マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

複製情報時代の情報(複製芸術時代の芸術、ならぬ)

 以前、といってもずっと前だが、このブログにて「学融機関」というアイデアを扱ったことがある。文化をSDGsなどに絡めてPRし、現在への投資に活かしたり、遠隔地の文化財や行事などのサービスを取りまとめて、観光や地域振興に活かす拠点として、「大学」や「美術館、博物館」などがより自らのもつ文化的な情報の取り扱いに先鋭的になるべきだとする論だったように記憶している。

 

 私のスタンスは、コロナ禍の前のこの無邪気な空想からは全く変わっていない。いな、むしろこのアイデアにこそ、新時代の情報産業の要が存在するように考えられる。

 

 アメリカのGAFAをはじめとするビッグデータ産業、および中国の情報産業を鑑みるに、彼らのやっていることは前世紀のデトロイトがガソリンを大量に消費し、大量生産体制を敷いて自動車を普及させたような手法を、情報やソーシャルネットワークサービスに対しても用いているのである。この物量戦はなるほど情報化産業の普及しはじめの時期に優位に立つには有効である(だからこそ倹約自粛一辺倒の日本は戦争や感染対策で国力を削られるし、グローバル・スタンダード作りに後れをとることとなる)。

 

 しかしながら、「コモディティ化」とでも言うのだろうか、目新しいサービスが出尽くし、あるいは石油のような資源が枯渇する局面となると、「物量戦」ではなく「集積戦」、コンパクト化へと舵を切らねばならなくなる。スパコンやAIは莫大なデータを参照し成果をあげるが、データの集積元および集積先を考える人間の「発想」が洗練されていなければ、単なる遊びにしかならない。

 

 また、アメリカが常にゲリラ活動やテロに苦しめられたように、普及してしまったインターネット社会は、フェイクニュースやファスト動画など、金銭的・政治的損害を一気に拡散させるような問題への対処に非常に脆弱であると言わざるを得ない。かといって、早急な規制を乱立させて混乱させるような小手先のテクニックや、あるいは中国のように人海戦術や遮断を駆使して徹底管理するという手法も、長期的に持続できるものではないと見られる。

 

 日本のいわゆるクール・ジャパンは、瞬間風速的なマンガ・アニメ・ゲーム文化を官僚たちが利権のおもちゃに(そしてオタク公務員たちの遊び場に)したに過ぎない政策であった(同じことが観光におけるGotoなんちゃらにも言える)。高齢者や若年層のデジタル・デバイドも、悲しむべきか、(Windows95の時代から)まったく改善する気配もなく再生産されつつある。政府が紙幣をばらまけばばらまくほど、紙幣の価値が暴落することは目に見えている。先陣を切るべきは、民間企業と既存の学術機関の有志の連携なのである。失われていく文化を集積し、かつ誰もが利用できるような共有財産として提供する「学融機関」が、コロナの焼け跡から生み出される、新時代の集積回路となるべきなのである。

 

 別に愛国的精神、そして道徳的精神を鼓吹するわけではないが、茶道や禅など、その他の芸術をこれまで維持してきたシステムは、この次代の複製情報時代のヒントとなるといえる。彼らは、先人たちの事績を顕彰し、数々の逸話を師から弟子へと伝えることによって、あるいは用いる道具に「好み物」として刻み込むことによって、自らの存在意義を高め、また審美眼としての情報の自主的な取捨選択を行うことができた。

 

 こうして「道」を究めるということは、社会に所属し、かつ距離を置くという不即不離・守破離の考え方の涵養につながる。現代人の情報依存に欠如しているのは、まさにこの根幹である。

 

 誰かが言っていたからそれを軽々しく他人に勧め、またフェイクとして批難するような受動的態度は、ファシズムを口では否定していても、ファシスト的な行動・暴力につながる。前時代の岡倉天心鈴木大拙が見出した東洋的美意識・価値観は、それ単体としては評価すべきものではあろうが、こうした近代的価値観のスラックティビズムやスノビズムに飲み込まれることによって精神主義のおぞましい幻影と化した。近代知識人が東洋的美として芸道を無批判に受け入れ、墨守し、衰退させた罪科は拭い去ることはできないだろう。

 

 さらに、現代の情報拡散の高速化・情報受容の二極化が招くのは、「エコーチェンバー」のような集団狂気の増幅現象である。学術機関のアカデミズムすら、この類の増幅現象とは無縁とは言い切れない。60年代安保を薄めたスープのような、昨今の「政治家対われわれ」運動の数々は、結局薄型テレビの薄っぺらい街頭インタビューやコメンテーター止まりで、実際に政治を動かすようなジェネラリスト的視点に欠けている。

 

 ストア的な「隠れて生きる」ではないが、ひとりひとりが不即不離・守破離の考えでモノを言う人間とならねばならない。個人のやりたいことを尊重する教育とうたいながら、画一的な就職活動で選別し、あるいは何らかの障害と決めつけて社会から疎外するようなちぐはぐなムラ社会となってしまった現代日本は、情報化社会以前に、ただただ人とモノの浪費となってしまった。そんな中で、欧米のジェネラリスト的エリートが読んでいる教養の本や美術鑑賞について滔々と説いても、瞬間的な利益には結びつくが、ブックオフの棚にかさばるのがとどのつまりである。

 

 本筋にもどそう。今後の情報化産業に必要なのは、こすい個人情報の大量収集でなく、「いま自分はここで何何をしている、なぜか」という個人の柔軟な歴史的・社会的再定位に役立つ「信用ある」情報の集積である。そのためには、今ある古典籍や文化を縦横無尽にかき集め、すぐマインドマップでむすびつくような状態にしておかなければならない。そうしたインフラ作りを以前に夢想したので、どうぞご笑覧願いたい。

 

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