マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語文化と信用:劇的な学問

人文学は、言語とその信用の歴史に向き合わなければならない。

 

「考える」という事象は、ともかくも「信用」を中心にした紐帯――言語が通用するところの共同体をふくめた連関――を基盤としている。学問はその連関の精髄であるが、むしろ精髄であるがゆえに、多くの事例を捨象し、あるいは見落としている。

 

 言語は、「存在」の表象のうちに、ある種の「価値判断」をひそませる。この性質が、言語が維持する/されるべき共同体にとっていかなる作用をはたらくか。すくなくとも、「現実性(reality)」なる観点には、単なる存在・非存在の客観から遊離した、倫理的または論理的整合性「ことわり」を見て取ることができる。すなわち、因果として対処されるような時間的前後関係を、「ある」のうちに解釈せずにはいられないのだ。なぜかといえば、そう「把握する」こと自体が、共同体上の自己という現象を規範づける(身を「たてる」)、「信用」の一体系のうちに組み込まれてしまっているからである。

 

 道具を作り、使う――それにより自己と他者を境界付け、維持する――あらゆる名称化された営みの基本であると思う。そのために、比較・比喩などの修辞もまた必要とされる。かくして、自己から他者、他者から自己という方向性をさだめて初めてことわりが生み出される。修辞の整合性は、この方向性、「贈与」への評価としてはじめて表現されうる。

 思うに、信用は「道具使用による周囲への干渉」を基にして生まれた。文化(Culture)が耕作(Cultivation)から分岐したように、モノを生産し、通用させ、消費することを企図する、あるプランの拡がりがことばの母胎、信用となる。

 このプランとは、「聖性」を意図している。道具の使用がもたらすある見通し、結果が膨れ上がった結果、その無限性・不可能性を一挙に乗り越える責任者を要する。道具使用-身体の延長という画期的発明が、「いま-ここ」の認知を、より空間的に、より時間的に長大なスパンへと拡大していく。「自己/他者」の区切り、および現象としての価値措定が行われることで、説話はたんなる「ある所」の漠然とした集まりから、数量的な比較や修辞的な比喩をふくめた順序性が与えられる。

 

 そしてそれを正しく認識できる人間が、その属するところの共同体において「信用がある」と見なされ、また自らそのようにふるまうこととなる。階級意識や社会的差別をふくめたモラルを、シンボル的な思考をもとに順序だて、垂直的なヒエラルキーを作り出すのだ。経済や金融における「信用」は、まさしく数値的な比較と修辞的な比喩をラディカルに用いた言語文化であるといえる。その基本的な祖型は、共同体の「協業」のために展開された、詩と劇の世界――順序性の理解(因果的思考)を表象するということに端的に体系化されている原理であるのだ。

 

 道具を作り、使うことは、自己同一性、そして因果関係のよりラディカルな形態、つまり「死と再生」にまつわる技術と文化に直結し、モノとコトとの特殊な連関(呪術や民俗)をはぐくむこととなる。なおかつそれは、古代や中世においては、「聖性」なる価値を人びとに供給することとなった。比較や比喩の極致として、あらゆる共同体の「長」を凌駕し、生まれ、滅し、再生する他者である。ある時はトリックスターとして、共同体の構造を模倣し、暴き、知らしめる存在となるであろう。

 

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 近代はその「聖性」を、「希少な」存在と巧みに読み替え、多くの人間にそのコピー(言うなればステレオタイプ)を分配することにともかくも成功した。なかには陳腐化してしまったものも、役にたたず忘却されゆくものもままある。根底には印刷文化が、図像の氾濫、混沌が存在し、それゆえに「単一化」への強い希求がまた生まれた。言語的な信用は、やがて西欧的な民主主義政治と貨幣のシステム、そして近代科学による強い権威性を、「市民」のイメージとともに人びとへ刷り込んでいった。

 つまるところ「聖性≠希少性」は、規範と服従という意識を生み出した。信用ある人間として、他者の死と再生に関与する、これが自己のみならず、共同体の自己同一性の維持に不可欠であることを、無意識のうちに受容してきたのである。言語文化にかかった一種の抑圧・抑制は、学問それ自体の不自由さの結晶である、「モラリスト的な意識」「アカデミズム」に端的に現れる。「信用」それ自体を学問的に問うことをせず、「信用ある人間として」ふるまおうとする意識が、知全体の不明瞭さと、その場しのぎの言説への撞着、そして過度な精神性への賛美を根付かせ、文化の荒廃に余殃をもたらすのである。

 

 「表現し、顕示する」ことは、空間性と時間性を併せ持つ。すなわちそれはたんなる生命維持……死の恐怖から偶然・無意識的に逃れるための「衣食住」ではなく、死を克服し、再生を企図する技術としての「呪術」が、根底に存する。すなわち、ある道具、ある作用による「量化」は、表現・顕示されることによって、権力や信仰といった質としての「共同=協働」へと飛躍しうる。近代的な社会科学(特に民俗学)は、農業を第一として共同=協働を見てきたわけであるが、農業じたいがさまざまな職能集団による協業によって実現してきたことを改めて注意しなければならない。

 

 農耕の儀礼として、人文科学の前に虚構化されたもの。そこには、農耕文化を維持するためのシステム、天文や測地、あるいは金属器や土器をつくる技術が介在したはずである。いや、むしろ農耕文化こそが、道具をあやつる技術を支える食糧補給体制として、人体とその機能的延長である道具使用を維持してきたのだ。

 

 そうした技術の総体は、工匠たちにとっては通過儀礼的に、経験して獲得するものであった。原初の神話、詩や物語は、こうした経験的な知を次世代に語り継いでいくためのシステムであった。ここに、祭祀儀礼をめぐる二重化の構造を見て取ることができる。従来のエリート対民衆や、民族対国家の歴史観は、再考を要すべきものである。

 

「工匠文化」について

 

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 ジョルジュ・デュメジルがいうところの印欧語族の社会の三階層というものは、言語が共有される三つの次元・境界を作り出すことによる、社会的「信用」のあらわれである。それが端的に現れたのが詩であって、勇ましい叙事詩、慎ましく勤勉な農事詩、エロティックで予言的な牧歌というウェルギリウスの三つの詩や、あるいは詩経や楚辞、そして本邦の和歌などに見て取れるアイディアだと思う。


 神話的な文学や美術においてそれが特に重視されるのは、教養や言語それ自体として、社会的に広域かつ後世まで伝達しなければならない情報のパターンがこの三つに集約されてきたのだからだろう。文字の存在いかんにかかわらず、言語として表現可能な空間と時間の表現手段は、「命名」の煩雑さを避けるがために、おのずと簡潔な擬人化や比喩のバリエーションに依存する。これによって(たんに「存在する」のみではない、)「人称」によるさまざまな表現が可能になるのであるが、多くの言語では意志・命令・推量の三つに逢着する。これは古文の「む・べし」や英語の「助動詞」、ラテン語ロマンス語の「接続法」の主な用法であるだけでなく、詩の三カテゴリーにおいて表現される内容――戦乱の栄誉や死の根源(意志)、時季を択んで行わねばならぬ所作(命令)、そして繊細な空想と社会的転変の暗示(推量)に合致する。


 先述したデュメジルのカテゴリーは、単に社会的な身分としての祭司・戦士・農民だけでなく、この人称的な意志・命令・推量を神話的人格になぞらえたものと考えることもできるだろう。


 その点で、人間が古くから伝達に躍起になってきた「技術(道具使用)」は、その起源譚から習得、熟練まで、一つひとつの道具や挙動を言語化し、理由付けする困難さを要するように思われる。しかしながら、機械化や識字教育以前の前近代では、「物語」や「劇」、「儀礼」による絶え間ない反復によって、身体的に「記憶」し、ある意味では身体と社会制度や信仰、技術が「未分化」な状態を維持してきた。これらがきっぱりと分化し、あるものは科学、またあるものは政治、あるいは病気や迷信といった忌むべきものとなったのは、近代的な市民的な意識下においてにすぎない。


 たんなる「口碑」が、一社会の生活様式まで拘束する社会的信念、規範になってしまう現象は、徒に民俗学歴史学の関心を惹くばかりではない。こうした言語文化のもたらす「信用」は政治経済に直結する課題である。

 

○古代的な詩の形態……協業的な労働歌と呪歌⇒叙事詩・悲劇

○中世的な物語……空間と時間の拡がり(恋愛、欲望)⇒権力の重層化と多元化、倫理

 ●方言と俗語の伸長、コミュニティの動乱・規範


 貴族的な古典教養文化(西欧的には人文主義)は、近代において徐々にその活力を失い、実用的な自然科学にとって代わられた。しかし、前近代の詩や和歌において顕著だった観方のように、「迷信深く柔弱」であったから衰退したわけではない。「言語文化の未分化状態」において効力を発揮してきた教養に対する社会的信用が、高度に「精神的」な美や歴史的な芸術として純化・合理化されてきた結果、細分化され、傍流の自然科学に排斥されるほどにコミュニティの信用や影響力を縮小してしまったのだ。


 貴族的な古典教養文化、人文主義には、文字化される以前の人びとの原動力・モチベーションとなってきた前史が存在する。「物質民俗」はその解答の一つであり、詩や物語のもともとの社会的役割――労働歌やシャリヴァリといったものに密接に関連するものといえる。農耕文化は、鍛冶や窯業、狩猟や漁業にならぶ道具使用の一形態にすぎない。古代社会においては、これらを身体的な比喩、擬人化によってとりまとめ、詩歌や舞踊によって「再生」することこそが、社会的に尊敬される、異能や権威の源であったことは間違いない。こうしたシャマニズムが、音頭取りを要する軍隊や鍛冶、そして農業の有力貴族によって牽引され、「民俗」として維持されてきた。もちろん、現代のゴミだらけの消費社会の代替物たる、「闘争(戦争)」による物質的破壊が伴ったことは言うまでもない。


 この物質的崩壊こそが、「口碑」「儀礼」の根源であり、より直截的にいうならば、「死と再生」の信仰と不可分のものであったことは、数多くの文化的共同体の基体として重層的な「死と再生」が意識されていることによって証される。祖霊の死は、はなはだ逆説的ではあるが、子孫としての再生として暗示されるのだ。風水や古墳ばかりでなく、西欧的な教会にいたるまで、家や墓は「母胎」のイメージから分化する。泉による取水や採鉱などの必要から山や洞穴を選んだ実用的側面も確かにある。だが、「炉=火処」の存在が、連想の決定的な決め手となる。


 そして、物質的崩壊の中心から周縁(境界)にかけて、男性的陽根崇拝としての石造物や建築が築かれることにより、一種の「再生」が意識されることとなる。河原や坂、もしくは「厠」という表象は、特殊な土木治水技術を要する都市の末端として、またケガレの漂着点、あるいは次なる再生の生産拠点となる。


 工匠たちは、文字という手段を持つ持たないにかかわらず、図像や記号によって(そもそも文字自体が特定の音と結びついた図像の特殊な事例であるが)「死と再生」を多彩に表現してきた。必然的に、詩歌にも物質的な生産と破壊が言及され、さまざまなコードがスキーマやメタファーの形で標示されることとなる。死んだ人間、消滅した事物が「模倣」され、現在に「介入」する。その起点が道具使用、身体の延長としての技術なのだ。

 ここに賦活(Motivating)の哲学が成立する。

 

公共の言語と詩の言語――連用的世界観と連体的世界観(命名
 スキーマとしての人体・天空・地理
道具使用と文化
劇が儀礼となるとき

 

■「唯劇論」
 ○テーマ、生と死のあいだに
 ○他者の修辞学:信仰
  詩のカテゴリーとその攪乱……恋愛詩と戦乱・政治
  「法」の三分イデオロギー(意志・命令・推量)
 ○トリックスターの表象/投影される権力の起源
 ○区切りとしての起源譚/引用しあう説話群
  アレクサンドロス大王と説話群の攪乱
  オリエント・ヘレニズム・インド・シルクロード
 ○公共圏、精神、文学の「かたり」と看過される「境域」
  マクロな歴史とミクロな歴史


■古墳と古代中世技術史
●土木治水にたいする人びとの畏怖:「石神」論
 ○境界(さか)と鬼、悪魔
 ○神仙思想・陰陽五行の影響
  牛頭天王と宿曜(藤原氏と御霊崇拝)
  ケルヌンノス:医薬神と行疫神・境界侵犯⇒ミトラス
  黄道十二宮・月宿・十二支
  要衝としての播磨・周縁としての明石


●技術継承の場と巡礼・秘儀
 ○猿楽・狂言と中世神話
 ○闘争と祝祭
 ◎竈神と厠神

  ヴェーダやアヴェスター時代の火や水の管理、金や水銀朱の採掘

  手燭・灯籠などの「火」、聖泉・庭園などの「水」の循環⇒炉や厠の脱神話化

「感覚的」な身体の延長としての道具使用・器物が、権威・信仰上の「見せる」顕示作用に……同時に、生産者・消費者のヒエラルキーの形成、「死と再生」が、衣食住の選好基準となる

  確からしさ・信用による社会秩序・倫理の精神的理想化
  東西錬金術と「炉」
  香炉と立花
  茶道の源流としての再生信仰(偽史についての示唆)
   北斗七星と鳳凰……天皇的イメージの濫用による「遊芸」確立

   秀吉(菊桐・瓢箪・稲荷と天神)……「つぼつぼ(土器)」と「梅花」、千家による「代理表象」
 ○天文学と冶金文化……盲目と邪視
 ○聖域と祝祭……日常の淵源としての生の浪費
  源平藤橘貴種流離譚、やつし的発想)と親方ジャック(ケルトおよびローマ文化のキリスト教化)
   源氏と「八幡宮」「南宮大社」、平家と「妙見」「北辰」
   藤原氏と「田原藤太」、橘氏と「金売り吉次」
   景清・景正・景政考
   菅原氏・紀氏・惟喬親王木地師塗師)……「太子信仰」紀氏と大師
    和泉式部橘諸兄在原業平
   能と貴族:日本の中世劇
   フリーメイソンと聖人崇拝:ヨーロッパの中世劇
  詩における欲望の表象と巫覡……興
   人称と印欧語族三分イデオロギー
  軍記語りと穀霊

  百人一首というシンボル

  キリスト教的サイクルと年中行事(間接的な太陽信仰)
  半月・半年ごとに繰り返すこよみ(陰陽五行)
  冬至夏至春分秋分:地上の方角をふくめて
  上社・下社の対応(附・山アテ、堪輿
  十字表象・六角と八角……死と再生
 ○煉獄にかんする一考察……後景の鍛冶神・硫黄
 ○技術の維持のための信仰・占術・呪術


●冶金伝承
 ○前史としての風神・雷神崇拝(大汝)
 ○スキタイ文化と神宝
 ○石…凝灰岩と花崗岩
 ○水銀朱とアマルガム(鉛丹・弁柄をふくむ)
 ○ブロンズ(錫)
 ○鉄(チタン・マンガン・ニッケル)
 ○金・銀(大仏建立前後・石山寺

 

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