マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

ゴッドファーザーの失敗

ゴッドファーザーPart3を初めて観た。

 

Part1とPart2はだいぶ昔に観たことがあったが、Part3は初見だ。駄作という評判を前々から聞いていたので、蛇足な作品とばかり思っていた。が、今回BSで一挙放送されていたのを観て(Part1は見逃したし、Part3は前半見忘れたが)、世間の評判ほど当てにならぬものはないとつくづく考えさせられた。

逆張りの癖に偏見でものを見るので食わず嫌いが多い。「車輪の再発明」かもしれないが、雑感をつらつら書き連ねたいと思う。

 

アメリカ映画は基本的にビジネスであり、万人受けするよう味付けされ、練り上げられた「新しい神話」である。そして映画批評や賞の受容も、瞬間的な興業成績や成り行きで決まってしまうものだ。ところが、制作者側は戦前のヨーロッパで発展した映画理論や、シェイクスピアギリシア古典演劇から受け継がれるストーリーライティングと演技を土台として物語を紡ごうとしている。

その情報の非対称性を、日本の映画界はどれほど認識しているだろうか?だからこそ、「全米が泣いた」とかいうキャッチコピー、宣伝がまかり通る。

 

もう一つ、特筆すべきは、プロパガンダの道具として利用されてきた映画が、アメリカの謳う自由と平等、個人主義を表現するときに生まれる「ズレ」だ。たいがい、その帰結は、目的を達成するためには手段を選ばない暴力映画や、目的と手段を取り違えた快楽を見せつけるポルノになる。問題なのは、映画がプロパガンダ性をまだ喪失しないままエンターテイメントとして享受されるこの軋み、ストーリーとキャラクターに与えた影響が、そのまま映画史となる点である。写実的に描き、CGで精巧に具体化することだけがハリウッド映画でない。アメリカから見た「理解できない他者」をアメリカ流に表現(模倣)する、その再生産の過程が、映画の筋書きじたいを拘束している。

 

前置きが長くなった。ゴッドファーザーはイタリア系アメリカ人のステレオタイプを決定づけた作品であるが、おそらく主人公マイケル・コルレオーネはもっとも非マフィア的である。「家業」から離れ、大学で学び海軍で軍功を挙げた英雄マイケルは、病に倒れた父ヴィトを守りたい一心でファミリーを率い、また恋人ケイとの約束を果たすため組織の合法化に腐心する。しかしながら彼が歩むのは、ある意味マフィアらしい、血で血を洗う終わらない抗争と、信頼していた家族を失う修羅の道である。Part2ではファミリーを作り上げるヴィトの姿が対照的に描かれ、Part3では自身の精神的・肉体的な消耗に抗いつづけ、ついにはキリスト教にすがるマイケルの弱々しい姿がクローズアップされるが、基本的なテーマは一貫している。「模倣」である。

 

Part3は、ソフィア・コッポラの演技がたとえまずくても、この「模倣」の終演のためにやはり必要なのである。

 

マイケルは徹頭徹尾父を模倣しようとする。ゴッドファーザーに「成りすます」が、基本的な考え方がアメリカ的であるため、シチリア人たちを統率することに欠けている。彼にとっての「ファミリー」は血縁的な繋がりでしかないし、「ビジネス」は上っ面の契約でしかない。孤独のなかアメリカへ渡ったヴィトが地縁に生かされ、同郷人に義理堅いシチリア任侠として生涯を終えたのに対して、恋人との約束とか息子や娘の幸せ「だけ」を願うマイケルは、それゆえに兄や腹心の離反、妻の中絶、娘と甥の道ならぬ恋などの「裏切り」に遭ってしまう。その結果、裏切らない「ルーツ」、敬虔なシチリア人としての振る舞いにのめりこんでいく。これがますます孤独な死を招くことは悲劇としかいいようがない。

 

 

ん?これはどこかで見た構図だ。「市民ケーン」である。

新聞王ケーンは偶然家に転がり込んだ大金で失われた「子ども時代」「家族愛」を取り戻そうと、新聞社、美術コレクション、悪友、愛人をソリ「バラのつぼみ」号代わりにして遊び回った。彼が大きな子どものままだったために、どれも完成しないまま壊され、もとの孤独のまま生涯を終えてしまったのであるが。

 

matsunoya.hatenablog.jp

 

ケーンにとっての「ローズ・バッド」は、マイケルにとっての「シチリア」である。家族を喪ったヴィトにとって復讐の手段にすぎなかったシチリアは、マイケルにとって宿命的なルーツとなってしまい、多くの家族を喪うことになる。ケーンが子どものまま大人になってしまった男であり、マイケルはシチリア人になりきれなかったアメリカ人だ。

シチリア人のみならず、Part2の黒幕・ハイマン・ロスが、たとえ逃亡の口実といえイスラエルに帰還することを望んでいたことや、革命のために手榴弾で自爆するキューバのゲリラ、そしてマイケルが海軍に志願する動機となった真珠湾攻撃、ペンタンジェリが組織づくり、そして自身の死の手本としたローマ帝国など、「故郷への忠誠」はゴッドファーザーの中にさまざまに(さりげなく)描かれている。その多くはマイケルにとって排除すべき障害なのだが、同時に自分のルーツを表面的にしかなぞれないマイケルのぎこちなさ、悲哀を浮き彫りにする。「シチリア人の家族愛」について父を手本にしようとしながら、結果的に妻や妹に暴力をふるい束縛しようとするし、敬虔な兄を殺したことで幻影を追うようにキリスト教にのめり込む痛々しい姿が最たるものといえよう。

市民ケーンもそうだが、実在のモデル関連で物議を醸す作品は、その話題性が先行して内容が吟味されることがない。むしろ、「権力者」や「犯罪」といった自由平等と程遠いはずの他者を通じて、アメリカ社会を穿ちすぎている事実から目を背けているかのようである。二度の大戦で急成長したアメリカの「権力」と「犯罪」が、ルーツの「再認」によって嫌が応にも表現せざるを得ない。

つまるところ、古典的な劇の手法、オイディプスオデュッセウスのしがらみから映画は逃れられていないのだ。

 

いやあ、映画っていいものですねえ。似たことを指摘している方がおられたらご一報ください。

 

 

 

 

余談

ゴッドファーザーを手本にした仁義なき戦いが、エロと暴力を詰め込みながら、アメリカとは少し違った「下っ端の切り捨て」という日本の悪弊を活写しているのは、まことに因果なものと言わざるをえない。