、カウンター・カルチャー――ありとあらゆる英雄が生み出され、幻滅し、それ以上の追究が行われることがなかった。現前する事象に神話を投影し、古代からの連続する「精神」を演出することで、からくも人間は人間らしくいられるのだ。大衆文化、とりわけサブカルチャーそうしたコピーのコピーを崇拝し、収集癖やフェティシズムに囚われることが、高尚な教養であると捉えられている。全体像、およびそれらを貫徹する原理の発見というのは重要視されていないようだ。

 

 人と人が接する場は、とりもなおさず「劇的」である。産業革命以前の商工業は、その遊牧(ノマド)性のため、つねに暴力や卑賤視と隣り合わせであった。採掘、河の汚染、土木工事などで自然に干渉し、災害や兵乱をしばし引き起こす生活様式が、人びとの畏怖をもたらすこともその要因である。しかしながら、秘儀や遍歴、巡礼などの通過儀礼、そして一年の行事を執り行うことが、属する共同体の生を体現し、起源を象徴するものであった。先述の反体制の英雄観は、古代の信仰、そして通俗化した語りという芸能の見せる幻影であったのだ。一神教であっても多神教であっても、農耕社会と商工業が一体をなす過程、コンプレックスが神話化の根源にあることは共通している。問題であることは、古今東西の神話の比較において、しばしば人類学が時代や地域、生業のつながりを断ち切り、押し花のように押しつぶした成果を「人類の普遍的な特性」のように観察していることである。それは現代の政治経済情勢、ひいては近代の植民地帝国のもたらした秩序の黙認にすぎない。

 

 いくら距離がはなれようとも、仕事がAIに代替されようとも、人と人のあいだにはフォークロアが成立しうる。記号どうし、物語間を比較した信憑性や確証をしるしづけるプロセスを認識し、透徹した言語文化観をもって考察することが、万人に対等なグローバリズムに資するものであることを信じている。