マツノヤ人文学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

工匠文化論:火知りと日知り

 貨幣や政治のシステム、そして文字によるリテラシー、宗教に至るまで、従来の国家と民族中心の歴史観は、いわゆるウェストファリア条約から、1750年代に始まり二度の大戦へと200年弱続く「長すぎる19世紀」において構築されたものである。この間は、王権や宗教権力によって抑圧されていた商工階級が文字による歴史や文学を主導し、迷信に染まっていた信仰と理知的な科学を分離し、民主主義や資本主義経済の様々なシステムを考案した時代であるとされる。

 

 そして、ヨーロッパ諸国が全世界への海洋へと進出し、植民地や博物学的な研究をも独占した。宣教活動によって普及した「紀元」は、地質学・考古学・物理学の進展により、キリスト教の教義を離れ広く用いられるようになった。

 とくに、全世界の国々が躍起になったのが、「商工業革命」「大衆啓蒙」「政治の変革」である。これらは時に生活様式の暴力的な破壊をもたらした。「貧困」「差別」「弾圧」は、文字に乗せられ伝播することによって、かつての「迷信」の時代よりも熾烈な窮状をひとに強いた。迷信の虚妄を排し、商工業が貨幣経済に一元化していくにつれ、贈与や寄進などのかつて共同体を支えていた多元的なシステムが顧みられなくなってしまったからである。

 それまで独立して還流することのできたモノやサービスが、金銭と紐づけされ容易に動かなくなることは、表面的には公平で階級差別のなくなった社会に、除くことの容易でない偏見を植え付けているということと同時進行である。とりわけ多くの変化を被ったのはアジア・アフリカ・アメリカの諸地域であろう。文明史観により「衰退」「未開」とされた地域は、ヨーロッパの先進的な知識を取り入れ(させられ)る一方、宗教的原理主義の台頭、モノカルチャー経済の弊害、汚職政治など、この「19世紀」以来の桎梏に悩まされている。

 破壊されたのは社会的構造のみではない。人文学の研究もまた、様々な制約によってがんじがらめにされることとなった。活版印刷の普及にともない近代的な著者と読者のネットワークが出現したとき、すでに伝統的な経済システム・政治システムは「変質」しつつあった。大航海時代とよばれる現象により、陸の権益を争う王たちと海の商人たちの収奪が同期しつつあったし、生を活写した古典文化の再発見により死を思う信仰は形骸化しつつあった。極め付きは、宗教改革による修道院や教会の破壊、民主主義革命による王権の衰退である。

 それまで維持されてきた儀礼などのシステムは効力を失い、商人や工業人が主導する、科学や経済的に「是とされる」教育による精神の陶冶がそれにとってかわった。科学や経済、国家や民族に細分化された枠組みは、それまでの自由学芸を、科学と芸術のアカデミズムへと変えてしまう。儀礼や遍歴などを通じてギルドの規格化された品物を製造する権利を継承する営みが、レオナルド・ダ・ヴィンチガリレオ・ガリレイといった「天才」による発見を列挙する、精神史の教授へとすり替わってしまったのだ。

 これは日本でも同じで、国学派の主導による廃仏毀釈や、それまでの政治体制の転覆による既存の権威の崩壊と再編制の中で実現したのが、それまで「農業国家」だった日本の「急速的な工業化」である。しかしこれは、職人の遊歴、神仏信仰とのむすびつきなどにより村のすみずみまで行き渡っていたある文化が消滅し、国家や中央集権的な官僚政治・経済に直結した「商工業」へと組み替えることに運よく成功した、と言い換えられるべきなのではないだろうか。しかし、それらは一顧だにされず、民俗学や文筆家が拾い上げることがあっても「迷信」と一蹴され、例えば苦学して海外を見聞し身を興した渋沢栄一福沢諭吉の伝記的事実にはおよばぬものとされたのである。

 

 このブログで取り上げてきた冶金文化や、天文・地理の測量、治水などと説話伝承の類型学を、「工匠文化学」と呼称することにする――ポスト・オリエント学であるし、情報文化圏交渉比較環境人文学とも称してきたこの学問は、錬金術や煉丹術、陰陽道などの、近代科学技術の母胎となったさまざまな知識が、かつて神話伝承などの信仰と切り離せなかったものであり、多くの文学の元となった「語り」――芸能祭祀を介し、その聖性が信じられてきたものと考える。

 

 鍛冶師・大工・採鉱師などの「工匠」たちがいなければ、田畑や住まいに水を引くことも、米俵を蓄える倉や牛馬の小屋も作ること能わなかっただろう。それに「火」の管理、「日」の観察も、しかるべき技能者がいなければならない。しかしながら近代の人文学者は、近代社会の科学技術、そして暦日を恃みとして、古代中世の社会の営為を「豊饒」をただ天に祈る「呪術」と抽象化してしまった。あまつさえ植民地の「未開民族」の習俗と比較検討し、「人類学」として拙速な一般化をしてしまったのである。

 ここには模倣の問題もある。人間の意思疎通は完全ではない。工匠が語り伝えてきた文化も、傍から見た者には理解不能であったり、簡単に仕事を真似されないよう符牒や儀式を難解にした結果、後世の人間に誤った解釈をされることもある。偏見をもった、共同体の外からやってくる研究者に正しく伝わることもなおさら稀だろう。

 

 しかし、伝承に用いられた図像や類型の比較を通じて、ある程度の再建を行うことは可能である。元型心理学が「精神」と解したものだったり、言語類型学や図像学が系統立てて説明した成果を援用することは道理にかなっている。

 なぜ、聖徳太子イエス・キリストも馬小屋で生まれたと伝わっているのか。これに騎馬民族や日ユ同祖論をあてはめるのは荒唐無稽である。しかし、多くの大工が聖徳太子を崇拝していたり、イエスキリストにとどまらずグノーシス主義で創造主は建築家と考えられていたことを加味すれば、仏教やキリスト教をつうじシルクロード上で建築技術が共有されていたのではないか、という推測が可能である。

 木を切るにも石を砕くにも、有史以来は金属器なしではやっていけなかっただろうし、正確な方位や季節を合わせて建築を遂行することが求められる。すなわち、こうした職能集団は正確な情報伝達能力によって文化を受け継ぐことが肝要となる。火を知り、日を知り、聖であること――周囲から畏怖されるだけの武力、財力が、崇拝につながったことは想像に難くない。

 

 中世でも陰陽師が治水に動員されたり、修道院で鍛冶が行われていたり、また高野山と水銀の関係、鉱山や大工の守護聖人など、迷信や精神的活動と考えられてきた信仰の人びとと、工匠たちの技術は近いところにある。しかしそれゆえに、職能集団どうしの対立は激しく、またヒエラルキーの問題から、現代にいたる深刻な民族差別などの遠因となってきたことは否めない。

 

 推論が粗雑で(このブログのように)、史料的にふさわしくないものでも、この「工匠文化」の眼鏡を通して観れば、また違った読み方ができる。 ブログの文章をまとめ、順次史料集を制作していきたい。協力者も募集中である。

 

matsunoya.hatenablog.jp

matsunoya.hatenablog.jp

matsunoya.hatenablog.jp

 

 

歴史の夢・ロマン・謎:信用ならない語り手にすぎない、歴史学の直視しがたい現実としての

 歴史に夢とロマンと謎はつきものである。これはいい意味で言っているのではない。プロの研究者でもアマチュアの歴史家でも、知らず知らずのうちに、

●自己投影、アナクロニズム

●勧善懲悪、陰謀史観

●テーマの束縛、専門化

権威主義、タブーの無視

などといった問題を棚上げにして、夢やロマン、謎という虚構で一般読者の関心を惹こうとしてきた。おおよそ社会的な発言力や影響力を得た壮年・中高年になってからでは、学んだ歴史観、そして研究上のインプットとアウトプットを軌道修正するには遅い。

 この弊害は、歴史研究そのものにたいして、研究者とそれ以外の人間のあいだで温度差、認識の隔たりを生んでいる。一般的な認識としては、歴史は大半が退屈な学校教育であり、それと対照的に興味深い娯楽・ファッションとなる時代はごく限られている。

 歴史小説やドラマ、マンガ・アニメやゲームでそれなりに「知っていて」、また奇特なことに歴史教科書で関心をもち、研究したいと考えアカデミズムに踏み入れる人間に突き付けられるのは、膨大な先行研究と学説史などほとんどまとまっていない史料の収集作業である。

 長い研究の道のりの中で圧倒され翻弄されるうちに、テーマは細分化され微視的となり、専門外のプロの歴史研究にはまったくの門外漢である一方、アマチュアの杜撰な史料批判、研究手法の幼稚さにはいら立ち、無視をきめこむようになる。そして、自説の支持を取り付けるため、「夢・ロマン・謎」という糖蜜細工で興味を惹こうとする。それがますます歴史の「全体像」を見えづらくし、「歴史研究は物好きの道楽」という風潮を加速させるものであることを知らずに。

 

●自己投影、アナクロニズム

 限界まで戦う総力戦、伝統的な精神のためなら死をもいとわない「愛国・国粋主義」「ナショナリズム」という19世紀以来の根幹が否定されていらい、歴史はセンセーショナリズムとジャーナリズムの玩び物となってしまった。歴史の視点は、たいていが近代の歴史の主役であった「教養のある近代市民」の裏返しである、「無学で権力に虐げられた民衆」を基としている。この「無学で権力に虐げられた民衆」という他者像がやっかいで、たいていは「教養ある近代市民」たる研究者の顛倒した自己の投影なのである――古代人、未開人、女子供という研究対象、恋愛や感受性、信仰、病理といった非理性的なテーマを解明することは、その研究者の近代的理性の代弁、自己紹介にすぎない。

 インド・ヨーロッパ語族の類似関係は第一次世界大戦の引き金となるドイツとイギリスの対立と表裏一体の「印欧民族」の起源探しであった。アナール派の民衆史・地域史研究は中央の知識人が植民地や地方を統率するきわめて強権的な「近代フランス」という重力ありきで成り立つものであり、ウォーラーステインの近代世界システムは、経済的な覇権国家を自認する(かつての)アメリカの自己紹介、王統譜、王権神授説である。

 言語系統が孤立的で、せいぜい朝鮮・中国が射程範囲の日本古代史学は、研究者のスタンスのいかんにかかわらず、「大日本帝国」の範疇を脱け出ることはないし、南方への関心、世間を騒がせたシルクロード騎馬民族のブームは、太平洋戦争と玉砕、抑留を経験した世代の追憶、慰霊にすぎないのである。

 こうした時代精神が背景にあることを理解しないと、とくに西欧の時流の受け売りに終始する本邦の歴史研究においては、本場で時代遅れになってしまった数十年前の流行を断片的に受容しつづけ、反芻しつづけることとなる。しかも、先に挙げた「他者」、研究対象が、じっさいの歴史上でどう位置付けられていたかということを熟考せず、近現代に創作された概念のもとに囚われてしまう時代錯誤をおこしかねない。

 

●勧善懲悪、陰謀史観

 その最たるものが、物語の「ワク」に歴史を無分別に詰め込んでしまうこれらの歴史観である。虐げられたまつろわぬ民と権力者、という対立は、「全世界的に」ナショナリズムの反動としてもてはやされた感がある。ケルト、魔女、イスラーム神秘主義ヒンドゥー教、サンカ研究……様々な題材がこのメカニズムのもとに消費され、おもに「民族主義」「精神主義」のもと、どこが起源か、だれが歴史を歪曲したのか、という議論に終始している。民族や精神といったアナクロニズムを主語とすると、近代の市民社会においてそれらが勃興する土台となった、産業革命啓蒙思想以前の「社会」のすがたが見えづらくなる。すなわち、農耕文化と金石器文化の連関である。

 どのような風土(空間知)・こよみ(時間知)のもと、人間が往来し(けっして「進歩」「原始人類の移動」という文脈ではない)、治水や灌漑、器物の製作などの分業をおこない、農耕や信仰の渾然一体となった社会をいとなんできたのか――その比較が、民族や精神の障壁によって阻まれている。

 このムーブメントは民族や精神といった概念的なもので示唆されるように、一方向にすすむわけではない。民族対立やイデオロギーの衝突の緩衝地帯では、傭兵や身代金などで簡単に裏切られうるシビアな「境域」の様式が存在し、いわゆる「語り物」、祭祀芸能の世界が生じてはじめて、白黒がつくものである。はじめから「勧善懲悪」「陰謀論」といった語り物の発明品をもとに歴史を解釈しては、人間の営為を理解することは難しい。

 

●テーマの束縛、専門化

 理性・美・精神というのは、虫や動物の擬態や警戒色のように、かつては「境域」で生きる人間の自己防衛のために役立っていた生活様式である。それがいつしか、「伝統」となり、アカデミズムによって研究される「他者」であり、近代精神に排除された反動でたちかえるべき「精神」「民族」という位置づけとなった。大学など学術機関で研究する歴史学徒はよほど緊密に社会を分析しなければ、人間の営為から遊離した精神的・民族的主張におちいることとなる。

 彼らの主張に比べれば、もと新聞記者、もと産業人といった肩書をもつ人間の研究はよほど多様性があり、「地に足のついた」主張である。しかしながら、学術人の研究との同期がうまくいかず、歴史の原動力として前述の勧善懲悪、陰謀史観が再生産されつづける傾向にあるし、もといた産業の常識に特化したピーキー歴史観は散逸しやすく、統合が困難である。自らの意見に絶対的な根拠をつけるため、独自の「言語起源論」をもっている――そのおおくが牽強付会であり、学界からは無視される原因となる。

 

権威主義、タブーの無視

 学閥や学派などの制約は、より安逸な方向へと、人間の知を先鋭化させる。社会的な信用のおける考古学はより古くセンセーショナルな結果を発掘するのが名声や影響力と同義である。他方、オカルト的な「超古代」の研究は、偽書や自国中心主義、捏造などでアカデミズムから嘲笑されるものの、信奉者は数多い。

 これらは別方向の事柄にみえて、問題点は共通している。われわれの多くが、古代と現代をつなぐ、中世や近世のテクストや口頭の説話伝承の意義が無視し、古代、もしくは有史以前という原点と、近現代という結果を短絡させて歴史を把握しているのだ。そのさい援用されるのが、先ほども述べたように「精神」や「民族」の発展史として、不可逆的な進歩主義を遺跡なり史料に当てはめるやり口なのである。

 たしかに遺跡や遺物として出土したモノはアルカイックで過渡的な様相を呈している。しかしながら、本来ならばそれが放棄されるまでの「極相」を示しているはずなのである。そして偽書は、正史の剽窃であったり、現代人からは常識外れの荒唐無稽な世界観である。古代に書かれたと称して、近代に編纂されたものも数多い。それでも、それが人びとの間でなんらかの事実を証する「語り」として通用していた、「意義」を考えるのが研究者の責務なのである。これも言ってみれば、神仏習合が放棄される前までの「極相」を示していた史料なのである。

 たとえば、「太子伝説」がある。京都の太秦・伏見、大阪の四天王寺、宝塚の中山寺、生駒・葛城の山陵地帯など「物部氏伝承」が残る地に、磐座や舞台建築などとともに聖徳太子古史古伝が残っている。この伝説群を、支配者である王権が先住民を虐げていた事跡とするとき、「境域」的思考は失われ、さらに古代から現代まで説話伝承を担ってきたが、蔑視をうけやすい舞楽などの「祭祀芸能」や「冶金文化」などのタブーを看過した精神史、民族史が出来上がることとなる。じっさいのところはどうなのだろうか。個人的には、農耕の前段階の天地の観測や治水灌漑技術、冶金文化に付随していたミトラス的な伝承が、ときの支配者のすがたを借りて顕われているものだと考えている(ここで「ミトラス的」とするのは、ペルシアやローマの「ミトラス」とは、冬至春分などの太陽を観測する技術としては同源かもしれないが直接的な文化の影響をおしはかるのはナンセンスだと考えるからである)

 こうした問題点を熟考することを放棄し、「トンデモ理論だ」とあざ笑い、非難することはたやすい。点つなぎのように遺跡や遺物、史料をならべ、日本国民の精神史、民族史とカバーを付けて売るほうが楽で実入りもいいのだ。「ビジネスで差をつける」「成功者、ヨーロッパのエリートはみんな学んでいる」という集団心理をくすぐるキャッチフレーズを付けたらもっと売れることだろう。

 

 しかしそうした商業的成功があっても、長期的にみれば、歴史学がマイナーな分野で、文系学問の削減に抗えない脆弱なスタミナしかもたない現状を克服することはできない。もてはやされる統計やAIなどの最先端技術のように、歴史学が社会の維持に益するビッグデータ編集術のように、現代社会への適応を遂げるには程遠い。もう、ヨーロッパが進めてきたような「人間中心主義の克服、環境と技術の調和」という依然ルネサンス以来の人間対自然の影響下にあるような次元ではないのである。

 人間が自然のなかで、どう異化されて(=活かされて)きたのか、という情報の集積が、歴史なのだ。それを知らずに、SNSをいじくり回し、ほんの小さな常識、狭い人間関係の中に生き、その無知のままに住環境の悪化著しい都市を大量生産するような愚は自省されなければならない。これらを克服するのが、人文学の復権の最大の目標である。

人文探しの旅:大阪・奈良

 かねてより人文探しの旅をしてみたかった。自分探しではなく、古本集めと古代史のフィールドワークを兼ね、国内を回り、現代の地域振興に役立つ情報を収集するれっきとしたプロジェクトである。

 

一日目

 

 出発は大阪の天王寺。そこから阿倍野を下り、南田辺の古書店「黒崎書店」を目指す。目当てはインドと中国の天文知識の交点、「宿曜」の本である。また、一帯は太子信仰や物部氏安倍晴明にゆかりの深い地域である。太子の手下が大蛇を斬り殺した桃ヶ池(股ヶ池)など、

 

 目当ての古書を確保したあと、八日えびすで知られるという山阪神社に詣でた。そこから針中野まで歩き、近鉄柏原市まで向かう。手始めに石神社や弘法水を見て回る。高尾山山麓に沿って旧跡が点在しており、神社は冷涼な雰囲気に包まれている。トンボとたわわに実る特産のワイン用のブドウが、すっかり秋を感じさせた。

 

 夏に古市古墳群と道明寺天満宮を見に行ったさい、時間がなく断念した場所がある。智識寺跡と鐸比古鐸比売神社だ。前者は聖武天皇が参詣し大仏建立を思い立ったという毘盧遮那仏をかつて有していた。後者は和気氏の先祖鐸石別命を祀っていたといわれ、高尾山の頂上に巨大な磐座、その周囲に古墳群を擁する一大遺跡である。雁多尾畑など著名な産鉄地・製鉄遺跡も近い。

 

 参道から高尾山の頂に磐座が見えて、おもわず快哉を叫びたくなった。石・鉄・水源はこの大阪南部から奈良中部の古代を巡る旅の鍵となる。天文や地理の観測の目印のために磐座が作られ、冷涼な風や水を利用して死者を葬る山陵が造営された。おそらくここには長江からインド廻りの仏教や道教の知識と、シルクロードやステップから黄河流域に通じる埋葬・シャーマニズムの双方が作用しているように思われる。

 

 古代において木石や金属という資源を確保し、観測や加工などのいろいろな設備を保持するには、「死者の祭祀」という名目がなければすぐに散逸してしまったのだろう。専門家はとかくビジュアライズされたものに目移りし、文字以前の文化を軽視する傾向にある。なかでも神仏と王権の結びつきおよびその奇瑞は、科学啓蒙思想においては荒唐無稽なものとして解釈される。

 

 神話や説話群は「実在した王や民衆」の政争なり抗争として合理化されるが、そこにかつて存続していたであろう天文や地理風土、そして冶金などの「職能民文化」の知識の痕跡は無視される傾向にある。完全に官人の作為や虚構の説話伝承が数百年、数千年も知識人の書写で維持されると考えていては甘い。実体は半聖半俗の修験や陰陽師が神楽や声聞などの芸能を介し、職工民と王権を結び付けていたのだと思う。

 

 そこから香芝を経由し、志都美に泊まった。

 

二日目

 二日目は二上神社に参ろうと考えていたが、手違いで五位堂で降りてしまったため、そこから當麻寺まで歩いて向かうことにした。一帯は二上山を借景に水田がどこまでも広がっており、モータリゼーションと狭い歩道で歩きにくい中をかき分けて進んでいく。

 道ばたには、「往生要集」を表した恵心僧都源信)の生誕地や、古墳の蓋石を用いた「阿弥陀橋」の遺構があった。想定外の収穫である。聖徳太子の弟麿子親王が建てたと伝えられた當麻寺も、いまは真言密教と浄土宗が同居した状態となっている。本尊は当麻マンダラと来迎阿弥陀。本堂には役小角像や中将姫の像もあった。

 

 とりわけ目を引くのは壇や鐘楼に用いられた朱の鮮やかさである。日本最古の銅鐘や石灯篭、奥の院展示の鉄仏や銅の打出仏から、技術の伝播の経路を感じずにはいられない。奥の院が浄土宗を奉じているのも、さまざまな受難を経た女人の参詣を許した中将姫伝説というのも、もとはミトラとかアナーヒター女神が下敷きにあったのではないか、と勘繰らずにはおられないのである。庭園には倶利伽羅竜王が祀られているし、とくに灯篭というのは、火袋に日月を配しており、一種の竜を模した石造物である(伊勢の暦には目が日月の、ウロボロスのような竜が本州を囲む図像が用いられていた)。

 西洋においては昇交点、東洋においては春の木気の象徴である龍は、冶金文化では秋冬の季節風による製鉄の終わりを告げる象徴であったのではないかと思う。それだけに、農民には洪水や台風、日照りなどの災害と同等に畏怖され、水神として祀られたのだろう。夜通し風雨が吹くほど「富貴」になった職能民と、太陽と収穫が待ち遠しい農耕民の価値観の対立に、現代にまで問題となる差別の根源があるように思う。それでも、治水や城塞の建設、農具や穀物のやり取りなど、ギブアンドテイクを成り立たせながら、社会生活を営んでいたのである。

 

艶めきて 蓮葉(はちすば)身をく 蝉しぐれ

 

當麻寺 仁王は蜂の みつを知り

 

 次いで、大和高田市竜王宮を拝観し、街並みを見て歩く。和銅の時代に建立され、長谷寺と本尊が同霊であるといわれる「元長谷寺」などを見て回った。そこから、田原本に向かったのだが、笠縫で途中下車。太安万侶の故地といわれる多神社へむかって歩き出した。

 お社まで1.5キロもあるらしく、往復に苦戦した。ここも見渡す限りの水田で、トンボが乱れ飛んでいる。用水路の水面には、食用として輸入されたが失敗し、今では稲を食い荒らす外来生物である、ジャンボタニシラズベリーのような卵が浮かんでいた。

 肝心の神社は、古事記1300年のときに作られた石碑がたたずむ、閑散とした神社であった。かといって荒れ果てているというのではなく、鎮守の森に囲まれ、後方に神武塚と呼ばれる鬱蒼とした木立が控えた、風格のある神社だ。弟に皇位をゆずった神武天皇の長子神八井耳が祀られており、末子相続や農耕起源神話との関係を考えさせられる。付近の多氏観音堂神仏習合時代の名残で、白飯を腹いっぱい食べる仏事が行われているという。農民の一年一度の贅沢とされていたが、修験の神事にも似たようなものが見られるため、なにかの予祝儀礼なのであろう。

 

 笠縫駅まで戻ると、もうすっかり日が傾いている。そこは「秦庄」と呼ばれる一帯で、秦という表札が多くみられる。秦楽寺という寺があり、聖徳太子秦河勝が祀られていた。秦の楽人の寺という意味らしく、中国ふうの山門と、大きな池が特色の寺だ。大和の円満井座や金春屋敷があったとされる猿楽の故地であり、近くには世阿弥が禅を学んだ寺もある。太秦や宇治、伏見稲荷一帯といい、京都には秦氏の痕跡が多いが、大阪の寝屋川太秦四天王寺舞楽をはじめ、奈良でも長谷寺やここ秦庄などに名前が残っている。多氏の本拠とほど近い所に秦氏が存在した、というのもかなり意味深い。

 

 とくにこの周辺は庚申の石碑が目に付いた。太子伝説や舞楽、猿楽の影に、神仙思想が関係しているとも考えられるし、神仙思想と鍛冶のかかわりが気になる所である。上流には鏡作神社や唐子鍵遺跡があった。稗田阿礼ももしかしたら秦(ハダ)氏の鉄(アラ)を扱う工匠だったのかもしれない。

 

 そこからも数軒古本屋を回り、とっぷり暮れたなかを王寺まで移動。

 

三日目

 

 三日目はこの度の目的地である達磨寺へ最初に向かった。片岡の飢人伝説がいつの間に脚色され、ダルマと聖徳太子の邂逅となってしまったいわれを持つ。境内には三基の古墳があり、舎利を収めた仏塔や香炉を収めた備前の甕が出土。古来より崇敬を集めていたことがわかる。

 本堂には、見事な聖徳太子とダルマ、千手観音像のほか、白隠のダルマ図や最古級の涅槃図など、見どころがたくさんあった。とくに涅槃図は、後年のパターン化された動物や諸天がわちゃっと描かれているものではなく、仏弟子と涅槃だけを描いたシンプルな名品である。

 

 そこから道に迷いながら、久度神社にたどりつく。京都の平野神社にも祀られている竃の神が祭神で、蛇行する大和川葛下川の中州に位置し、信貴山や高尾山のふもとにある古社である。平野神社もそうであるが、竃の神は都城の西北に座し、愛宕山からの雷による火事や風雨から竃の火を守る役目を負っていた。こんもりとそびえる久度神社の森からは、片岡と並んでこの場所が火事や風雨からの災害の防壁となっていたのではないか、と想像した。

 

 多聞橋を渡って、竜田大社に。風の神という通り、道中から涼やかな風が舞う。ここも製鉄との関連が唱えられている。古代の鉄滓が見つかった雁多尾畑が近くにあったのだが、連日の歩きに疲れ見逃してしまった。信貴山にも行ってみたかったのだが、坂を転げるように、三郷駅にたどり着いた。

 

 いくつかJRを乗り継いで、天理市まで足をのばした。天理教で栄えている商店街には奈良のフジケイ堂の支店があり、どうしても行っておきたかった。そして少し足をのばして、石上神宮に参拝する。2、3年ぶりだろうか。ひんやりとした心地よい緑に、放し飼いにされている鶏の鳴く声が時折聞こえてくる。

 道すがらに僧正遍昭の良峯氏ゆかりの良因寺があることを初めて知った。山の辺の道にはほかにも在原神社や和爾下神社など、奈良から平安にかけて歌道に活躍した氏族の寺跡が多い。「歌」が「転(うたた)」など、崩落しやすい土地に関連するばかりではないだろう。古道を修復し、治水が可能な豪族が、都城の建設に駆り出され、貴族として定着していったさまがうかがえる。

 

 そして京終で降りて鎮宅霊符神社に詣でて、京都に帰った。

歴史地理、物質民俗、音・光・香り……史学の新視点

 これまでわたしは、「農耕社会の成立史」のように編集されてきた伝統的な史学から、鍛冶や鉱山師などの職人の歴史を抽出し、水銀朱や鉱石、岩石の加工と特有の信仰とのむすびつきを考えてきた。

 

 「農耕社会の成立史」であるところの、理性や精神の発達史観からすると、農耕にむすびつく食欲や性欲などの直接な欲望の充足から「ほど遠い」、いわば余分なこれらにまつわる説話伝承は、脈絡を追うことは困難であり、単なる迷信や虚構、想像力と解釈されている事例が少なくない。さらに産業革命による機械化・都市化も手伝い、多くの人の手がかかっていた職人仕事や鉱山労働、土木治水工事などの意義が変化し、農耕や日常の市民生活から分離した。

 劣悪な環境下の作業かつ金がかかるものであり、学者の世界とは対照的な、忌避すべき浪費、無知無教養、タブーのようになってしまったことも、これらが古代中世にどのような姿であったかを窺いづらくさせている。そしてその基盤となった信仰のかずかず、職人たちを守る守護聖人崇拝や寺社縁起、天文への信仰、およびこれらが変化した占術や呪術、秘密結社や講などの人文学研究とそうした社会史研究が隔絶されてしまっている。

 

 しかし本来は、農耕集落をつくるために不可欠な石器や鉄器、土器から、こよみの設定、灌漑設備や適切な都市計画にいたるまで、天体観察や地理の測量をもとにした精緻な計画性がもとめられたはずである。一部の愛好家しか星空を見上げず、コンクリートで固められた河川が腐臭を放ち、地図の上に定規を引いて土地を区画するようなちぐはぐな状況は、近代以降の風潮であると信じたい。

 このメソッドを伝授するために、祭りがあり、説話伝承があり、どんなひどいこじつけであっても子どものときから語り伝えられることでそれは一定の効力を有してきた。近代の学校教育はこれを否定し、現代では「子どもの純粋な想像力をはぐくむ」という建前で完全に大人の世界から隔離してしまっている。震災時に高台の神社に逃げて助かった、という教訓は現代のオカルトやスピリチュアルと隣り合わせであり、たとえば土木治水に陰陽師が動員された史実と結びつけて考えられることは少ない。

 

 フランスのアナール学派は、それまで埋もれていた中世史や地域史、音やにおいなどの感覚についての歴史をメインストリームにまで盛り上げた。しかしその民衆史の視点は、近現代のフランス――政教分離やエリート主義で、「未開の」旧植民地や南フランスを締め上げてきた、昨今の移民問題や宗教テロリズムで反省が促されてきたフランスを、中世の「フランク王国」に当てはめているだけにすぎないのではないか、と疑問に思うのだ。日本でもジャーナリスト的な興味本位の政治史を、古代中世に投影する視点が存在する。

 「精神」や「欲望」という内面の理由付けに固執しすぎると、かならず進歩史観や序列づけなど、現代人の賢しらな視点が邪魔をすることとなる。ことに信仰などの民俗の研究には、中世人の持っていた知識、技術への無知を棚に上げて、「素朴な感性」と一括りにしてしまう一種のノスタルジーがあることは、日本や東洋にまつわる研究でも気を付けなければならない。

 

 「風水」という古来の技術がある。住居、都市の選定から陵墓の造営まで、東アジアで広く信ぜられてきた一手法である。三方を山に囲まれたところに代々の陵墓を営み、東西の山河に挟まれたところを都市とするという考えは、道教などと並び、素朴な地母神の母胎回帰願望として考えられることが多い。

 それはそれで文献的な証拠もある。しかしこれらの経験知は、実際に人が住み、皇帝たちを神としてまつるうえで必要な条件というのも内包していたはずである。高温多湿下で死体を腐敗させずに風化させるには、風向きや地下水、洞窟などの冷涼な環境を作り出す必要がある。都市生活を営む上では、舟運や農業を支える大河、鉱石や石材、木材を採掘・加工できて、天然の要害となり、星とともに目印となる山が必須である。

 しかしながら、これらはメリットだけではなく、相応のデメリットも存在する。洪水や山崩れの災害ばかりでなく、川や水路のとどろき、山の木々のさざめきは、たとえば現代のホワイトノイズやピンクノイズのように、永続的に聴き続けたら健康被害や精神的な被害をもたらしたかもしれない(これらのノイズを「胎内」と結びつける考えは、いわば先祖返りともいえる)。貴族の邸宅や別荘が寺社と化したり、巡礼地や聖域が悪所に営まれたのは、こうした定住上の不利を、いかに利益に転換するかという実際的な知恵だったのだろう。地鎮祭や、中世神話などでよくみられる地主神からの土地の寄進という説話として語り継がれることによって、集落の住民のパニック、不安を鎮める役割も果たした。

 

 たとえ文献に明記されていないとはいえ、神話や説話の伝承学は、精神や心性に固執するばかりでなく、その風土が持つ特性を理解して、なぜ同内容の伝承が各地に伝播しているのかを検証する必要がある。また、マンガやアニメに引用され、陳腐化してしまったようなイメージ先行の歴史を転換するきっかけとしたい。

「蝦夷」、境域の民たち:西国との交易・文化的関係をかんがえる

 蝦夷の歴史は「境域」の歴史と捉えるべきと思う。

 

 明治以降の古代東国史研究は、蝦夷対和人という民族対立、支配や隷属という階級対立の歴史として考えられてきた。それは江戸時代から続くアイヌとの交易だったり、北海道の入植という内政問題とも密接にかかわってきたし、コロポックル論争などから端を発する先住民問題にも入り組んでいる。そのほかにも縄文人弥生人というよく知られた類型や、東北以西のアイヌ語地名説、マタギなどの狩猟文化など、学界の定説、俗説を問わず近代の蝦夷観が波及した例は枚挙に暇がない。

 そして多くの説が、アイヌ蝦夷縄文人、和人=渡来人=弥生人のような図式を当てはめ、北海道や東北の文明化や近代化という近代日本国家(と一部のキリスト教宣教師)の使命をそこに重ね合わせてしまっている。ここにはヨーロッパにおいてケルトエトルリア、ゲルマンの文化が被った国粋主義プロパガンダに似たものがある。ことに日本語とアイヌ語の関係や先住民などのアイデンティティにかんしては、今なおナイーヴな論点を孕んでいるために、おそらくコンセンサスを得ることは難しいだろう。儒教的な蛮人観や、ナショナリズムが推し進めた「肉食禁止」などの均質的な日本文化観が、いまだに根深い溝を残していると言わざるを得ない。

 

 しかし、こうした古代史の伝承にかんしては、坂上田村麻呂阿弖流為、あるいは中世の悪路王や長髄彦、安日彦、高丸などの伝説が、寺社縁起や猿楽や口碑などを通じていかに人口に膾炙していたかを勘案しないと、この問題の射程を見誤ることとなる。さらに近隣の交易関係――すでに開かれていたペルシアや唐とのシルクロードや、インドや長江流域、朝鮮との海路などのマクロの視点なしに、原始的狩猟民対農耕民のローカルな争いのように捉えてはならないと思う。

 交易路上に生じた紛争が、いかに解決され、説話などの語り物として伝えられていったのかという、近年のスペイン・レコンキスタ研究のような視点が必要となるだろう。「征服」の語りを欲していたのは、京都や南都の官僚や聖職者の思惑ばかりでない。その時々に立場を変えざるを得なかった境域上の民にこそ、生きる根拠となる起源譚が求められていた。一方的に虐げられていたものへの判官びいきというペシミズムではなくして、利害の合致を追求する探り合いとして、これらの説話を考えてみたい。

 

 神武天皇崇神天皇といった征服者の近辺には、久米氏・安倍氏物部氏和邇氏・大伴氏・中臣氏などの氏族が、長髄彦や土蜘蛛という「先住民」とは峻別された形で現れる。生駒や東大阪、南大阪や橿原一帯にゆかりの古寺社が多数存在するところから推し量るに、古代から活発な定住・交易がおこなわれていたのだろう。しかしながら、後世の史書なりに記録されたように、のちの外国人街のように明確に街区化されそれが「渡来人対先住民」のように明確にイデオロギーとなっていたかは実のところわからない。

 あるとすれば、その時々の紛争に応じて、有力者のもとに兵力や技術者たちが結集して戦闘が行われていたのだと思う。話される言語も、近代のように日本語やアイヌ語という明確な区別を持たないクレオールが話されていて、信仰ものちの道教シャーマニズム神道に分化する前の未分化なものだったのであろう。しかしそれは単なる迷信でなく、磐座や石神、星や大木などを、測地や治水、交通やこよみに利用するものだったと考えられる。熊(久米氏に関係か)や狐(安倍氏に顕著)は、中国の神話群とも相通ずる神獣である。熊皮を身に着けた方相氏や北斗七星(熊とサマユンクルを北斗七星に結びつけるアイヌの説話が存在するという。また方相氏の四つの眼は、北斗の枡の四つ星ではないか)、伯夷と叔斉などの山岳信仰などを同源とする考えがあると思う。また、物部の遺臣であった捕鳥部萬は彼の頭骨を咥えて離さなかった白犬とともに葬られたが、白犬は狼を思わせる。

 

 難波の四天王寺周辺にもその痕跡は残っている。安倍氏の拠点とされる阿倍野物部氏の本拠であった荒陵は、住之江の港に隣接していた。荒陵は茶臼山の古墳であり、一帯は中世、また近代にいたるまで、病人、貧者、放浪者といったアウトサイダーたちの宿所であったといわれる。異人を受け入れ、ケガレを払う場であり、舞楽秦河勝を始祖とする四天王寺舞楽)や歌謡(住吉の神は歌道の神とされる)、そして航海や渡河に必須である天文などの知識が行き交ったのであろう。この要衝を本拠とし、さまざまな祭祀で境界を清める役割をも果たしていた武士集団、源融を祖とする渡辺氏と蝦夷の一派とされた渡党の関係が気になるところである。源融は塩釜の浦を居宅に再現する風流で知られたが、神仙に傾倒した道者の側面もあったという。

 

 阿倍仲麻呂安倍晴明を出した安倍氏大彦命を祖とする。いっぽう東北の安倍氏、安藤氏は中世、長髄彦や安日彦の子孫と称した。しかしながら両者には異形の鬼神のイメージが共通している。吉備大臣入唐絵巻は、鬼と化した阿倍仲麻呂吉備真備を助ける物語で著名であるが、それは阿倍野での安倍晴明の誕生の前日譚であった。この二つの安倍の存在にくわえ、各地に残る晴明(清明)塚や阿部山の伝承には、陰陽師とよばれる人びとのなかに、土木治水の人足や巫覡の徒として動員される豪族としての安倍氏と、中央官僚として、総括し測量や天文を指導する立場にあった安倍氏の二重構造があったことを思わせる。

 その他の氏族にもこれに類する観念を当てはめたい(のちの賜姓皇族と武士たちの「党」の関係はこれに類すると思う。中央から政治的に排斥されても、地方の豪族との関係により土着化していったのだろう)。安倍氏はape(火)から来ると田中勝也氏はみずからの蝦夷論の中でのべた。さらに記紀に通底する道教的思想に沿えば、大伴はtom(輝く=金?家持は陸奥の金鉱発見を祝う歌を出しているし、佐伯とサヒ=鉄、鋤の関係を推したい)和気はwakka(水、水気の象徴である猪と縁が深い)、和邇はni(木、木地師ゆかりの小野氏や柿本氏を輩出)そして中臣は土気をもって五行を循環させる役割を担ったとこじつけることができる。

 

 と、ここまで書いて、荒唐無稽ともいうべき説を長々と書き連ねてしまった自らの不勉強を恥じる次第である。しかしながら、平安京や南都の官人の権謀ありきで語られてきた蝦夷との交渉史を、東国の古代だけではなく、たとえば吉備や播磨や難波などといった交易拠点を見据えて広域的に考えると、中世の東アジア交易を担った海洋民アイヌとのミッシング・リンクをおのずと埋めることができるように思う。

説話研究の意義

 説話の研究は、じつに多面的な意義をもっている。

 

 まず一つは、言語の構造の研究である。これまでの言語研究では自立して成立しうるかのような、文法的な側面がクローズ・アップされてきたが、言語は人と人とのあいだにはたらきかけ、あるいは生と死のあいだを仲立ちするものであるべきであり、その内容物たる物語のおよぼす影響は社会において計り知れないものである。

 たとえば時制の標示やものごとの位置関係、数などの順序といった文法的な表現は、言語学者の考えている以上にひとを拘束する。こうした構造への考察を純粋に突き詰めていった結果が「法学」なり「数学」といった解釈の手立てへと結実している。善悪などそこでもなお解決できない問題は、神話や教義といった形で集約が行われ、信仰という生と死のあいだの日々の繰り返しにおいて適宜参照されることとなる。

 近代は「精神」というかたちで教育などにより再現可能な「型」を作り上げ、その模倣の巧拙が社会的なヒエラルキーになるような社会を無意識に(つまり、これまでの古代や中世の教養、大衆や地域の民俗を継承、集約して)作り上げた。しかしながら、「型」を重視するあまり、もととなる物語や説話の言語的な問題を捨象し、「型」の蒐集と一般化に拘泥してしまう傾向にあった。たとえばすすんだ科学精神の対極、「迷信」という型に合わせて、前時代的な呪術や占術がコレクションされ、いわば偏見と好奇の眼に晒されるのである。対象内や対象間にあるはずの時間の流れや社会的関係は「迷信」と指示されることを契機に遮断され、思考停止されてしまう。

 もちろん、近現代の科学と教養的民俗的な信仰のあいだに「同質性」「均質性」をもとめすぎるのは早計である。それでも、両者は記号や物語をひとまとまりにした言語を介して文化として伝わるものであり、たとえどのような細分化をきわめた研究であっても、言語の構造をぬきにしては至極まとまりを欠いた結論となる。

 

 二つ目に、説話は実際の社会的な行為を「模倣する」ことを促すところに、その眼目がある。言語文化は知として蓄積され、その時々に応じて参照される。かつて信仰がもっていた、場所・時季・社会的地位によって著しく限定された知を「いつでも・どこでも」開放するところに、近代科学の功績はあった。ただし、機械や競争により環境や社会的関係に強い負荷がかかるものであったし、「いつでも・どこでも」の基準に反するふるまいには厳しい制裁・差別がともなった。この「いつでも・どこでも」の判断を下すこととなったのが、これまで伝統に権威をもたらしてきた「王権」にとってかわる、文壇やマスメディアの「公共圏」による説話の大量生産であった。

 これまで庇護を受ける側であった商工業者たちが社会的に台頭してきたことは、旧弊の信仰や王の権威に変質をもたらすこととなった。「民衆」の支持という正統性、「科学」に適合するかという正当性のない論理は容赦なく退けられ、さらに地域をまたぎ、歴史をさかのぼって判断が行われることとなる。勧善懲悪の「かたり」の流行は、アカデミックであるなしを問わずヒーローとしての王と臣民の関係、アンチヒーローとしてのアウトローの家父長的な子弟関係と軌を一にして爆発的に広まることとなった。教養や民俗を巻き込んだ、この価値体系の逆流・混線は歴史研究において宿痾となっている。

 

 さいごに、近現代的な価値や技術の広まりによって失われつつある断片的な知識を、次代に伝承していくことに、現代の使命がある。産業革命以前の、「農耕」や「鍛冶」の社会的関係は、いわば近代的な「農業」「工業」「商業」によって攪乱されている、と言わざるを得ない。王権の正統性や都市民の帰農という政治的プロパガンダや歴史的レトリックに彩られた「牧歌」や「農耕詩」を、純粋な牧人や農民の知恵として受け取ることはできない。しかし、これらが文語ラテン語の教養とされることで、農業本位の経済や歴史が作り出され、そのカウンター・カルチャーとして工業・商業本位の資本主義経済と科学的歴史観が積み重ねられてきた。この解釈にならい、または儒教や仏教のバイアスを正当に評価せぬまま、万葉集古事記などが読み解かれ、現在との連関において歴史化されている。

 これらの文字化された言語の「歴史」と、おそらく口承でつたえられただろう説話の「歴史」のあいだには、大きな隔たりを抱えたまま散逸の危機が存在する。後者は伝承者の減少による時間的な限界と、文字化へのコンプレックスによる歪曲により「偽史」として不当な扱いを受け、前者は細分化されることでその存在意義を見失っている。

 ここで、古人がただ漫然と天変地異を惧れ天象を崇拝し、古墳のありかを王や英雄の事績とともに伝えたのか、あるいは死後の世界を船による航海や死者への裁き、刑罰としての責め苛みにたとえたのかを今一度再考する必要がある。これらは死後への不安や安心ばかりではなく、後生に守り伝えるべき事柄を死に借りて表現したものではないか。

 都や墓地の選定に伴う測量や天文観察の技術、そして信仰をあらわす装飾美術や占術、呪術は、社会的なヒエラルキー外の、畏怖すべき鉱山師や鍛冶師、定住にも不可欠な土木治水の知識と不可分である。ゆえにタブー視され、差別され、近現代には農耕や狩猟に付随した迷信として軽視されてきた。さらに、これらは海を隔てた「同質性(グローバル性)」と、その地域・時代ごとのローカライズを勘案しながら研究を進めなければならない。

 

 神話や説話のこうした裏付けをとらなければ、人文学が他に資する学問たることは永劫なく、たとえば一都市だけが豊かになるような観光政策、一産業だけが富み栄えて将来への投資がおこなわれない社会構造、出身集団の利得優先で配分が行われる政治などを根本的に転換できるような総合的な学知をもった人間を得ることなどもってのほかであろう。

研究、あるいは広げすぎた大風呂敷

 雑多な分野に手を広げすぎたせいで、研究の全体像がぼやけてしまっている。

 

 はじめは井本英一が記録したオリエントやヨーロッパのさまざまな伝承と、吉野裕子がまとめた陰陽五行説による農耕儀礼の比較検討が目的であった。犬をいけにえにしたり、死者の使いとして忌み畏れる風習はよく似たものがあるが、その土地を支配する道教陰陽道であったり、ゾロアスター教にあわせて、また言語によるこじつけもあり解釈が異なっている。これらにおそらく共通したのは、天文知識による季節と気候の把握が、「呪術」として幾何学化、法則化されることで、一種の「精神」と呼ばれる解釈の体系のことなりを生み出してきた、という仮説をたてた。災害や兵乱への恐れが、地の境界となり、やがて知の境界を作り出してきたのだ。

 

 そのうちに、佐藤任のインドの錬金術や、若尾五雄の鉱山や鍛冶伝承との出会いがあった。柳田国男折口信夫の「農耕社会」よりの民俗学に異を唱えた若尾の論考は、畿内や中国、九州をテリトリーとした鍛冶集団や土木集団の、神仏の信仰が根付いた知の拡がりを示唆している。銅の精錬や水銀アマルガム鍍金による奈良の大仏造営が、彼らの政治的な影響力を強めたことは言うまでもない。

 しかしそれは、度重なる政変と道鏡の専横、桓武天皇平安京遷都を境に、いわばバブルのような危機をもたらすことになった。空海による密教の伝来、水銀を用いた霊薬の知識(を模倣する祭祀儀礼)が、こうした集団に歓迎されたのは間違いない。長い年月をかけて、太子信仰、大師信仰として、あるいは地主神が神仏にその土地をゆずる中世神話として醸成されていくこととなる。神自体が出家してしまった八幡神は、武士の崇敬を集めることとなった。

 

 古よりご神体とされた山々や墳墓に沿って神仏が鎮座し、そこに巡礼路が開けてくる。農耕民ばかりでなく、商工業者も通過儀礼として、自集団の存在を神仏と関連付ける必要があった。西欧の聖人崇敬や修道会が、農耕歳時ばかりでなくケルトギリシア・ローマ、オリエントから金工技術を守り伝えていたように、神仏習合もまた採鉱や鍛冶と不可分であった。金工を事としたベネディクト修道士テオフィルスや鍛冶師が罪人を責めさいなむ地獄を語り継いだベネディクト修道士マルクス、シトー修道士ヘンリクスとよく似た世界がそこに展開している。

 「かたり」という芸能へと変化しつつあった高野聖陰陽師神職たちの信仰世界は、地獄や不具者の苦しみ、戦や恋愛の欲望をうたう物語、そして歌と切り離せない。「うた」を解釈し語り継ぐことは、季節の変化やそれにともなう幽玄な景観をかたりとどめることでもあった。死や禍災といった異界と隣り合わせの、「境界」に位置するこれらのことばは、土木や冶金を事とし、恐れられたノマドの民とともに記憶される。その異形性は、西行柿本人麻呂和泉式部にしばし仮託された。

 

 そのバックに位置する神話の知、および道教や西洋神秘主義にみられる昇天、昇仙などの類型は、やはり天文学や土地の造成、測量とリンクしている。漁民の用いる「山アテ」や、風水で唱えられる陵墓選定のための「堪輿」、そして十二星座や二十八宿、歳陰の動きをもとにした十二支などの伝承は、科学的な測定のなされた暦法にもはや疑いをもたない近現代においては占術や呪術という余興に捉えられているが、以前は天文観察のための切実な技術であった。

 星を偉大な祖霊になぞらえ、またその真下に墳墓として先祖を埋葬する(と信じる)ことは、王権の成立基盤であるといっても過言ではない(またへそ石や陰陽石といった境界を通じ、大地の胎内に宿ることは、穀霊や山霊として再生し子孫に恵みをもたらすことに必要であった)。源平藤橘などの出自を重んずる氏神氏寺への巡礼や、あるいは西欧のヒラムや親方ジャックなどを奉ずる密儀は、また物部(もののふ)や修験道者に近い存在であった武士や流浪の職人たちに結束や安定をもたらす儀礼であった。

 

 産業革命による機械化がすすみ、身分秩序からの解放がうたわれた近代以降は、これらの崇拝は消費社会によって失われた精神の復興、国民や民族への再編過程として解釈が行われた。多くがあらたに文字化されより幅広い人間に共有されたという点では、目覚ましい成果だったといえるかもしれない。しかし極度に細分化された学問と、科学と精神の深刻な「乖離」は、世界大戦を引き起こし、今なお人文学や宗教のサブカルチャーへの落魄という新たな火種を生んでいる。過度な神秘主義ではない、また現代を批評できない科学万能主義でもない、かつて1000年以上維持されてきた社会の見直しとしての人文学へのアプローチを、研究を通じて行っているつもりである。

 

 そして、たぶんこんな感じの書物が出来上がる予定である。

 

■「唯劇論」
 ○テーマ、生と死のあいだに
 ○他者の修辞学
 ○トリックスターの表象/投影される権力の起源
 ○区切りとしての起源譚/引用しあう説話群
  アレクサンドロス大王と説話群の攪乱
  オリエント・ヘレニズム・インド・シルクロード
 ○公共圏、精神、文学の「かたり」と看過される「境域」
  マクロな歴史とミクロな歴史
■古墳と古代中世技術史
●土木治水にたいする人びとの畏怖
 ○境界と鬼、悪魔
 ○神仙思想・陰陽五行の影響
  牛頭天王と宿曜
  ケルヌンノス
  黄道十二宮・月宿・十二支
  要衝としての播磨
●技術継承の場と巡礼・秘儀
 ○猿楽・狂言と中世神話
 ○天文学と冶金文化……盲目と邪視
 ○聖域と祝祭……日常の淵源としての生の浪費
  源平藤橘と親方ジャック
  詩における欲望の表象と巫覡……興
  歌謡と呪術
  軍記語りと穀霊
  半月・半年ごとに繰り返すこよみ
  冬至夏至春分秋分
  上社・下社の対応(附・山アテ、堪輿
  六角と八角
 ○煉獄にかんする一考察……後景の鍛冶・硫黄
 ○技術の維持のための信仰・占術・呪術
●冶金伝承
 ○石…凝灰岩と花崗岩
 ○水銀朱とアマルガム(鉛)
 ○ブロンズ(錫)
 ○鉄(チタン・マンガン
 ○金・銀