マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

言語研究:異=名辞(イメージ)と銘=政治(メッセージ)

古典教養が等閑視される時代になって久しい。

 

もっとも、それには古典教養の「形骸化」ともいうべき、何でも形而上学的美学や精神修練に結びつけるような論説が前段階にあり、やがてオカルトや階級対立、民衆的立場から教養を扱き下ろす風潮があって、全くもって卑俗に拝金的に衰微してしまったといわざるを得ない。

しかしながら、人文学的なモノの持つ「復古主義」の魅力に一抹ながら価値があることもまた確かで、教訓じみた信仰、歴史趣味の消費に齷齪する人間も少なからずいる。

 

しかしながら、大局的に古文化の表象、言語文化の意義についてかんがえる人間は皆無にひとしい。

 

テクノロジーの進歩は大量の情報を一瞬で処理せしめる。コンピューターやAIが人間の仕事を奪うのではないか、と空が墜ちてくるのを恐れた古人のように戦慄する方々もおられる。たしかに思考や計算をいくらでも肩代わりしてくれるのだから、人間に残されたのは感情的、動物的に欲望を充足することのみである。こわがるのも仕方がない。

それでもそうは上手くいかないのが道理である。人間の学びには限界がある。大量の情報を処理する技術や道具があっても、その利益を最大限引き出す「学び」を軽視している。いわゆる勉強のような量をこなして習得する学びは学閥精神主義にて大いに歓迎されるが、技術や道具を熟知し、新たな創案をおこなう学びは(文系では)稀なものである。量をいたずらにかさばらせ、質を省みない知はどこにいくだろう。他人を圧倒しやすい、精神・美・理性・情緒によるもったいぶった無知の自己正当化、復古主義である。

 

そうではなくて、もっとおのれの認知を拡げるかたちで、自らの言語文化領域と向き合うことが必要なのである。生成された言葉が変質して、全く異なった意義で受け止められる現象の数々を学ぶのだ。衣食住、そして性という生の持続にまつわる現象が、言葉の介在によって共同体の規範云々と関連付けられる。なかには表象するのさえ禁忌とされることもある。

古典教養というものはぽっと出のSNS上の議論とはちがい、数千年にもわたり反復され、あるいは贋造されてきた言語であり知である。否、修辞や空間や時間といった根本的スキームすら、その反復模倣から成り立っているといっても過言ではない。そうまでして伝承したかったものは何か。よく見られるような、「有閑な貴族や坊主の娯楽」のような古典教養観はあまりにも言語の意義を軽視している。

 

神話や詩歌のような言語表象は、身の回りのものにタグやインデクスを付け、即座に引き出すよう洗練された知である。縁起かつぎや占い、まじないがその好例である。因果としての関連性はたしかに科学技術には劣る。しかしながらインデクスの効力としては根強いものがある(疑似科学が持て囃されるのには、科学の煩雑性を解消せしめるこのインデクス的価値が一因にあるかもしれない)。

しかもそこには、一定の密儀的要素、象徴的要素もまたついて回る。限られた人間しか理解しえないコンテクスト……万人に明解な記号としての言語観とは対極にある。道具を使い、技術に習熟し、協働して発する「声」が、文章論的コードにより様々に変質するのだ。権威的な空間であり、祝祭的な時間がそれであるといえる。

 

恵みとともに災害をももたらす湿地帯に集落をいとなみ、暦による集団的な生を維持してきたことが、「声」をやがて記録する必要性を産み出しただろう。異化される死に打ち克ち、生の根源たる火や水を安全に管理し、衣食住、性を溜め込む「表象」の技術が見出された。それが、文字や模様、そして口承の記銘をひっくるめた銘の政治なのである。

 

以前のこの記事が綺麗に繋がるのではないかと思う。現在は目下古代の天文記事(北沢方邦「理論神話学」と真鍋大覚「儺の国の星」)、錬金術密教思想、茶道の表象と百人一首に内在する季節祭祀と太陽北辰崇拝等々を比較研究中である。

 

 

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