マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

「ひと-もよう学」草稿

「ひと-もよう学」草稿
●人間は動物的な「もよう」を殆ど帯びずに生まれ出る。それが自然においてどのような生存へと結びつくか。道具を使用し、表象することにより植物を育て、動物をてなずける、あるいは他の人間と強調したり、敵対することにつながってきたのだと思う。ある種の「パターン認識」が、生の持続にいかに作用してきたのか。「ひと‐もよう学(人文学)」のテーマはこの生の持続性に在る。

■言語のはたらきとはなにか。「ひろがり」または「つながり」について

ことばは指し示すものであり、時間的・空間的なひろがりを現わすものである。

人間が道具を使用し、共同で働くようになってから、ことばはより多義的に、スキーマとして意味を融合させるようになった。存在がその都度明らかにしなければならない「ひろがり」……共同体のうちの信用もその一つである。

■拡がったものを繋げる機構(organism)……認識・認知のための「行為(performance)」儀礼

領域と限界が明確に区分されるのは、数学=論理的な形式……集合論と構造において完成された。しかしながら、その形式は自然の空間と時間を完璧に模倣するには至っていない。人間は言語によって領域と限界を顕現することができる。

あらゆる文化表象は、自然を模倣し、反復されひろまることによって、共同体の規範となりえた。自然現象……太陽と月、風や雷、夜の星々は空間的領域と時間的限界を劇的に指し示す。ここにおいて、「ひろがり」より「かたり」が生まれることとなる。

人間はその文化的ないとなみのなかで「時間」「空間」に対する認知を広げてきた。「生の持続」には、いわゆる「再生」、ひとりの人間の死を超えた生の持続や、家系や作り上げてきた事物の維持・聖域化などの要素も当然含まれる。

■共同体と行為的な「模倣」……実体と仮象の「連続性」「持続性」をた-もつもの

信仰的宗教は、人間の精神的規範をもうけることによって、この聖なる言語文化表象の広がりを変形することができる。道具の使用、そしてそれによって得られる感覚的充足……衣食住、そして性の設備は共同体の信仰により大きく制御されることとなる。言語とてその軛からは逃れえない。言語は記銘されることによって、その道具的性質、感覚的統御を一層強めることとなった。自然現象と時間・空間の認識(時空認知)から大きく変貌することとなり、古神界から逸脱することとなったのだ。

■持続性と「配分」、比の概念

始原の神話、配分する理性を支える認知的な思考。それは比較して比率を割り出すことにある。ギリシアから中国にいたるまで、古代文明の理性は「配分」を基礎として身分的に相応な生活様式を肯定することを是とした。平等かつ再生産可能な生活様式は「比」によって維持される。その視点は主に彫刻や建築より生まれてきたものであろう。

そうした比は春夏秋冬という時間的なものや、黄金比や大和比などの幾何学的な比を援用して受け継がれる。


■神話(かたり)時代の古神界について、聖なるものどもの領域

「ひろがり」聖なるものどもの領域は、言語の「共有」がもたらす社会(つながり)の規範である。そこには空間的領域と時間的限界がある。

詩は、言語の信用性を犠牲に、古神界の遺物……シンボルとスキーマを空間化/時間化する。

行為と想起を結びつける「精神」の誕生……鎮魂、再生


■「唯劇論」
 ○テーマ、生と死のあいだに
公共の言語と詩の言語――連用的世界観と連体的世界観(命名
 スキーマとしての人体・天空・地理
道具使用と文化
劇が儀礼となるとき

 たんなる「口碑」が、一社会の生活様式まで拘束する社会的信念、規範になってしまう現象は、徒に民俗学歴史学の関心を惹くばかりではない。こうした言語文化のもたらす「信用」は政治経済に直結する課題である。

 貴族的な古典教養文化(西欧的には人文主義)は、近代において徐々にその活力を失い、実用的な自然科学にとって代わられた。しかし、前近代の詩や和歌において顕著だった観方のように、「迷信深く柔弱」であったから衰退したわけではない。「言語文化の未分化状態」において効力を発揮してきた教養に対する社会的信用が、高度に「精神的」な美や歴史的な芸術として純化・合理化されてきた結果、細分化され、傍流の自然科学に排斥されるほどにコミュニティの信用や影響力を縮小してしまったのだ。

 貴族的な古典教養文化、人文主義には、文字化される以前の人びとの原動力・モチベーションとなってきた前史が存在する。「物質民俗」はその解答の一つであり、詩や物語のもともとの社会的役割――労働歌やシャリヴァリといったものに密接に関連するものといえる。農耕文化は、鍛冶や窯業、狩猟や漁業にならぶ道具使用の一形態にすぎない。古代社会においては、これらを身体的な比喩、擬人化によってとりまとめ、詩歌や舞踊によって「再生」することこそが、社会的に尊敬される、異能や権威の源であったことは間違いない。こうしたシャマニズムが、音頭取りを要する軍隊や鍛冶、そして農業の有力貴族によって牽引され、「民俗」として維持されてきた。

 この物質的崩壊こそが、「口碑」「儀礼」の根源であり、より直截的にいうならば、「死と再生」の信仰と不可分のものであったことは、数多くの文化的共同体の基体として重層的な「死と再生」が意識されていることによって証される。祖霊の死は、はなはだ逆説的ではあるが、子孫としての再生として暗示されるのだ。風水や古墳ばかりでなく、西欧的な教会にいたるまで、家や墓は「母胎」のイメージから分化する。泉による取水や採鉱などの必要から山や洞穴を選んだ実用的側面も確かにある。だが、「炉=火処」の存在が、連想の決定的な決め手となる。

 そして、物質的崩壊の中心から周縁(境界)にかけて、男性的陽根崇拝としての石造物や建築が築かれることにより、一種の「再生」が意識されることとなる。河原や坂、もしくは「厠」という表象は、特殊な土木治水技術を要する都市の末端として、またケガレの漂着点、あるいは次なる再生の生産拠点となる。
 工匠たちは、文字という手段を持つ持たないにかかわらず、図像や記号によって(そもそも文字自体が特定の音と結びついた図像の特殊な事例であるが)「死と再生」を多彩に表現してきた。必然的に、詩歌にも物質的な生産と破壊が言及され、さまざまなコードがスキーマやメタファーの形で標示されることとなる。死んだ人間、消滅した事物が「模倣」され、現在に「介入」する。その起点が道具使用、身体の延長としての技術なのだ。

 ○他者の修辞学:信仰
  詩のカテゴリーとその攪乱……恋愛詩と戦乱・政治(恋愛はプロパガンダとなりうる)
  詩における欲望の表象と巫覡……興
  人称と印欧語族三分イデオロギー……「法」の三分イデオロギー(意志・命令・推量)

「工匠文化」について
 ジョルジュ・デュメジルがいうところの印欧語族の社会の三階層というものは、言語が共有される三つの次元・境界を作り出すことによる、社会的「信用」のあらわれである。それが端的に現れたのが詩であって、勇ましい叙事詩、慎ましく勤勉な農事詩、エロティックで予言的な牧歌というウェルギリウスの三つの詩や、あるいは詩経や楚辞、そして本邦の和歌などに見て取れるアイディアだと思う。

 神話的な文学や美術においてそれが特に重視されるのは、教養や言語それ自体として、社会的に広域かつ後世まで伝達しなければならない情報のパターンがこの三つに集約されてきたのだからだろう。文字の存在いかんにかかわらず、言語として表現可能な空間と時間の表現手段は、「命名」の煩雑さを避けるがために、おのずと簡潔な擬人化や比喩のバリエーションに依存する。これによって(たんに「存在する」のみではない、)「人称」によるさまざまな表現が可能になるのであるが、多くの言語では意志・命令・推量の三つに逢着する。これは古文の「む・べし」や英語の「助動詞」、ラテン語ロマンス語の「接続法」の主な用法であるだけでなく、詩の三カテゴリーにおいて表現される内容――戦乱の栄誉や死の根源(意志)、時季を択んで行わねばならぬ所作(命令)、そして繊細な空想と社会的転変の暗示(推量)に合致する。

 先述したデュメジルのカテゴリーは、単に社会的な身分としての祭司・戦士・農民だけでなく、この人称的な意志・命令・推量を神話的人格になぞらえたものと考えることもできるだろう。

 富・武力・聖性という動機素がそれぞれ対応する(興味深いことに、スキーマによって容易に転化しうる)。

 その点で、人間が古くから伝達に躍起になってきた「技術(道具使用)」は、その起源譚から習得、熟練まで、一つひとつの道具や挙動を言語化し、理由付けする困難さを要するように思われる。しかしながら、機械化や識字教育以前の前近代では、「物語」や「劇」、「儀礼」による絶え間ない反復によって、身体的に「記憶」し、ある意味では身体と社会制度や信仰、技術が「未分化」な状態を維持してきた。これらがきっぱりと分化し、あるものは科学、またあるものは政治、あるいは病気や迷信といった忌むべきものとなったのは、近代的な市民的な意識下においてにすぎない。

プルシャとシャクティ
   
 ○トリックスターの表象/投影される権力の起源

 ○区切りとしての起源譚/引用しあう説話群
  アレクサンドロス大王と説話群の攪乱
  オリエント・ヘレニズム・インド・シルクロード

大乗仏教の極楽浄土と宇宙論……エジプト的な秘儀(アルケミー)
 四大元素と四方位、水銀による金の錬成

 ○公共圏、精神、文学の「かたり」と看過される「境域」
  マクロな歴史とミクロな歴史

■古神界的表徴……鍛冶たちの伝承
植民地時代と言語表象

インド=ヨーロッパ語族、アフロ=アジア語族……政治的に分断された工匠たち
 近代科学の発達、産業革命の進展と「啓蒙主義=進化論」的世界観は、前近代的な工匠たちのmythologicalな世界観を政治的・精神的に分断した。その端的な例は神秘的オカルティズムである。

「知識」について、たんなる空想、想像力やある意図によって虚構を生み出すにしても、「尤もらしい」と思える信用が共有されていることが前提となるのではないか。そこには、農耕文化を維持するためのシステム、天文や測地、あるいは金属器や土器をつくる技術が介在したはずである。いや、むしろ農耕文化こそが、道具をあやつる技術を支える食糧補給体制として、人体とその機能的延長である道具使用を維持してきたのだ。

 そうした技術の総体は、工匠たちにとっては通過儀礼的に、経験して獲得するものであった。原初の神話、詩や物語は、こうした経験的な知を次世代に語り継いでいくためのシステムであった。ここに、祭祀儀礼をめぐる二重化の構造を見て取ることができる。従来のエリート対民衆や、民族対国家の歴史観は、再考を要すべきものである。

 ここに挙げられる事例の多くは、従来、科学的な思考や歴史観とはまったく異質な民俗伝承とかんがえられてきた。それもそのはずで、科学的な思考や歴史観とは、近代的な民主国家や民族という社会集団において、数々の道具を使いこなすために用立てられた知識なのである。したがって、そこで通用する常識は、他の技術を知るには非常に狭隘で限局された知なのである。


○技術の維持のための信仰・占術・呪術
人類にもたらされた鍛冶の技術は、人間の行動の「ひろがり」を支えるだけでなく、その高度な比喩性により言語を顛倒させた。予期し、依存する言語的表象……呪術が、記録や伝承を生み出す。模倣的行為が原型と受け取られる現象

鉱物や木材、水などの資源の収奪構造(余剰の占有)……戦争と秩序、(哲学以前)「正義」の抽象化


太陽神崇拝と母神崇拝……古神界と秘儀
ミトラス神、ルグ神、毘遮那仏、ナルト叙事詩……仏教・キリスト教の母胎、騎馬鍛冶文化の記憶と古星座
観音・女神と母胎(へそ)

北斗七星と太陽の神話的関連性

異界の詩学と時間性
 雁から白鳥へ(角の生え変わる鹿、脱皮する蛇、飛来する白鳥)
 復活する王・女王……錬金術的発想

北辰崇拝と表象(シャクジ・庚申)……犠牲の肉片、車、柄杓、一つ足、鹿
日吉山王信仰・伊勢(再生する太陽と不滅の太陽)
弥勒菩薩の半跏思惟、百済観音の姿勢など、北斗を象徴?

曙光と日没、そして春夏秋冬……さまざまなシンボルで現われる太陽神崇拝
 アーサー王ヘラクレス(十二ヶ月の象徴化)
 十二ヶ月の象徴化以前には、十か月ないし九か月と「死」の二三ヶ月があった

車輪(十字架と渦巻)
夏の車輪、冬の十字架……もようの始原
唐草文様
伊勢の車文、祇園の山鉾

 ◎竈神と厠神
  東西錬金術と「炉」
  香炉と立花
  茶道の源流としての再生信仰(偽史についての示唆)
   北斗七星と鳳凰……天皇的イメージの濫用による「遊芸」確立

春分夏至秋分冬至と祝祭
 半月・半年ごとに繰り返すこよみ(陰陽五行、季節呪術)

中国系(節句
 一月一日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日
ケルト
 万聖節(11/1)-クリスマス(冬至・12/31)-インボルク祭(2/1)-復活祭(春分)-ペルティネ祭(5/1)-聖ヨハネ祭(夏至・6/26)-ルグナサド(8/1)-聖ミシェル(秋分・9/15)
 ヴァルテール・植田重雄参照。また十二使徒・マルガレーテやバルバラなどの聖人暦

  冬至夏至春分秋分:地上の方角をふくめて(√2の三角形、比例理論)
  上社・下社の対応(附・山アテ、堪輿
  十字表象・六角と八角……死と再生

日没と日の出のあいだには「夜」があり、星たちが輝く。季節の移り変わりのなかで変わらず

「時空認知」と風……住環境、道具へのさまざまな表象⇒色紙・屏風に風鎮めの歌
 アナシ・嵐の時代……『青銅の王の足跡』『四天王寺の鷹』


●土木治水にたいする人びとの畏怖:「石神」論
 ○境界(さか)と鬼、悪魔
 ○神仙思想・陰陽五行の影響
  牛頭天王と宿曜(藤原氏と御霊崇拝)
  ケルヌンノス:医薬神と行疫神・境界侵犯⇒ミトラス
  黄道十二宮・月宿・十二支
  要衝としての播磨・周縁としての明石……人麻呂信仰

■古墳と古代中世技術史

●技術継承の場と巡礼・秘儀
 ○猿楽・狂言と中世神話
 ○闘争と祝祭

 ○聖域と祝祭……説話、日常の淵源としての生の浪費
  源平藤橘と親方ジャック(建築術のルーツ)
   源氏と「八幡宮」「南宮大社」、平家と「妙見」「北辰」
   藤原氏と「田原藤太」、橘氏と「金売り吉次」
   景清・景正・景政考
   菅原氏・紀氏・惟喬親王木地師塗師)……「太子信仰」
    和泉式部橘諸兄在原業平
   能(猿楽)と貴族:日本の中世劇(愛欲への信仰)
   フリーメイソンと聖人崇拝:ヨーロッパの中世劇
 
⇒神社・寺院から築城術へ。行基空海の伝説から
 実際の兵法の変化と呪術的視点

御霊・鬼・魔の顕現……死と再生、そして社会共同体

 ○天文学と冶金文化……盲目と邪視

マンダラ・ヘルメス主義・道教……空間・時間の「エレメント(元素)」化
 しつらい……炉や井戸の衣食住における重要性と無関係ではない

 ○煉獄にかんする一考察……後景の鍛冶神・硫黄

●冶金伝承
 ○前史としての風神・雷神崇拝(大汝)
 ○スキタイ文化と神宝
 ○石…凝灰岩と花崗岩
 ○水銀朱とアマルガム(鉛丹・弁柄をふくむ)
 ○ブロンズ(錫)
 ○鉄(チタン・マンガン・ニッケル)
 ○金・銀(大仏建立前後・石山寺
 ○鉛(弾丸と楽茶碗)


百人一首(植物のシンボル性)

始原的な「詩」、集団労働や擬態・擬音
密儀的なフレーズ
四季のトランジション

原点としての近江荒都歌(大化の改新の終焉と陰陽思想)

流謫、簒奪のテーマ
父子(血統)

源氏……皇族と藤原氏の対立の歴史が武士団を生む(源融源実朝
  軍記語りと穀霊

源氏物語伊勢物語の記憶

 業平(六歌仙+紀氏、敏行)菅家(亭子院)中宮定子(花山襲撃)九条家歌壇

植物……木地師轆轤師と建築
 桜(しろたへ)・紅葉(くれなゐ)六首と風(柳や杜若は風に散らない)
  破軍星の位置に「紅梅(貫之)」と「白菊(みつね)」が来る。また、柿本(柿=熟す)
  また、古き軒端と霜より、それぞれ順徳歌と家持歌が連想される。「心あてに」「心もしらず」と心あくがれる御霊を連想。平安京の終焉がテーマ?
 松(冬)・蘆(夏)と普遍性・未熟性(夏・冬はあを系の季節である)


鹿の崇拝(香具山、春日、宇治山)=人麻呂の原像?

鳥と風神、蛇と雷神(スサノオ時代からの古神界的伝統)「あをに」と「朱丹」(サナヘとニヒナヘ)

伝統的二分法……一月七日(若菜摘み)と七月七日(七夕、半年周期)

言語研究:異=名辞(イメージ)と銘=政治(メッセージ)

古典教養が等閑視される時代になって久しい。

 

もっとも、それには古典教養の「形骸化」ともいうべき、何でも形而上学的美学や精神修練に結びつけるような論説が前段階にあり、やがてオカルトや階級対立、民衆的立場から教養を扱き下ろす風潮があって、全くもって卑俗に拝金的に衰微してしまったといわざるを得ない。

しかしながら、人文学的なモノの持つ「復古主義」の魅力に一抹ながら価値があることもまた確かで、教訓じみた信仰、歴史趣味の消費に齷齪する人間も少なからずいる。

 

しかしながら、大局的に古文化の表象、言語文化の意義についてかんがえる人間は皆無にひとしい。

 

テクノロジーの進歩は大量の情報を一瞬で処理せしめる。コンピューターやAIが人間の仕事を奪うのではないか、と空が墜ちてくるのを恐れた古人のように戦慄する方々もおられる。たしかに思考や計算をいくらでも肩代わりしてくれるのだから、人間に残されたのは感情的、動物的に欲望を充足することのみである。こわがるのも仕方がない。

それでもそうは上手くいかないのが道理である。人間の学びには限界がある。大量の情報を処理する技術や道具があっても、その利益を最大限引き出す「学び」を軽視している。いわゆる勉強のような量をこなして習得する学びは学閥精神主義にて大いに歓迎されるが、技術や道具を熟知し、新たな創案をおこなう学びは(文系では)稀なものである。量をいたずらにかさばらせ、質を省みない知はどこにいくだろう。他人を圧倒しやすい、精神・美・理性・情緒によるもったいぶった無知の自己正当化、復古主義である。

 

そうではなくて、もっとおのれの認知を拡げるかたちで、自らの言語文化領域と向き合うことが必要なのである。生成された言葉が変質して、全く異なった意義で受け止められる現象の数々を学ぶのだ。衣食住、そして性という生の持続にまつわる現象が、言葉の介在によって共同体の規範云々と関連付けられる。なかには表象するのさえ禁忌とされることもある。

古典教養というものはぽっと出のSNS上の議論とはちがい、数千年にもわたり反復され、あるいは贋造されてきた言語であり知である。否、修辞や空間や時間といった根本的スキームすら、その反復模倣から成り立っているといっても過言ではない。そうまでして伝承したかったものは何か。よく見られるような、「有閑な貴族や坊主の娯楽」のような古典教養観はあまりにも言語の意義を軽視している。

 

神話や詩歌のような言語表象は、身の回りのものにタグやインデクスを付け、即座に引き出すよう洗練された知である。縁起かつぎや占い、まじないがその好例である。因果としての関連性はたしかに科学技術には劣る。しかしながらインデクスの効力としては根強いものがある(疑似科学が持て囃されるのには、科学の煩雑性を解消せしめるこのインデクス的価値が一因にあるかもしれない)。

しかもそこには、一定の密儀的要素、象徴的要素もまたついて回る。限られた人間しか理解しえないコンテクスト……万人に明解な記号としての言語観とは対極にある。道具を使い、技術に習熟し、協働して発する「声」が、文章論的コードにより様々に変質するのだ。権威的な空間であり、祝祭的な時間がそれであるといえる。

 

恵みとともに災害をももたらす湿地帯に集落をいとなみ、暦による集団的な生を維持してきたことが、「声」をやがて記録する必要性を産み出しただろう。異化される死に打ち克ち、生の根源たる火や水を安全に管理し、衣食住、性を溜め込む「表象」の技術が見出された。それが、文字や模様、そして口承の記銘をひっくるめた銘の政治なのである。

 

以前のこの記事が綺麗に繋がるのではないかと思う。現在は目下古代の天文記事(北沢方邦「理論神話学」と真鍋大覚「儺の国の星」)、錬金術密教思想、茶道の表象と百人一首に内在する季節祭祀と太陽北辰崇拝等々を比較研究中である。

 

 

matsunoya.hatenablog.jp

 

存在とかたり:古文化表象の分析

現代人ほど言語や存在に無関心でのうのうと生きている者はいない。

国語教育はたしかに国民全体の読み書きの浸透には益するもので、文明とか生活に恩恵をもたらすものである。しかしながら、言語や歴史学、哲学の取り扱いについては、きわめて凡庸で弛緩した知覚……目の前に再現しうるものしか信じないし、掘り下げない学問的態度をあらわにしてしまっている。

つまるところ、吟味し、没入すべきとされるオリジナルな心情とか感情が重視されるあまり、周囲のコンテクスト、なぜその表象が遺ってきたかという「かたり」のメカニズムが充分維持されてこなかったのだ。取り上げられても好奇の目にさらされるばかりで、絶えてしまった表象も多いことだろう。言語という刺激が常態化してしまい、感覚が麻痺しつつあるのが今日の学術といえる。

現代的感性は、世代とともに成熟し、やがては老い、死滅する。寄せては返す波のように、対立や異物への拒否、排斥を延々と繰り返す。言語で書かれ、記憶されていても省みられなければしょうがない。それでも、媒体がまるきり変わってしまえば断絶は避けられない。言語や存在に鋭敏となり、古記録を振り返る、という視点は、金をばらまくのに終始する富豪や政治家にも、浮薄な児戯に終始するテレビやネットにも今のところ欠けている思潮である。

エモい物語が繰り広げられる鬼や呪術が持て囃されていても、それらがいかに守り伝えられてきたか、ましてや大和岩雄や井本英一、吉野裕子や若尾五雄等の先人の研究は一部の好事家にしか知られないのである。環境保護は声高に叫ばれているが、一部出版業の利得のために文化資本が消費され、乱造され、忘却の彼方に追いやられるリスクも考えられるべきである。古典文化のイメージの乱用は、短期的には経済的利益を生み出すだろうが、行き着く先は歴史的なアイデンティティーの喪失である。歴史的連帯を失った人間こそ、安易な自国中心主義……賛美であろうが、批判であろうが、コンテクストを掘り下げることもできない皮相な言論の大量生産に終始することになる。

古文化表象をオカルトとか、古代人の想像の世界というように言い表すのは容易い。現代人がいかに生命維持と言語活動を峻別しているか、わざわざ他者に信用を共有してもらわなくても、衣食住を満足に送れるようになったかを示している。もちろん、近代の帝国主義のように周縁から収奪し、厳しいヒエラルキーを課したうえで個個人の衣食住は成り立っていたのではあるが。地図として表現されうる空間、そして過去、現在、未来の直線的な時間。コンテクストは紙で表現可能なこれらの観点から創造されていく。捏造といった方が適当である。ノードで網目のように結ばれるべき言及の構造を、紙上にひとまず整列するにはこの他にはない。

だが、目の前の存在は、また語られるべき言語は、そうして創造された見かけのコンテクストの域外へと開かれており、しばしわれわれはその事実に畏怖するのだ。集団的な協働、そしてその基盤であり生活であるところの衣食住。これを確かなものとするのが知であり、存在であり、言語でかたられうる物語であるはずだ。

 

太陽神や大地母神への信仰、価値ある財とりわけ水にかんする時に露骨なかたりの数々は、生の持続維持のための「貯蓄」と表裏一体である。すなわち、信用を時間的空間的に完成させないと、神事なり密儀としては不十分といわざるを得ない。

言語と古文化表象学

またしても大きなブランクが空いてしまった。

 

現代のように、好きなときに好きなだけ書物が読めるという状況は極めてまれな事態である。衣食住にかかわるその他の行為も大体は季節や場所の制約があったものである。それが撤廃されたのは、ひとえに機械による産業革命や教育による識字率の向上の貢献が大きい。そうして均質化された国民国家貨幣経済の恩恵により、自由な精神活動が行えるようになった反面、社会的・環境的な負荷が及ぼす疲弊も顕著になってきてはいるが。

「時や場所によってフレキシブルに変化しうる社会的関係」は、書物文明のなかにおいては受け入れられがたい不確定性を孕んでいる。書物の「型にはまった」理解……ある論理のもとに階級、差別、進歩、目的を説くというスタイルは、不測の事態が相次ぐと自壊してしまうほどに脆いものである。「解釈」が新たに付け加わってしまえば、意味さえ正しく後世に伝えることはできない。震災の時代は書物の文化に深い自省をもたらすものではなかったか。いま我々の間に拓けた視点は、些末で旧態依然とした窮屈な議論、そして思考停止した権力である。

人文学的な古文化表象の研究、とりわけ、暦と人間はどのように関わってきたか、また聖地や祝祭にまつわる伝承の総合的研究は、たんに人類学という西欧文明ありきのパラダイムにとらわれるものではない。また前時代的なオカルト・精神論・自民族中心主義に拘泥するものでもない。これらの問題点は、「普遍的な真理」を追求するあまり、古文化の置かれていた特殊の事情を鑑みず、1つの物語にしたてあげてしまった硬直性に起因する。

言語文化と想起

 書物文化、およびインターネット社会は、「書く」、および「読む」という行為を食事や排泄と同じくらい欠かせない反射的で、感覚的な行為として完成させた。しかも、それらは思考する「精神」の営為として理解される。民族や国家、あるいは民衆といったカテゴリーに属して、自発的に行動する人間の表現の発露。おそらくこの事実について疑問をさしはさむ人間はいない――いないからこそ問題なのだ。

 

 「書く」「読む」という行為を社会的に何かを「伝える」営為とするとき、なぜその事象を日常生活のなかで「想起する」、または「表象する」のかという問いに置き換えると、「書く」「読む」行為はたちまちその反射性、感覚性を除かねばならない。

 現代のコミュニケーションは「持続的に残す」という発想に欠けている。

 もしかしたらそれは、多くの血をながすこととなった、民族精神や国家精神、民衆のルサンチマンといった歴史の原動力への反省、あるいは言語文化そのものを衝動的な金融システムや資本主義的マーケティングの婢とするという時代精神なのかもしれない。落ち目の出版業界や映画業界が目先の出版部数や興行動員数に気をとられ、何らの革新的議論をも生まないお人形遊びに興じていることからも明らかであろう。

 知の基盤たるべき大学や学術機関に前世紀の大衆化のメリットが反映されず、「反差別」を錦の御旗に主役と悪役をとっかえひっかえした議論に終始するさまも滑稽である。情報共有の高速化と拡大に、ただ情報を大量に「消費する」といったリアクションしか取れていない現代の人間の悲劇である。

 自然災害を何度も経験しながらも、その場の物語、道徳的美談にしか耳目が惹きつけられない、国家的プロジェクトが責任者の利益誘導や不道徳性で沈滞し、もはや歓迎されない。「日本スゴイ」と散々持ち上げるのも、「日本の衰退」と憂うのも部数や視聴率次第。情報がいかに大容量で、高速に通信できるようになっても、安易な二分法と二極化した評論が国民・民族・市民・民衆・庶民といった様々なバイアスのかかった「精神」から吐き出されるだけで、それらをいかに高速で出したり引っ込めたりするかという歪んだリテラシーが求められる。

 

 すくなくとも、古代や中世の『人文学』は、近現代のこうした堕落した読み書きのコンテクストから離脱しなければならない。

 文字資料だけではなく、近現代的価値観では「読み書きできない」とされる人間の神話伝承・図像学儀礼祭祀は、持続的な「読み書き」によって運用されてきた、といえる。それらは、近代的な知識人が考えている識字的主体、国民・民族・市民・民衆・庶民云々とは別箇の、協働的な日常の生とのかかわりとしてのリテラシーなのである。文字を「読み書き」するのではなく、自分たちの生を「延べる(持続する)」ために「よみかき」する。

 そのために遺されてきたテクストは、その古さのために全面的に信用される、というような魔術的・呪術的な効能をも認められる。しかしながら、それは現代的な「貨幣」や「金融」が数学的な考え方で理論化し、予測し、何とか維持している中長期的「信用」の、いわばプロトタイプ的な姿なのである。

 言語の基礎に詩歌が存在するのは、その形式が身体的な動作を規範化して、協働的な社会的行為を行わせるメディアであり、なおかつその内容が何ものかの生や社会的行為を受け皿(メタファー)にしてものを教え、考えるという目的に適するからである。

 

 そしてそれは、道具の使用――外界の自然(風土や四季、そして他者)にいかに順応するかという生の持続に、きわめて痛切に連関しているものであった。「生を延べる」ために、道具の持続的使用には、「権威」的な信用が不可欠となったのである。道具自体にも、外界を「よみ」、王や貴顕とのつながりを示すシンボルを「かく」ことが必要であった。繰り返す一年のうちに、農作業や鍛冶、牧畜に極めて重要な春夏秋冬の訪れとともに記念し、想起することもまた求められた。物語を「よみかき」するということは、かくして知を持続的に連関させ、記銘する「技術」であったのである(むろん、今も学者や政治家に求められている技能であることは言うまでもないが)。

 

 現代大衆文化の「記憶」は、古代や中世の神話や説話から多くのイメージを借用している。しかし、はたして人びとは持続的に「記銘する」技術をそこから学び取ることができるのか、それは時の流れが(残酷にも)証明することになるであろう。

複製情報時代の情報(複製芸術時代の芸術、ならぬ)

 以前、といってもずっと前だが、このブログにて「学融機関」というアイデアを扱ったことがある。文化をSDGsなどに絡めてPRし、現在への投資に活かしたり、遠隔地の文化財や行事などのサービスを取りまとめて、観光や地域振興に活かす拠点として、「大学」や「美術館、博物館」などがより自らのもつ文化的な情報の取り扱いに先鋭的になるべきだとする論だったように記憶している。

 

 私のスタンスは、コロナ禍の前のこの無邪気な空想からは全く変わっていない。いな、むしろこのアイデアにこそ、新時代の情報産業の要が存在するように考えられる。

 

 アメリカのGAFAをはじめとするビッグデータ産業、および中国の情報産業を鑑みるに、彼らのやっていることは前世紀のデトロイトがガソリンを大量に消費し、大量生産体制を敷いて自動車を普及させたような手法を、情報やソーシャルネットワークサービスに対しても用いているのである。この物量戦はなるほど情報化産業の普及しはじめの時期に優位に立つには有効である(だからこそ倹約自粛一辺倒の日本は戦争や感染対策で国力を削られるし、グローバル・スタンダード作りに後れをとることとなる)。

 

 しかしながら、「コモディティ化」とでも言うのだろうか、目新しいサービスが出尽くし、あるいは石油のような資源が枯渇する局面となると、「物量戦」ではなく「集積戦」、コンパクト化へと舵を切らねばならなくなる。スパコンやAIは莫大なデータを参照し成果をあげるが、データの集積元および集積先を考える人間の「発想」が洗練されていなければ、単なる遊びにしかならない。

 

 また、アメリカが常にゲリラ活動やテロに苦しめられたように、普及してしまったインターネット社会は、フェイクニュースやファスト動画など、金銭的・政治的損害を一気に拡散させるような問題への対処に非常に脆弱であると言わざるを得ない。かといって、早急な規制を乱立させて混乱させるような小手先のテクニックや、あるいは中国のように人海戦術や遮断を駆使して徹底管理するという手法も、長期的に持続できるものではないと見られる。

 

 日本のいわゆるクール・ジャパンは、瞬間風速的なマンガ・アニメ・ゲーム文化を官僚たちが利権のおもちゃに(そしてオタク公務員たちの遊び場に)したに過ぎない政策であった(同じことが観光におけるGotoなんちゃらにも言える)。高齢者や若年層のデジタル・デバイドも、悲しむべきか、(Windows95の時代から)まったく改善する気配もなく再生産されつつある。政府が紙幣をばらまけばばらまくほど、紙幣の価値が暴落することは目に見えている。先陣を切るべきは、民間企業と既存の学術機関の有志の連携なのである。失われていく文化を集積し、かつ誰もが利用できるような共有財産として提供する「学融機関」が、コロナの焼け跡から生み出される、新時代の集積回路となるべきなのである。

 

 別に愛国的精神、そして道徳的精神を鼓吹するわけではないが、茶道や禅など、その他の芸術をこれまで維持してきたシステムは、この次代の複製情報時代のヒントとなるといえる。彼らは、先人たちの事績を顕彰し、数々の逸話を師から弟子へと伝えることによって、あるいは用いる道具に「好み物」として刻み込むことによって、自らの存在意義を高め、また審美眼としての情報の自主的な取捨選択を行うことができた。

 

 こうして「道」を究めるということは、社会に所属し、かつ距離を置くという不即不離・守破離の考え方の涵養につながる。現代人の情報依存に欠如しているのは、まさにこの根幹である。

 

 誰かが言っていたからそれを軽々しく他人に勧め、またフェイクとして批難するような受動的態度は、ファシズムを口では否定していても、ファシスト的な行動・暴力につながる。前時代の岡倉天心鈴木大拙が見出した東洋的美意識・価値観は、それ単体としては評価すべきものではあろうが、こうした近代的価値観のスラックティビズムやスノビズムに飲み込まれることによって精神主義のおぞましい幻影と化した。近代知識人が東洋的美として芸道を無批判に受け入れ、墨守し、衰退させた罪科は拭い去ることはできないだろう。

 

 さらに、現代の情報拡散の高速化・情報受容の二極化が招くのは、「エコーチェンバー」のような集団狂気の増幅現象である。学術機関のアカデミズムすら、この類の増幅現象とは無縁とは言い切れない。60年代安保を薄めたスープのような、昨今の「政治家対われわれ」運動の数々は、結局薄型テレビの薄っぺらい街頭インタビューやコメンテーター止まりで、実際に政治を動かすようなジェネラリスト的視点に欠けている。

 

 ストア的な「隠れて生きる」ではないが、ひとりひとりが不即不離・守破離の考えでモノを言う人間とならねばならない。個人のやりたいことを尊重する教育とうたいながら、画一的な就職活動で選別し、あるいは何らかの障害と決めつけて社会から疎外するようなちぐはぐなムラ社会となってしまった現代日本は、情報化社会以前に、ただただ人とモノの浪費となってしまった。そんな中で、欧米のジェネラリスト的エリートが読んでいる教養の本や美術鑑賞について滔々と説いても、瞬間的な利益には結びつくが、ブックオフの棚にかさばるのがとどのつまりである。

 

 本筋にもどそう。今後の情報化産業に必要なのは、こすい個人情報の大量収集でなく、「いま自分はここで何何をしている、なぜか」という個人の柔軟な歴史的・社会的再定位に役立つ「信用ある」情報の集積である。そのためには、今ある古典籍や文化を縦横無尽にかき集め、すぐマインドマップでむすびつくような状態にしておかなければならない。そうしたインフラ作りを以前に夢想したので、どうぞご笑覧願いたい。

 

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言語文化と信用:劇的な学問

人文学は、言語とその信用の歴史に向き合わなければならない。

 

「考える」という事象は、ともかくも「信用」を中心にした紐帯――言語が通用するところの共同体をふくめた連関――を基盤としている。学問はその連関の精髄であるが、むしろ精髄であるがゆえに、多くの事例を捨象し、あるいは見落としている。

 

 言語は、「存在」の表象のうちに、ある種の「価値判断」をひそませる。この性質が、言語が維持する/されるべき共同体にとっていかなる作用をはたらくか。すくなくとも、「現実性(reality)」なる観点には、単なる存在・非存在の客観から遊離した、倫理的または論理的整合性「ことわり」を見て取ることができる。すなわち、因果として対処されるような時間的前後関係を、「ある」のうちに解釈せずにはいられないのだ。なぜかといえば、そう「把握する」こと自体が、共同体上の自己という現象を規範づける(身を「たてる」)、「信用」の一体系のうちに組み込まれてしまっているからである。

 

 道具を作り、使う――それにより自己と他者を境界付け、維持する――あらゆる名称化された営みの基本であると思う。そのために、比較・比喩などの修辞もまた必要とされる。かくして、自己から他者、他者から自己という方向性をさだめて初めてことわりが生み出される。修辞の整合性は、この方向性、「贈与」への評価としてはじめて表現されうる。

 思うに、信用は「道具使用による周囲への干渉」を基にして生まれた。文化(Culture)が耕作(Cultivation)から分岐したように、モノを生産し、通用させ、消費することを企図する、あるプランの拡がりがことばの母胎、信用となる。

 このプランとは、「聖性」を意図している。道具の使用がもたらすある見通し、結果が膨れ上がった結果、その無限性・不可能性を一挙に乗り越える責任者を要する。道具使用-身体の延長という画期的発明が、「いま-ここ」の認知を、より空間的に、より時間的に長大なスパンへと拡大していく。「自己/他者」の区切り、および現象としての価値措定が行われることで、説話はたんなる「ある所」の漠然とした集まりから、数量的な比較や修辞的な比喩をふくめた順序性が与えられる。

 

 そしてそれを正しく認識できる人間が、その属するところの共同体において「信用がある」と見なされ、また自らそのようにふるまうこととなる。階級意識や社会的差別をふくめたモラルを、シンボル的な思考をもとに順序だて、垂直的なヒエラルキーを作り出すのだ。経済や金融における「信用」は、まさしく数値的な比較と修辞的な比喩をラディカルに用いた言語文化であるといえる。その基本的な祖型は、共同体の「協業」のために展開された、詩と劇の世界――順序性の理解(因果的思考)を表象するということに端的に体系化されている原理であるのだ。

 

 道具を作り、使うことは、自己同一性、そして因果関係のよりラディカルな形態、つまり「死と再生」にまつわる技術と文化に直結し、モノとコトとの特殊な連関(呪術や民俗)をはぐくむこととなる。なおかつそれは、古代や中世においては、「聖性」なる価値を人びとに供給することとなった。比較や比喩の極致として、あらゆる共同体の「長」を凌駕し、生まれ、滅し、再生する他者である。ある時はトリックスターとして、共同体の構造を模倣し、暴き、知らしめる存在となるであろう。

 

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 近代はその「聖性」を、「希少な」存在と巧みに読み替え、多くの人間にそのコピー(言うなればステレオタイプ)を分配することにともかくも成功した。なかには陳腐化してしまったものも、役にたたず忘却されゆくものもままある。根底には印刷文化が、図像の氾濫、混沌が存在し、それゆえに「単一化」への強い希求がまた生まれた。言語的な信用は、やがて西欧的な民主主義政治と貨幣のシステム、そして近代科学による強い権威性を、「市民」のイメージとともに人びとへ刷り込んでいった。

 つまるところ「聖性≠希少性」は、規範と服従という意識を生み出した。信用ある人間として、他者の死と再生に関与する、これが自己のみならず、共同体の自己同一性の維持に不可欠であることを、無意識のうちに受容してきたのである。言語文化にかかった一種の抑圧・抑制は、学問それ自体の不自由さの結晶である、「モラリスト的な意識」「アカデミズム」に端的に現れる。「信用」それ自体を学問的に問うことをせず、「信用ある人間として」ふるまおうとする意識が、知全体の不明瞭さと、その場しのぎの言説への撞着、そして過度な精神性への賛美を根付かせ、文化の荒廃に余殃をもたらすのである。

 

 「表現し、顕示する」ことは、空間性と時間性を併せ持つ。すなわちそれはたんなる生命維持……死の恐怖から偶然・無意識的に逃れるための「衣食住」ではなく、死を克服し、再生を企図する技術としての「呪術」が、根底に存する。すなわち、ある道具、ある作用による「量化」は、表現・顕示されることによって、権力や信仰といった質としての「共同=協働」へと飛躍しうる。近代的な社会科学(特に民俗学)は、農業を第一として共同=協働を見てきたわけであるが、農業じたいがさまざまな職能集団による協業によって実現してきたことを改めて注意しなければならない。

 

 農耕の儀礼として、人文科学の前に虚構化されたもの。そこには、農耕文化を維持するためのシステム、天文や測地、あるいは金属器や土器をつくる技術が介在したはずである。いや、むしろ農耕文化こそが、道具をあやつる技術を支える食糧補給体制として、人体とその機能的延長である道具使用を維持してきたのだ。

 

 そうした技術の総体は、工匠たちにとっては通過儀礼的に、経験して獲得するものであった。原初の神話、詩や物語は、こうした経験的な知を次世代に語り継いでいくためのシステムであった。ここに、祭祀儀礼をめぐる二重化の構造を見て取ることができる。従来のエリート対民衆や、民族対国家の歴史観は、再考を要すべきものである。

 

「工匠文化」について

 

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 ジョルジュ・デュメジルがいうところの印欧語族の社会の三階層というものは、言語が共有される三つの次元・境界を作り出すことによる、社会的「信用」のあらわれである。それが端的に現れたのが詩であって、勇ましい叙事詩、慎ましく勤勉な農事詩、エロティックで予言的な牧歌というウェルギリウスの三つの詩や、あるいは詩経や楚辞、そして本邦の和歌などに見て取れるアイディアだと思う。


 神話的な文学や美術においてそれが特に重視されるのは、教養や言語それ自体として、社会的に広域かつ後世まで伝達しなければならない情報のパターンがこの三つに集約されてきたのだからだろう。文字の存在いかんにかかわらず、言語として表現可能な空間と時間の表現手段は、「命名」の煩雑さを避けるがために、おのずと簡潔な擬人化や比喩のバリエーションに依存する。これによって(たんに「存在する」のみではない、)「人称」によるさまざまな表現が可能になるのであるが、多くの言語では意志・命令・推量の三つに逢着する。これは古文の「む・べし」や英語の「助動詞」、ラテン語ロマンス語の「接続法」の主な用法であるだけでなく、詩の三カテゴリーにおいて表現される内容――戦乱の栄誉や死の根源(意志)、時季を択んで行わねばならぬ所作(命令)、そして繊細な空想と社会的転変の暗示(推量)に合致する。


 先述したデュメジルのカテゴリーは、単に社会的な身分としての祭司・戦士・農民だけでなく、この人称的な意志・命令・推量を神話的人格になぞらえたものと考えることもできるだろう。


 その点で、人間が古くから伝達に躍起になってきた「技術(道具使用)」は、その起源譚から習得、熟練まで、一つひとつの道具や挙動を言語化し、理由付けする困難さを要するように思われる。しかしながら、機械化や識字教育以前の前近代では、「物語」や「劇」、「儀礼」による絶え間ない反復によって、身体的に「記憶」し、ある意味では身体と社会制度や信仰、技術が「未分化」な状態を維持してきた。これらがきっぱりと分化し、あるものは科学、またあるものは政治、あるいは病気や迷信といった忌むべきものとなったのは、近代的な市民的な意識下においてにすぎない。


 たんなる「口碑」が、一社会の生活様式まで拘束する社会的信念、規範になってしまう現象は、徒に民俗学歴史学の関心を惹くばかりではない。こうした言語文化のもたらす「信用」は政治経済に直結する課題である。

 

○古代的な詩の形態……協業的な労働歌と呪歌⇒叙事詩・悲劇

○中世的な物語……空間と時間の拡がり(恋愛、欲望)⇒権力の重層化と多元化、倫理

 ●方言と俗語の伸長、コミュニティの動乱・規範


 貴族的な古典教養文化(西欧的には人文主義)は、近代において徐々にその活力を失い、実用的な自然科学にとって代わられた。しかし、前近代の詩や和歌において顕著だった観方のように、「迷信深く柔弱」であったから衰退したわけではない。「言語文化の未分化状態」において効力を発揮してきた教養に対する社会的信用が、高度に「精神的」な美や歴史的な芸術として純化・合理化されてきた結果、細分化され、傍流の自然科学に排斥されるほどにコミュニティの信用や影響力を縮小してしまったのだ。


 貴族的な古典教養文化、人文主義には、文字化される以前の人びとの原動力・モチベーションとなってきた前史が存在する。「物質民俗」はその解答の一つであり、詩や物語のもともとの社会的役割――労働歌やシャリヴァリといったものに密接に関連するものといえる。農耕文化は、鍛冶や窯業、狩猟や漁業にならぶ道具使用の一形態にすぎない。古代社会においては、これらを身体的な比喩、擬人化によってとりまとめ、詩歌や舞踊によって「再生」することこそが、社会的に尊敬される、異能や権威の源であったことは間違いない。こうしたシャマニズムが、音頭取りを要する軍隊や鍛冶、そして農業の有力貴族によって牽引され、「民俗」として維持されてきた。もちろん、現代のゴミだらけの消費社会の代替物たる、「闘争(戦争)」による物質的破壊が伴ったことは言うまでもない。


 この物質的崩壊こそが、「口碑」「儀礼」の根源であり、より直截的にいうならば、「死と再生」の信仰と不可分のものであったことは、数多くの文化的共同体の基体として重層的な「死と再生」が意識されていることによって証される。祖霊の死は、はなはだ逆説的ではあるが、子孫としての再生として暗示されるのだ。風水や古墳ばかりでなく、西欧的な教会にいたるまで、家や墓は「母胎」のイメージから分化する。泉による取水や採鉱などの必要から山や洞穴を選んだ実用的側面も確かにある。だが、「炉=火処」の存在が、連想の決定的な決め手となる。


 そして、物質的崩壊の中心から周縁(境界)にかけて、男性的陽根崇拝としての石造物や建築が築かれることにより、一種の「再生」が意識されることとなる。河原や坂、もしくは「厠」という表象は、特殊な土木治水技術を要する都市の末端として、またケガレの漂着点、あるいは次なる再生の生産拠点となる。


 工匠たちは、文字という手段を持つ持たないにかかわらず、図像や記号によって(そもそも文字自体が特定の音と結びついた図像の特殊な事例であるが)「死と再生」を多彩に表現してきた。必然的に、詩歌にも物質的な生産と破壊が言及され、さまざまなコードがスキーマやメタファーの形で標示されることとなる。死んだ人間、消滅した事物が「模倣」され、現在に「介入」する。その起点が道具使用、身体の延長としての技術なのだ。

 ここに賦活(Motivating)の哲学が成立する。

 

公共の言語と詩の言語――連用的世界観と連体的世界観(命名
 スキーマとしての人体・天空・地理
道具使用と文化
劇が儀礼となるとき

 

■「唯劇論」
 ○テーマ、生と死のあいだに
 ○他者の修辞学:信仰
  詩のカテゴリーとその攪乱……恋愛詩と戦乱・政治
  「法」の三分イデオロギー(意志・命令・推量)
 ○トリックスターの表象/投影される権力の起源
 ○区切りとしての起源譚/引用しあう説話群
  アレクサンドロス大王と説話群の攪乱
  オリエント・ヘレニズム・インド・シルクロード
 ○公共圏、精神、文学の「かたり」と看過される「境域」
  マクロな歴史とミクロな歴史


■古墳と古代中世技術史
●土木治水にたいする人びとの畏怖:「石神」論
 ○境界(さか)と鬼、悪魔
 ○神仙思想・陰陽五行の影響
  牛頭天王と宿曜(藤原氏と御霊崇拝)
  ケルヌンノス:医薬神と行疫神・境界侵犯⇒ミトラス
  黄道十二宮・月宿・十二支
  要衝としての播磨・周縁としての明石


●技術継承の場と巡礼・秘儀
 ○猿楽・狂言と中世神話
 ○闘争と祝祭
 ◎竈神と厠神

  ヴェーダやアヴェスター時代の火や水の管理、金や水銀朱の採掘

  手燭・灯籠などの「火」、聖泉・庭園などの「水」の循環⇒炉や厠の脱神話化

「感覚的」な身体の延長としての道具使用・器物が、権威・信仰上の「見せる」顕示作用に……同時に、生産者・消費者のヒエラルキーの形成、「死と再生」が、衣食住の選好基準となる

  確からしさ・信用による社会秩序・倫理の精神的理想化
  東西錬金術と「炉」
  香炉と立花
  茶道の源流としての再生信仰(偽史についての示唆)
   北斗七星と鳳凰……天皇的イメージの濫用による「遊芸」確立

   秀吉(菊桐・瓢箪・稲荷と天神)……「つぼつぼ(土器)」と「梅花」、千家による「代理表象」
 ○天文学と冶金文化……盲目と邪視
 ○聖域と祝祭……日常の淵源としての生の浪費
  源平藤橘貴種流離譚、やつし的発想)と親方ジャック(ケルトおよびローマ文化のキリスト教化)
   源氏と「八幡宮」「南宮大社」、平家と「妙見」「北辰」
   藤原氏と「田原藤太」、橘氏と「金売り吉次」
   景清・景正・景政考
   菅原氏・紀氏・惟喬親王木地師塗師)……「太子信仰」紀氏と大師
    和泉式部橘諸兄在原業平
   能と貴族:日本の中世劇
   フリーメイソンと聖人崇拝:ヨーロッパの中世劇
  詩における欲望の表象と巫覡……興
   人称と印欧語族三分イデオロギー
  軍記語りと穀霊

  百人一首というシンボル

  キリスト教的サイクルと年中行事(間接的な太陽信仰)
  半月・半年ごとに繰り返すこよみ(陰陽五行)
  冬至夏至春分秋分:地上の方角をふくめて
  上社・下社の対応(附・山アテ、堪輿
  十字表象・六角と八角……死と再生
 ○煉獄にかんする一考察……後景の鍛冶神・硫黄
 ○技術の維持のための信仰・占術・呪術


●冶金伝承
 ○前史としての風神・雷神崇拝(大汝)
 ○スキタイ文化と神宝
 ○石…凝灰岩と花崗岩
 ○水銀朱とアマルガム(鉛丹・弁柄をふくむ)
 ○ブロンズ(錫)
 ○鉄(チタン・マンガン・ニッケル)
 ○金・銀(大仏建立前後・石山寺

 

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