マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

「ひと・もよう学」巻頭言――2024年、若尾民俗学の継承

今をさかのぼること30年前、ある老人が大阪・岸和田でその生涯を終えた。

 

もと産婦人科医。生涯を懸けて「物質民俗学」なる学問をとなえ、岸和田の史跡研究から発展した「松浦佐用姫伝説は土木工事伝承」「鬼・修験は産鉄民」「河童は渦巻である」などの主張をみずから発行するミニコミ誌で発表し続けた。まだ鉱山業を知る人物が日本列島に点在した昭和30年~40年代、ときには所属する医師会の旅行に便乗するなど、フィールドワークを綿密に重ねていた。其の説は(偏屈な彼の気性もあってか)はじめ首肯する人物は多くなく、少しでも興味を示した人間には彼の質問攻めに遭い、そのミニコミ誌――『和泉民俗』『泉州情報』が毎日のように送り付けられたという。

 

30年の時が過ぎた80年代後半ごろから、心酔者の出版社社長・芝正夫がかれの学説を編集し、『物質民俗学の視点』全3冊を刊行している。しかし志半ばで芝は没し、民俗学者森栗茂一氏がその難事業を引き継いだ。

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誤字・論拠薄弱のきらいのある癖の強い文章の「ゴーストライティング」に不満タラタラであったことは森栗氏の後年の述懐に表れている。すでに80歳を越えていた老人にかつてのフィールドワークの記憶はなく、原稿に目を通す体力はなかったが、「著書」を後生大事そうにさすっていたそうだ。そして森栗氏が阪神淡路大震災の復興に向け活動していた平成7(1995)年、老人が没したことを知らされたとのことだ。(後述の井上説によれば1994年没)

 

その男、「若尾五雄」の学的成果は、果たして過去の遺物にすぎないだろうか?

 

岐阜・垂井の南宮神社を同時期に探索したことで知己となり、ときに若尾の産婦人科を訪問することもあった谷川健一が『青銅の神の足跡』を著わし、鉱山民俗学は日本の読書界を席巻した(文庫版のあとがきは森栗氏が担当している)。住吉大社宮司であった真弓常忠も若尾の猛攻撃を受け、『古代の鉄と神々』にその説を摂り入れることとなった。また、もと読売新聞社記者であった沢史生も「天狗や河童が中央政権に弾圧された民衆である」というみずからの説の補強に若尾の説を援用している。

しかし、自らのルーツの探求過程で鉱山民俗学を知った小田治が『黄金秘説』を発表したところ、若尾が自説の剽窃と受け取り憤慨、自説の露出を避けたためその後の鉱山民俗学の波及、そして行方をたどることは難しくなる。

 

だが、若尾が没して以後もその説が省みられる事は少なくない。2000年代初頭から井上孝夫氏が安房の製鉄伝承や河童伝承を研究する過程で若尾の思想を再発見し、『金属伝説で日本を読む』にまとめた。SNS上ではちょくちょくその説が引用されているようだ。谷川健一が没して久しいが、『青銅の神の足跡』と同じ集英社から出ている某鬼退治マンガはその影響下にあると言ってよい(ちょっとは人文学に還元してくれてもいいものだが)。

 

松屋主人苔丸は、この2024年の抱負として「ひと・もよう学」を通じ、若尾民俗学の継承と発展を目指す。

 

このコロナ禍の3年余りの乱読。若尾の同時代人――河内長野観心寺前で喫茶店『阿修羅窟』を営み、真言宗錬金術の関係を研究した佐藤任、大阪大学でイラン民俗学を研究した井本英一、陰陽五行による日本文化の解明をライフワークとした吉野裕子、その批判者で中国神話を構造主義的に解釈しようとした鉄井慶紀、ジョルジュ・デュメジルの神話学を日本神話に援用した吉田敦彦、そして欠かすことのできぬ大和岩雄の存在、などなど――を渉猟し、なにがしかの知的融合を図れないか、模索の年であった。

 

その過程で、中国神話学の百田弥栄子氏、フランスの神話学と民俗学の大家・F.ヴァルテール氏、洪水神話と人文地理学の成果を融合しようと努力されている佐々木高弘氏などの名を知ることができたのも幸甚であった。

 

なかでも、若尾と同時代を生きながら、まったく交流したようすの見えない研究者の知的成果も、若尾民俗学と改めて突き合わせることで、まったく新たな沃野が拓けてくるという気づきも得ることができた。国土省の技官として全国の崩落地を回り、徳島で崩壊地名について研究を進めた小川豊である。彼は崩壊地名解明と警告に生涯を捧げ、若尾と入れ替わるように出版活動を進めていった。谷川健一とは交渉があったようではあるが……

 

さいごに、本研究ブログの方向性を整理したい。ユーラシアの説話や神話が共有している生命の持続に欠かせぬ「水」の思想を比較しながら、その保全――治水、製鉄などの技術が、哲学・信仰・呪術などへと変貌する過程を考察し、忘れられた思想家たちの「再発見」に努めていく。

 

まだ理解の浅い面も多々あるとは思いますが、お手柔らかに何卒よろしくお願い申し上げます。

 

【参考文献】

若尾五雄『黄金と百足――鉱山民俗学への道』人文書院、1994年。

井上孝夫『金属伝説で日本を読む』東信堂、2018年。