マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

ポスト・グローバルとパスト・グローバル

 現代社会の政治や経済においても、「グローバル」という観点は非常にややこしい問題を孕んでいる。

 

 経営者や政治家は、英語の公用語化や自由貿易などという、ときに荒唐無稽で、ときに皮相のみに終わる目標を掲げる。いままでの決まり事を総とっかえして、世界的な基準にあわせようとするので、当然反発がおこる。そこで勃興するのが、「ローカル」な文化の再解釈・再評価であり、これらは文化人や宗教者を中心に、国粋主義的で選民主義的にすすめられるものだと、一般的に理解されていると思う。

 

 しかしながら、その「ローカル」とされる文化も、たんに「グローバル」との二項対立で捉えられうるものではない。それらは、重層的に積み上げられていった「グローバル」の結果なのである。「グローバル」と「ローカル」を比較または類比するのは、たいてい玉ねぎの皮を引きはがして、身の部分と比べるようなことにすぎないのに、たとえば精神性の違いや遺伝学的な問題へと話がもつれる。

 

 この事実は人文学的にはあまりにも軽視されてきたといわざるをえない。多くはグローバルを推進する側、ローカルを守り通す側両方の歴史への無知に起因する。たいていの人間は一方への知識を恃み、もう一方への無知を覆い隠そうとして、「グローバル」「ローカル」どちらかを過剰に否定しようとする。そうして、ヒューマニズムも人類の調和のへったくれもない、だれかの人格を否定するような論理が人文学に積み重なっていく。

 

 実例は山ほど挙げることができる。「発達障害は方言を話すことができない」などと、近代日本の言文一致や標準語化の努力を踏みにじるような言説が罷り通る。だいたい、方言だってほとんど近代以前の文語ではないか。このような差別的な言論にかまけている暇があったら、古典語文法や漢文を現代化して、小学生から英語といっしょに比較言語学的に学べるシステムを構築したほうがよほどためになる。

 

 科学と錬金術ニュートン錬金術の研究に打ち込んでいたことは科学史的には「恥」とされる。しかし、「科学」というのは時代によってその意味の総体を変えていくものであることを忘れてはならない(これは疑似科学、オカルトやニューエイジを積極的に肯定する文ではない)。

 卑金属を金に変える、錬金術とされてきたもののなかには、「化学」の元になる元素の理論的萌芽もあれば、「鍍金」などの物理や工学などの経験的知識、その他倫理や哲学など、現代的な「科学」には収まらない雑多なものがあり、さまざまなメタファーによって「錬金術」として結び付けられてきたのである。それを、現代の「科学的」視点から解釈するのも、「非科学的」オカルト肯定の視点から賛美するのも、決定的な事実を見逃すことになる。

 じっさい、職人たちがどのように文化を継承し、建築や工芸などが生み出されていったのかが無視されてきた結果、社会的には職人への貧困や差別、技術的には科学革命と機械化、文化的にはロマン主義精神主義などの農耕賛美と頭でっかちな類型論による芸術批評、そして思想的には秘密結社や迷信などの啓蒙による淘汰が別々の領域で進行し、もはや統一的に把握することが困難なのだ。わたしが提唱する「工匠文化」は、かつては「日知り」ないし「火知り」としてあがめられてきた、聖職者や鍛冶・鉱山師などの技能集団が、近代科学・政治経済思想によって「迷信的」「無知」と決めつけられるまでの技術的総体である。

 

 このモデルが、おそらく「グローバル」が「ローカル(パスト・グローバル)」と分断されるさまをよく映していると思う。