マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

「蝦夷」、境域の民たち:西国との交易・文化的関係をかんがえる

 蝦夷の歴史は「境域」の歴史と捉えるべきと思う。

 

 明治以降の古代東国史研究は、蝦夷対和人という民族対立、支配や隷属という階級対立の歴史として考えられてきた。それは江戸時代から続くアイヌとの交易だったり、北海道の入植という内政問題とも密接にかかわってきたし、コロポックル論争などから端を発する先住民問題にも入り組んでいる。そのほかにも縄文人弥生人というよく知られた類型や、東北以西のアイヌ語地名説、マタギなどの狩猟文化など、学界の定説、俗説を問わず近代の蝦夷観が波及した例は枚挙に暇がない。

 そして多くの説が、アイヌ蝦夷縄文人、和人=渡来人=弥生人のような図式を当てはめ、北海道や東北の文明化や近代化という近代日本国家(と一部のキリスト教宣教師)の使命をそこに重ね合わせてしまっている。ここにはヨーロッパにおいてケルトエトルリア、ゲルマンの文化が被った国粋主義プロパガンダに似たものがある。ことに日本語とアイヌ語の関係や先住民などのアイデンティティにかんしては、今なおナイーヴな論点を孕んでいるために、おそらくコンセンサスを得ることは難しいだろう。儒教的な蛮人観や、ナショナリズムが推し進めた「肉食禁止」などの均質的な日本文化観が、いまだに根深い溝を残していると言わざるを得ない。

 

 しかし、こうした古代史の伝承にかんしては、坂上田村麻呂阿弖流為、あるいは中世の悪路王や長髄彦、安日彦、高丸などの伝説が、寺社縁起や猿楽や口碑などを通じていかに人口に膾炙していたかを勘案しないと、この問題の射程を見誤ることとなる。さらに近隣の交易関係――すでに開かれていたペルシアや唐とのシルクロードや、インドや長江流域、朝鮮との海路などのマクロの視点なしに、原始的狩猟民対農耕民のローカルな争いのように捉えてはならないと思う。

 交易路上に生じた紛争が、いかに解決され、説話などの語り物として伝えられていったのかという、近年のスペイン・レコンキスタ研究のような視点が必要となるだろう。「征服」の語りを欲していたのは、京都や南都の官僚や聖職者の思惑ばかりでない。その時々に立場を変えざるを得なかった境域上の民にこそ、生きる根拠となる起源譚が求められていた。一方的に虐げられていたものへの判官びいきというペシミズムではなくして、利害の合致を追求する探り合いとして、これらの説話を考えてみたい。

 

 神武天皇崇神天皇といった征服者の近辺には、久米氏・安倍氏物部氏和邇氏・大伴氏・中臣氏などの氏族が、長髄彦や土蜘蛛という「先住民」とは峻別された形で現れる。生駒や東大阪、南大阪や橿原一帯にゆかりの古寺社が多数存在するところから推し量るに、古代から活発な定住・交易がおこなわれていたのだろう。しかしながら、後世の史書なりに記録されたように、のちの外国人街のように明確に街区化されそれが「渡来人対先住民」のように明確にイデオロギーとなっていたかは実のところわからない。

 あるとすれば、その時々の紛争に応じて、有力者のもとに兵力や技術者たちが結集して戦闘が行われていたのだと思う。話される言語も、近代のように日本語やアイヌ語という明確な区別を持たないクレオールが話されていて、信仰ものちの道教シャーマニズム神道に分化する前の未分化なものだったのであろう。しかしそれは単なる迷信でなく、磐座や石神、星や大木などを、測地や治水、交通やこよみに利用するものだったと考えられる。熊(久米氏に関係か)や狐(安倍氏に顕著)は、中国の神話群とも相通ずる神獣である。熊皮を身に着けた方相氏や北斗七星(熊とサマユンクルを北斗七星に結びつけるアイヌの説話が存在するという。また方相氏の四つの眼は、北斗の枡の四つ星ではないか)、伯夷と叔斉などの山岳信仰などを同源とする考えがあると思う。また、物部の遺臣であった捕鳥部萬は彼の頭骨を咥えて離さなかった白犬とともに葬られたが、白犬は狼を思わせる。

 

 難波の四天王寺周辺にもその痕跡は残っている。安倍氏の拠点とされる阿倍野物部氏の本拠であった荒陵は、住之江の港に隣接していた。荒陵は茶臼山の古墳であり、一帯は中世、また近代にいたるまで、病人、貧者、放浪者といったアウトサイダーたちの宿所であったといわれる。異人を受け入れ、ケガレを払う場であり、舞楽秦河勝を始祖とする四天王寺舞楽)や歌謡(住吉の神は歌道の神とされる)、そして航海や渡河に必須である天文などの知識が行き交ったのであろう。この要衝を本拠とし、さまざまな祭祀で境界を清める役割をも果たしていた武士集団、源融を祖とする渡辺氏と蝦夷の一派とされた渡党の関係が気になるところである。源融は塩釜の浦を居宅に再現する風流で知られたが、神仙に傾倒した道者の側面もあったという。

 

 阿倍仲麻呂安倍晴明を出した安倍氏大彦命を祖とする。いっぽう東北の安倍氏、安藤氏は中世、長髄彦や安日彦の子孫と称した。しかしながら両者には異形の鬼神のイメージが共通している。吉備大臣入唐絵巻は、鬼と化した阿倍仲麻呂吉備真備を助ける物語で著名であるが、それは阿倍野での安倍晴明の誕生の前日譚であった。この二つの安倍の存在にくわえ、各地に残る晴明(清明)塚や阿部山の伝承には、陰陽師とよばれる人びとのなかに、土木治水の人足や巫覡の徒として動員される豪族としての安倍氏と、中央官僚として、総括し測量や天文を指導する立場にあった安倍氏の二重構造があったことを思わせる。

 その他の氏族にもこれに類する観念を当てはめたい(のちの賜姓皇族と武士たちの「党」の関係はこれに類すると思う。中央から政治的に排斥されても、地方の豪族との関係により土着化していったのだろう)。安倍氏はape(火)から来ると田中勝也氏はみずからの蝦夷論の中でのべた。さらに記紀に通底する道教的思想に沿えば、大伴はtom(輝く=金?家持は陸奥の金鉱発見を祝う歌を出しているし、佐伯とサヒ=鉄、鋤の関係を推したい)和気はwakka(水、水気の象徴である猪と縁が深い)、和邇はni(木、木地師ゆかりの小野氏や柿本氏を輩出)そして中臣は土気をもって五行を循環させる役割を担ったとこじつけることができる。

 

 と、ここまで書いて、荒唐無稽ともいうべき説を長々と書き連ねてしまった自らの不勉強を恥じる次第である。しかしながら、平安京や南都の官人の権謀ありきで語られてきた蝦夷との交渉史を、東国の古代だけではなく、たとえば吉備や播磨や難波などといった交易拠点を見据えて広域的に考えると、中世の東アジア交易を担った海洋民アイヌとのミッシング・リンクをおのずと埋めることができるように思う。