マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語文化の再構にむけて:工匠文化へのまなざし

 人文学で取り扱う知識は、一般的に「教養」と呼ばれている。それらは、たとえば国家だったり民族だったり、あるいはもっと広範な「人類」を主体に、積み上げられてきた知を取り扱うことを建前としている。書店にならぶ「教養」の本をざっと見れば、驚くほど多彩な地域の、多様な時代背景から成り立っていることがわかる。これらを読むと、自分の価値観や世界観が「広がる」と感じることができるのは、なんと純粋な無知であることだろう。

 

 実のところ、実際に「研究者」が触れることのできる知は、その教育のレベルが上がるほど深く、狭くなっていく。専門としている領域を「理解」するためには、外国語の文献は必須であるし、近しい関心を持つものどうしの意見交換も必要となる。そして次代の研究者の育成のために時間を費やす。これらを効率的に成し遂げるには、一分野に専心して、一世を風靡するような言論を打ち立てることが求められる。そうしたしがらみができればできるほど、他の領域に口をはさむことは不勉強のそしりをまぬかれず、難しくなっていく。

 

 けれどもそうしたルーティンワークは、己の研究を現代の「鏡」として映し出すには十分であるが、文化というマクロコスモスの過去・現在・未来を透徹した一視点として機能させ続けるには、あまりにも「一過的」すぎる。事実、どれだけの本が「教養」として推奨され、「流行」として忘却の彼方に消え去っていったことか。

 

 このような偉そうなことを言って何を伝えたいのか。人文学的教養の主体は、これまで――少なくともイタリア・ルネッサンス以降は――誤って捉えられていたといっても過言ではない、ということに尽きる。

 

 

 科学と芸術という、教養趣味の二極化を生み出したのが「活版印刷」である。文章や本が身近なものとなり、ものを書く・読むという行為が大きくその姿を変えようとしていたのは明白である。「教育」というのがその典型的な例で、国民国家民族主義が、科学や芸術の「主体」としての論理的・情緒的な「国民」「民族」という幻影を作り出した。原始人や女子供、植民地などは、「研究され」、その論理や情緒に絡めとられ、「学ぶ」側へと位置付けられていった(外国人に自国の文化を称賛させるような風潮は、そのもっとも頽落した形態であるといえる)。

 

 「科学」や「芸術」――学術というシステムに依拠するかぎり、こうした権威的で不均等なシステムを知らず知らずのうちに再生産することとなるだろう。そこにいるのは、他者を無知とあざ笑い、他者に時代遅れの世間知らずとあざ笑われる道化たちである。

 

 われわれは、科学と芸術が不可分で、まだ何とも言い表すことのできなかった時代に立ち返らなければならない。ギルドや講のように、人生の通過儀礼や季節に密着しながら、儀礼符牒によって「ものがたる」ことによって、文化が維持されてきた時代があった。シルクロードや紅海、インド洋の交易路における文化の類似性はひとえに「工匠」たちのこうした慣習の賜物と言えるだろう。仏教とキリスト教だったり、日本神話と遊牧民族の神話が似ていることなどを説く研究は数多い。

 

 しかし、そうした文化の担い手や、それらにかこつけてどういう事柄が語り伝えられてきたかに着目する研究というのは僅少なのである。政治的動機や作為的編集によって虚構の物語が語り伝えられるという、「活版印刷時代の常識」は見直されなければならない。金属採取、加工や、天文地理、建築など、さまざまな知識が溶け込んだうえで「神話」が成り立つ。

 

 天地のあらゆる表象を把握することは、機械-人間-自然のかかわり以前の社会において、たんなる迷信以上の意義を持ちえていた。人びとはそうした情報を「物語」の形で遠方に伝達し、あるいは次代に伝承することで、モノゴトが「ある」のみならずモノゴトが「かくあるべき」という社会を維持してきた。この言語文化の作用は「記録・教育」を主とする活字書物文化とは一線を画すシステムである。何らかの「ことば」の――詩が典型的であった――イメージに乗せられた「祖型(かた)」は、なにか別のふくみを「再生」することになる。

 

 この再-現前、再現-前には、共同体のおきてやなりわいなどが雑然と混合し、たとえば生産されるモノを「身に着ける」ことによって規範を「身に着ける」ような代替がおこなわれた。さらに比喩は、高度な技術を継承する工匠たちを、呪術的な思考へと導くこととなる。「名称」は絶え間なく細分化する。これを大多数の同意の元、融合することが、権威や暴力のあらましとして「あらわれる」こととなる。

 

 モノは現存する。コトは非現実的に想起される。これらをむすびつける「信用」が、社会のメカニズムと日常行為の遂行に作用するのだ。さまざまな立場・職掌の人間が、契約をして権力を成り立たせるために、「物語ること」を必要とした。

 

 こうした視点を踏まえた上で再解釈を要するのが、言語のはたらきである。従来の言語学は、外見的な名詞や動詞などの意味や意義を考察するのが中心で、そのフィールドも、人間の「自然な」発話のメカニズムを称した、物語から切り取られた文章である。こうした近代に表面化した話し言葉や書き言葉は、文法や認知的なスキーマとして扱うには特殊であるし狭すぎる。

 

 言語学が国家や民族を超えた抽象的な「信用」「信念」についての考察になるには、哲学の助けを必要とするだろう。しかしながら「文字」を使用する段階で、それ以前に「メタファー」や「シンボル」を用いて技術の伝達をはかった段階で、あるもので別のものを代理-表象する、「信用」「信念」の本質は完成していたはずである。われわれはより注意深く古今東西の言語文化を観察する必要がある。もはや西洋や東洋の違いを比較し列挙することも、ひとつの学問体系を「人類」の必須教養として誤った一般化をすることも学問とはなりえない。より本質的に言語文化を――あらゆる学藝の連関を見通すことが、研究者の責務となる。