マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

人文探しの旅:大阪・奈良

 かねてより人文探しの旅をしてみたかった。自分探しではなく、古本集めと古代史のフィールドワークを兼ね、国内を回り、現代の地域振興に役立つ情報を収集するれっきとしたプロジェクトである。

 

一日目

 

 出発は大阪の天王寺。そこから阿倍野を下り、南田辺の古書店「黒崎書店」を目指す。目当てはインドと中国の天文知識の交点、「宿曜」の本である。また、一帯は太子信仰や物部氏安倍晴明にゆかりの深い地域である。太子の手下が大蛇を斬り殺した桃ヶ池(股ヶ池)など、

 

 目当ての古書を確保したあと、八日えびすで知られるという山阪神社に詣でた。そこから針中野まで歩き、近鉄柏原市まで向かう。手始めに石神社や弘法水を見て回る。高尾山山麓に沿って旧跡が点在しており、神社は冷涼な雰囲気に包まれている。トンボとたわわに実る特産のワイン用のブドウが、すっかり秋を感じさせた。

 

 夏に古市古墳群と道明寺天満宮を見に行ったさい、時間がなく断念した場所がある。智識寺跡と鐸比古鐸比売神社だ。前者は聖武天皇が参詣し大仏建立を思い立ったという毘盧遮那仏をかつて有していた。後者は和気氏の先祖鐸石別命を祀っていたといわれ、高尾山の頂上に巨大な磐座、その周囲に古墳群を擁する一大遺跡である。雁多尾畑など著名な産鉄地・製鉄遺跡も近い。

 

 参道から高尾山の頂に磐座が見えて、おもわず快哉を叫びたくなった。石・鉄・水源はこの大阪南部から奈良中部の古代を巡る旅の鍵となる。天文や地理の観測の目印のために磐座が作られ、冷涼な風や水を利用して死者を葬る山陵が造営された。おそらくここには長江からインド廻りの仏教や道教の知識と、シルクロードやステップから黄河流域に通じる埋葬・シャーマニズムの双方が作用しているように思われる。

 

 古代において木石や金属という資源を確保し、観測や加工などのいろいろな設備を保持するには、「死者の祭祀」という名目がなければすぐに散逸してしまったのだろう。専門家はとかくビジュアライズされたものに目移りし、文字以前の文化を軽視する傾向にある。なかでも神仏と王権の結びつきおよびその奇瑞は、科学啓蒙思想においては荒唐無稽なものとして解釈される。

 

 神話や説話群は「実在した王や民衆」の政争なり抗争として合理化されるが、そこにかつて存続していたであろう天文や地理風土、そして冶金などの「職能民文化」の知識の痕跡は無視される傾向にある。完全に官人の作為や虚構の説話伝承が数百年、数千年も知識人の書写で維持されると考えていては甘い。実体は半聖半俗の修験や陰陽師が神楽や声聞などの芸能を介し、職工民と王権を結び付けていたのだと思う。

 

 そこから香芝を経由し、志都美に泊まった。

 

二日目

 二日目は二上神社に参ろうと考えていたが、手違いで五位堂で降りてしまったため、そこから當麻寺まで歩いて向かうことにした。一帯は二上山を借景に水田がどこまでも広がっており、モータリゼーションと狭い歩道で歩きにくい中をかき分けて進んでいく。

 道ばたには、「往生要集」を表した恵心僧都源信)の生誕地や、古墳の蓋石を用いた「阿弥陀橋」の遺構があった。想定外の収穫である。聖徳太子の弟麿子親王が建てたと伝えられた當麻寺も、いまは真言密教と浄土宗が同居した状態となっている。本尊は当麻マンダラと来迎阿弥陀。本堂には役小角像や中将姫の像もあった。

 

 とりわけ目を引くのは壇や鐘楼に用いられた朱の鮮やかさである。日本最古の銅鐘や石灯篭、奥の院展示の鉄仏や銅の打出仏から、技術の伝播の経路を感じずにはいられない。奥の院が浄土宗を奉じているのも、さまざまな受難を経た女人の参詣を許した中将姫伝説というのも、もとはミトラとかアナーヒター女神が下敷きにあったのではないか、と勘繰らずにはおられないのである。庭園には倶利伽羅竜王が祀られているし、とくに灯篭というのは、火袋に日月を配しており、一種の竜を模した石造物である(伊勢の暦には目が日月の、ウロボロスのような竜が本州を囲む図像が用いられていた)。

 西洋においては昇交点、東洋においては春の木気の象徴である龍は、冶金文化では秋冬の季節風による製鉄の終わりを告げる象徴であったのではないかと思う。それだけに、農民には洪水や台風、日照りなどの災害と同等に畏怖され、水神として祀られたのだろう。夜通し風雨が吹くほど「富貴」になった職能民と、太陽と収穫が待ち遠しい農耕民の価値観の対立に、現代にまで問題となる差別の根源があるように思う。それでも、治水や城塞の建設、農具や穀物のやり取りなど、ギブアンドテイクを成り立たせながら、社会生活を営んでいたのである。

 

艶めきて 蓮葉(はちすば)身をく 蝉しぐれ

 

當麻寺 仁王は蜂の みつを知り

 

 次いで、大和高田市竜王宮を拝観し、街並みを見て歩く。和銅の時代に建立され、長谷寺と本尊が同霊であるといわれる「元長谷寺」などを見て回った。そこから、田原本に向かったのだが、笠縫で途中下車。太安万侶の故地といわれる多神社へむかって歩き出した。

 お社まで1.5キロもあるらしく、往復に苦戦した。ここも見渡す限りの水田で、トンボが乱れ飛んでいる。用水路の水面には、食用として輸入されたが失敗し、今では稲を食い荒らす外来生物である、ジャンボタニシラズベリーのような卵が浮かんでいた。

 肝心の神社は、古事記1300年のときに作られた石碑がたたずむ、閑散とした神社であった。かといって荒れ果てているというのではなく、鎮守の森に囲まれ、後方に神武塚と呼ばれる鬱蒼とした木立が控えた、風格のある神社だ。弟に皇位をゆずった神武天皇の長子神八井耳が祀られており、末子相続や農耕起源神話との関係を考えさせられる。付近の多氏観音堂神仏習合時代の名残で、白飯を腹いっぱい食べる仏事が行われているという。農民の一年一度の贅沢とされていたが、修験の神事にも似たようなものが見られるため、なにかの予祝儀礼なのであろう。

 

 笠縫駅まで戻ると、もうすっかり日が傾いている。そこは「秦庄」と呼ばれる一帯で、秦という表札が多くみられる。秦楽寺という寺があり、聖徳太子秦河勝が祀られていた。秦の楽人の寺という意味らしく、中国ふうの山門と、大きな池が特色の寺だ。大和の円満井座や金春屋敷があったとされる猿楽の故地であり、近くには世阿弥が禅を学んだ寺もある。太秦や宇治、伏見稲荷一帯といい、京都には秦氏の痕跡が多いが、大阪の寝屋川太秦四天王寺舞楽をはじめ、奈良でも長谷寺やここ秦庄などに名前が残っている。多氏の本拠とほど近い所に秦氏が存在した、というのもかなり意味深い。

 

 とくにこの周辺は庚申の石碑が目に付いた。太子伝説や舞楽、猿楽の影に、神仙思想が関係しているとも考えられるし、神仙思想と鍛冶のかかわりが気になる所である。上流には鏡作神社や唐子鍵遺跡があった。稗田阿礼ももしかしたら秦(ハダ)氏の鉄(アラ)を扱う工匠だったのかもしれない。

 

 そこからも数軒古本屋を回り、とっぷり暮れたなかを王寺まで移動。

 

三日目

 

 三日目はこの度の目的地である達磨寺へ最初に向かった。片岡の飢人伝説がいつの間に脚色され、ダルマと聖徳太子の邂逅となってしまったいわれを持つ。境内には三基の古墳があり、舎利を収めた仏塔や香炉を収めた備前の甕が出土。古来より崇敬を集めていたことがわかる。

 本堂には、見事な聖徳太子とダルマ、千手観音像のほか、白隠のダルマ図や最古級の涅槃図など、見どころがたくさんあった。とくに涅槃図は、後年のパターン化された動物や諸天がわちゃっと描かれているものではなく、仏弟子と涅槃だけを描いたシンプルな名品である。

 

 そこから道に迷いながら、久度神社にたどりつく。京都の平野神社にも祀られている竃の神が祭神で、蛇行する大和川葛下川の中州に位置し、信貴山や高尾山のふもとにある古社である。平野神社もそうであるが、竃の神は都城の西北に座し、愛宕山からの雷による火事や風雨から竃の火を守る役目を負っていた。こんもりとそびえる久度神社の森からは、片岡と並んでこの場所が火事や風雨からの災害の防壁となっていたのではないか、と想像した。

 

 多聞橋を渡って、竜田大社に。風の神という通り、道中から涼やかな風が舞う。ここも製鉄との関連が唱えられている。古代の鉄滓が見つかった雁多尾畑が近くにあったのだが、連日の歩きに疲れ見逃してしまった。信貴山にも行ってみたかったのだが、坂を転げるように、三郷駅にたどり着いた。

 

 いくつかJRを乗り継いで、天理市まで足をのばした。天理教で栄えている商店街には奈良のフジケイ堂の支店があり、どうしても行っておきたかった。そして少し足をのばして、石上神宮に参拝する。2、3年ぶりだろうか。ひんやりとした心地よい緑に、放し飼いにされている鶏の鳴く声が時折聞こえてくる。

 道すがらに僧正遍昭の良峯氏ゆかりの良因寺があることを初めて知った。山の辺の道にはほかにも在原神社や和爾下神社など、奈良から平安にかけて歌道に活躍した氏族の寺跡が多い。「歌」が「転(うたた)」など、崩落しやすい土地に関連するばかりではないだろう。古道を修復し、治水が可能な豪族が、都城の建設に駆り出され、貴族として定着していったさまがうかがえる。

 

 そして京終で降りて鎮宅霊符神社に詣でて、京都に帰った。