マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

ひともよう研究ノート

ひともよう研究ノート

神秘思想から哲学へ――太陽神崇拝とその文化表象

太陽神崇拝と聖地、祝祭
 人間同士の協業が衣食住をより善いものへと変えていく
 貯蓄から所有へ……衣食住の全くの変化。他者との共同体=連関構造へ
 公正・正義についての取り決めが必要になる。

 視るという行為(知)……空間・時間把握(コト-化)にともなう、光・太陽の擬人化、神格化

 生の持続、集住のための火・水の安定的確保と贈与交換
 そのために、神格化された「太陽神」と、それらを巡る秩序が形成……復活と再生、陰陽的世界観

自他、混沌からの明晰化(社会構造の分化)

 技芸と政治的意義の分離⇒比率意識の喪失、過剰
 みずからの生を超えた空間・時間的枠組みによる再現性(再-生)祭祀儀礼への意識

 自然的環境の改変による景観創造、理知の技芸的表現


意味・意義以前の「比率(ことわり)」神話素の定式化、政治的テーマ

他者(境界、名辞)を流入させる宗教、哲学
 比率の崩壊、否定……聖性・不可侵性の代用・濫用
 そこに「普遍」要素の導入……道具・機器は芸術へと昇華する……立花・能楽・茶道といった技芸へ
 通過儀礼と特権は、普遍性と反目しながら共存した
 信用はモノゴトの取引を保証する言語的行為…形の永続性は模倣・豊穣を企図する

デザイン(かたち)の永続性、コミュニケーションの持続性
共同体の強度、信用をもたらすかたち
⇒衣食住即人間模様

言葉のもとに根扱ぎにされる「現象」、不変の価値(生-持続)の希求のゆえに衣食住はその信じるもの(信用)の下につくりかえ、くみかえられる

湿地祭祀「原-太陽信仰とその変容」
植相と保水力の見極めが、墳墓文化(死者埋葬にともなう地力改変)へむすびついた。権力の場所化、祝祭化が、特定の「ニワ」「ウツワ」の利用と「滞在」の特権化へとつながる
 人柱伝説・悪場所(悪所)・カタリ(祭祀芸能)の発生
 永続的な特権・指示(貯蓄・占有の肯定)を書き記すための文字・法そして建築の装飾

地母神による死・出産・再生のメカニズム(グロテスクな洞察)

姥神(母子神)崇拝……湿地帯と出産のアレゴリー、太陽を出産する女たち
  神樹信仰と唐草文様
  子安信仰と神殿売春(不確定・不定形なものをいかにイメージするか)
  五感とうつわ(貯蔵を知覚したとき、はじめて記憶が生まれる)
   神人共食から儀式による蕩尽へ
  空間と時間のエッセンス(工芸的自我の芽生え)
 ミトラス神、ルグ神、毘遮那仏、ナルト叙事詩……仏教・キリスト教の母胎、騎馬鍛冶文化の記憶と古星座

ヒトを一か所に滞在せしめ、衣食住を生み出し、生活環境安定のためにさらなる道徳イデオロギーへと導く「人もよう」の研究
 春分夏至秋分冬至を経る、太陽の再生
ヒトの滞在は、水・火の滞留……「水辺の女たち」「生命の水」
 共食のための酒器、庭園

●職能とその分化……穀物神(year god)と大地女神
暦の分割と四季の彩……理知と信用
 普遍性の希求と帝国理念

テトラモルフと仏伝……天体観測による天則、方位のむすびつき
 四福音書記者(鷲・牡牛・獅子・人間)と法華経

凸型景観・凹型景観と春分祭祀(垂直的構造と日時計

 春分「牡牛座」の信仰と秋分「ミカエル」
 古代「パン」「米」供給と太陽神→軍事的な信仰(白米伝説)

始原の暦と豊穣の神話学
インド=ヨーロッパの季節神話から、衣食住の生活倫理へ
 もよう原理と五感をめぐる比率信仰⇒音楽・文様・暦算
 デザイン(かたち)の永続性
 鍛冶文化の所産としても度量衡の規格化、音楽・意匠の規範化
 信用のための技術・技芸

◎陰陽思想と太陽神崇拝
インド・ヨーロッパ文化と中国神話
死と再生について
道教神話群と仏教=ヒンドゥー教神話群の近縁性
汎ユーラシア的生活様式の存在、迷信とされる習慣の信用性
太陽神と悪竜の抗争(政治的イデオロギー)

翁⇒童の変若水、童⇒翁の通過儀礼・神話的表象、境界の水

水力社会と神話表象
●翁⇒女神⇒童子⇒水怪⇒翁……イニシエーションと再生祭祀
農耕前史と神話(労働と秘儀)詩歌と音素 言語の起源としてのかけごえ
 穀物霊とシンボリズム 衣食住そして性 「かけごえ」と「うたごえ」の間
天候や地形、道具や技術を包括した生活の体系……言語との連携=集団と文化
 文字以前の師弟相承の密儀
時間と空間の分割法「ひと・もよう学」
 豊穣神儀礼 ヨーロッパとアジアをつなぐ信仰
 労働のかけごえから密儀のうたごえに
  言語の性質の変化
 四季の移り変わり、農耕・豊穣から労働・法秩序へ=秘儀の世界は信用の歴史
「かけごえ」の始原は生死への注目「もののあはれ
信仰や民俗、技術による構造化、文化という人もようをつくりだす


 日本 ミヅチとしてのワニ(竜宮)、カガチとしての大蛇
  石神と護法神としての猿(守庚申)、酒呑童子とお菊・皿屋敷
  古代日本の防腐技術(水銀朱)、鉄の埋納と治水(ひょうたんなまず
   原型としてのオオクニヌシ……母子神としての再生
    遊女および妖怪(松浦佐用姫・和泉式部西行・飴買い幽霊・河童)に
    災害地名と歌枕……死と再生の合理的解釈、バケる地名と農耕革命


●縄文・ケルト・スキタイの治水神話群……蛇崇拝の諸相
 風水と神話学(災害からの避難、造形し、記憶する)
  ヴェーダ民族の祭式と性愛呪術(牧畜)
 竜退治とメリュジーヌ「蛇女」・ガルガン「鳥巨人」
  地形の改変(大蛇・鷲)の記憶……十字と渦巻、唐草(吉祥文様)と神話
建築技術、松浦佐用姫 型と反復、労働と秘儀のテーマ
 持続可能なかたちの研究
 象徴としての生と死が、もようとして表象
 人身御供・入水自殺
  知識の蓄積と農耕の推進力=伊勢神宮と人麻呂
空間と時間……聖地と祝祭
 聖人信仰の密儀=型と人形、模倣呪術
インド・ヨーロッパの宗教と衣食住のいとなみ……太陽神と治水神話
蚕-絹糸と朱-水銀、鍛冶伝承と災害地名……陽の景観と陰の水害

古代のカタルシス的宗教、ディオニュシア祭……悲劇
 三輪神婚、蛇身の女神、河童駒引伝説
 ヘルマフロディトス、リンガ=ヨーニ道祖神
 豊穣儀礼、斬首される神とヨーロッパ聖人伝説

神・風神・川の女神の崇拝……恋愛の豊穣性、巫覡の媒介性……記憶の蓄積

神仙思想と巫覡……「幻想」と「実践」
 治水事業と神仙思想の関わり……川が媒介する詩想
 「楽園」の具現という形で、国家的建築事業に転化
 原初・始原の「楽園」再現⇒荘厳具・めっき技術による「装飾」こそが政治の精神的完成
 記憶の長期化・蓄積

 古代の神仙思想の否定……「豊穣性」の否定、倫理道徳哲学
 しかし、proverbの次元でその「否定」を内包するのが道徳哲学

 龍女伝説(山から谷、そして河口、浜へ)
 蛇聟入り・母子神(姥神)信仰・河童
 浄化の水と「悪所」(寺地移転による氾濫原埋立)
  歌垣・内裏(エロスとタナトスの中心地・氾濫原)
  寺社の開墾と災害地名
   「地蔵」による記憶(西院の河原)
   龍女崇拝と異常出産(観音信仰)

ニワ・ウツワ的貯蓄構造……空間やモノに生の持続(時間的存立根拠)を愛しもとめる知
採集や狩猟、漁労から、牧畜農耕へと推移するなかで、必然的に集住形態が洗練されてゆくし、火や水の持続的確保にも関心が寄せられる。
灯火具や水瓶は神殿などの聖地空間で発展する。また大規模な土木技術で湿地が住みよい環境へと一変する。人間の生と死、そして再生が教義となり、太陽神話が労働を規律化する。

エジプト、ペルシャの大土木事業と、それにともなう接触変成作用
エジプト、インド=イラン、オリエントなどの古代文明がその先駆者であり、太陽神の下に秩序をえがいてみせた。大地女神による再生はより教義の内に埋没し、実際の担い手(祝祭)からは遠く離れたものへとなる。祭祀=詩はその一時的なつながりをよみがえらせるものである。

  いかにして、「原初の水」が霊魂と善へ、また現世の富へと変わるか「衣食住の充実」 洗礼と潅仏
 原初の混沌とそれを受け止める瓢、洪水神話と長寿神話
 太陽神話……王権神授説への抵抗
  一夜妻、流され王(太子信仰)
 観音・女神と母胎(へそ)

 婚姻、出産、刑罰のシステムの変化(と、カウンターとしての不変価値、復古)
 生殖・出産の「聖性」と燈明・聖水の「デザイン性」
「清浄性(明晰化)」共食・土木工事・戦争を説明する原理(始原)
 殺牛祭祀や、蛇祭祀などを引継ぎ、責任を負う知⇒宗教・儀礼による境界

モノを滞留させる、庭園(ニワ)なり、飲食の容器(ウツワ)なりの貯蓄構造=富の可視化

大乗仏教の極楽浄土と宇宙論……エジプト的な秘儀(アルケミー)
 四大元素と四方位、水銀による金の錬成
 「錬金術」「占星術」「芸術」的象徴……「原初の水」をもたらす神がみ
   空海インド神話四大元素と虚空・識)
   防腐処理技術と絵画……曼荼羅

異端哲学の登場、かくされた図像学
 ガンダーラの石工たちと犬儒学派による、秘儀=法華思想的論理
 香辛料貿易と金工技術


輪廻転生や時代・生まれによるカーストから、あらたな平等主義の産婆術へ
 虚実を分別する論理、ヌーメノン

プラトン哲学とインド密教……四元素説と気息

アリストテレスの不動の動者と北辰祭祀(日吉=法華)
最澄八幡神を日吉パンテオンの中に入れた


異界の詩学と時間性
 雁から白鳥へ(角の生え変わる鹿、脱皮する蛇、飛来する白鳥)
曙光と日没、そして春夏秋冬……さまざまなシンボルで現われる太陽神崇拝

シンボリズム・水の精と祭祀(狩猟と王権)
陰陽思想再建案……水神による生命持続
十二支との関連性……インド・イラン文化の水獣、ギリシア文化はポセイドンなどの形で受容、ケルトまで伝播?
月の兎、太陽の烏といったシンボル
原人崇拝とその解体
いっぽうで黄道十二星座、五大やテトラモルフなども影響……オリエントの占星術
 オーディン(風神)への四大の贈り物

「こよみ」太陽神崇拝と湿地帯の信仰(定期的な氾濫と地固め)
  中国では節句ごと、ヨーロッパでは春分夏至秋分冬至ごとの祝祭
   川とヒナ人形作り(土用・みをつくし・アンク……人柱のモデル?)車輪の移動、転輪法王(穢れと運命⇒アーサー王小栗判官

 アーサー王ヘラクレス(十二ヶ月の象徴化)
 十二ヶ月の象徴化以前には、十か月ないし九か月と「死」の二三ヶ月があった
 中国……禹王と蚩尤
  孫悟空猪八戒、そして「毘沙門天
   易と五行……煉丹術から四季と養生へ

春分夏至秋分冬至と祝祭
 半月・半年ごとに繰り返すこよみ(陰陽五行、季節呪術)
中国系(節句
 一月一日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日 ちまきと鬼伝説

地母神の秘儀と巧妙な隠喩・変容
 観音信仰と女神崇拝、農事祭祀
 ヘレニズム期・ケルト文化との比較
  インド……転法輪・マニ宝珠
  ガリアのヘラクレス(オグマ)ヘーラー(ブリギッド)と聖人たち

ケルト
 万聖節(11/1)-クリスマス(冬至・12/31)-インボルク祭(2/1)-復活祭(春分)-ペルティネ祭(5/1)-聖ヨハネ祭(夏至・6/26)-ルグナサド(8/1)-聖ミシェル(秋分・9/15)
 ヴァルテール・植田重雄参照。また十二使徒・マルガレーテやバルバラなどの聖人暦


 死と再生儀礼(太歳の干支と習合・植物の一年のサイクル)
 ヨーロッパのフォークロアケルト・ゲルマンとインド神話
  ギリシアの他界の神(ディオニュソス
  祝祭と「民族」大移動、キリスト教

 ●イースター(兎)
  聖ゲオルク(竜退治)
  ヴァルプルギスの夜
 ●五月の女神(馬)
 ●ヨハネ祭(野人崇拝、羊・猿)
  北斗七星としての野人(大熊座)
  羊飼いと隠遁苦行の聖人たち
 ●ガチョウ女神(ディアンヌ・鳥)
  冬のはじまり、聖マルティンマルタン)祭り
  天使ミカエルとガルガンチュア
 ●十二夜の聖人たち(狼・猪)
  太陽の冬至による再生(復卦)、ワイルド・ハント(荒猟)「ユルフェスト」
  聖ニコラウス・聖母マリアの宿乞い
  生命の樹と新年の門付け
 ●カルナヴァルの巨人(人形)
  聖ヴァレンティン
  ファストナハト(魔女や藁人形を葬る)・レターレ

  冬至夏至春分秋分:地上の方角をふくめて(√2の三角形、比例理論)
  上社・下社の対応(附・山アテ、堪輿
  十字表象・六角と八角……死と再生

北辰崇拝と表象(シャクジ・庚申)……犠牲の肉片、アーサー王の車、柄杓、一つ足、鹿
日吉山王信仰・伊勢(再生する太陽と不滅の太陽)
弥勒菩薩の半跏思惟、百済観音の姿勢など、北斗を象徴?
車輪(十字架と渦巻)
ギリシャ哲学と陰陽的世界観
パルメニデス


■災害地名、家紋、和歌
■原初の水と豊穣神話……湿地帯と治水技術
 想像・心理・欲望の根底にある「湿地帯」――楽園・浄土と庭園
  生存のための「原-記憶」 文化の無意識的連続性(唐草文)
  産業の立地条件(植物生育・鍛冶)と、その産物⇒王権の基盤としての衣食住(性)の整備

浄化の水と悪場所……河川技術と河童駒引
  松浦工法と清正公
  仮説・中国吉祥図案と災害地名、松竹梅
 植物地名・吉祥地名は豊穣の湿地帯と密接に関係する
  花鳥風月の主題(官吏として出世=湿地帯の楽園ユートピア)

 狩りの神と猿神伝説
 土木工法と流体工学(蛇抜・蹴抜考)
八幡・稲荷・熊野の伸張と古墳造成民排斥

太陽再生と御霊信仰、寺社の開墾と戦国武将の城塞化
  巡行と国見(地名の掌握と地固め現象)
  苗字・家紋は地名を掌握し、治水するだけの技術を得た証ではないか(中国の吉祥図案研究)

多くが萬葉記紀⇒古今へ流入、修験者により神仏習合、仏教的意義をもつことに

豊穣と収奪、型と人形による複製と祭祀
英雄と竜退治、野人(トリックスター)による狩り、供儀
 女神との性的和合、豊穣の予祝
水流・龍脈(水神)信仰、太陽(大日)北斗(妙見)信仰、酒宴・共食祭祀

強度(信用)をもってかたる思考の登場(世界宗教・哲学)
ペルシャ戦争前後、インド・ヨーロッパ語族の離散習合もまた顕

太陽神崇拝と国家の祭祀(八幡神)、およびその調伏の対象(酒呑童子
「ひともよう」「めぐりあわせ」「生命の持続」そのものは中動的であるが、支配⇔被支配の関係、せめぎあいにより成り立っている。その二元の境界のゆらぎ……共同体の儀礼・シキタリを伝える学問は、数知れぬ模倣(真似)の内に実体を観るメカニズムとして機能してきた。

  ムカデ・鬼⇔植物地名・桜・紅葉
「アヨグ」「サル」「ハケル」などの崩落地名を、鬼神の所為へ

「豊穣性」と景観……崩壊地名と吉祥地名

●高低差・崖、坂
●崩落・決壊
●地質の硬軟、水はけ
●浸食・湾曲
●蛇行
●植物の遷移・成長の可否
●放棄地・再開墾
●人為的破堤

タマクシゲ・ウチデ
チョウジャ
ツエツキ
キク・キリ
マツ(マツチ)・タケ・ウメ
イナダ・サルタ・カニ
サヒ・ソボ・アサヒ
ホケ・フケ

水利・水運そして製鉄上の不安定
耕地の確保
源融の「塩竃伝説(六条院)」と「渡辺」、紀氏たちの流され王


シンボリズムの世界、祭祀儀式の真正性……暦の運用とリズム感、音楽と詩の記憶性


造形美術とその根源
神的な恵みをもたらす「面」、災禍(差異化)を流す「人形」、そしてコトバによる「詩」の贈与
 原人伝説と供儀 翁-童のイニシエーション構造(隠遁・窶しの思想)
 四季が豊穣を齎し、やがては枯らす「うつろい」

アルテル・エゴとしての身代りを用意し、それを憑依させ、または追放する。通過儀礼は蛇儀礼のロジックを生命の持続……より敷衍すれば国家の祭祀へと高めていった。

西洋美術やアジアの他の美術についてもまったく同じことが言える。永遠の生命、そして生命の水を得るためのあくなき努力が、さまざまな神話を生み、それを少しでも長く維持し語り伝える鍛冶などのあらゆる技術を生み出したのだ。

真実=真相をハナシ、カタル語法の発達(擬人的なカタリ・詩学から)
 文法の組織、時間や空間の順序化(縁起)そして、演技

「仮面」を着けカタル(農業・祝祭としての予祝)

ディオニュソス祭であれ、神事を真似ようとする「猿楽」であれ、装飾(かざり)の上の擬人的コトバも、「面(ペルソナ)」が憑くことで変化することになる


 かつては真実は「面」を介さねば存しえない、コトバ自体の存立とも不即不離

 古代の神話と眷属神・護法神(古代社会を成り立たせてきた他者原理=シキタリが変ずるとき、倫理的な善悪の分化、そしてシンボルが生まれる)
自然界の様々な形象を模倣し、道具をつくってきた人間が、モノゴトを様々に見立てるとき、このシンボル現象が信用となり、真実となる。

人の移動(マレビト)とともに、旧来のシキタリは変動し、善悪へと分化する


●人文学の第一原理(Principia)はなにか。
 現代社会は言語の論理を第一原理とする。すなわち、人と人との間の関係性を、その周囲の自然や事物にも当てはめ(メタファーとして)理解している。市民科学の時代は政治的革命の時代であった。
 しかしながら現代のわれわれが直面するのは、人間どうしの関係の希薄さ、そして圧倒的な自然災害・病苦への無力である。「なれあう」関係性の論理の先鋭化は、空間や時間という感覚=間隔への感受性の喪失と言い換えることもできる。国家・民族・信仰といった秩序的な社会性(なれあい)によって、かつて人々が繊細に感じ取っていた(出あう)聖性や祝祭性が著しく減退する……「なる」の堕落が「なれる」なのだろうか?「あう」の喪失が「ある」なのだろうか?
 人間は「なれあう」からこそ「住まう」ことができる(ゾーオンの本質だろう)。しかしながら、「住まう」ことが何らかの理由で失われたとき……うたう=訴うという手段に出る。人文学の本質は詩的である。先に-掴む(Principia)という優越性が住まうことを証す。では「なれあい」「すまい」はいかにして捉えられるものだろうか?
 火の使用、道具の使用以前――人間が住まうためには、水を守り、水のために守り、水から守る「環境(めぐり-あわせ)」が肝要である。豊穣な大地は勿論第一のこと、それを真似て、理想の天地を希求し、すまう技術もまた必要とされる。その過程をふまえた上で、人と人とのなれあい、そしてpolitikon(まつりごと)が練り上げられていく。
 年中行事、そして祝祭は1年をくぎりとすると同時に、自他の境界をあきらかにするまつりごとである。

●言語の論理と衣食住の「副詞化」現象
 およそ天地に住まい「なれあう」ことが共同体の言語コミュニケーションに及ぼす影響。「ハレ」「ケガレ」といった直接的な接触の忌避がその一つにあげられる。
 生まれてから、死・腐敗・疫病に結びつく接触……衣食住、移動といった空間の変化、時間の変化をともなう自動詞は、婉曲表現をとりやすい。思うに、他の対象をとる他動詞にくらべ、「ニアル」「ニナル」空間や時間を取り扱う自動詞は、論理的な高次化がはかられるのだろう。
客(クセノス)としてふるまうこと、主としてもてなすこと。軋轢と暴力をときにともなうこの問題は、有史以来の歴史の問いかけである。客はマレビトとして、日々の主奴の秩序を揺るがせしめる。ゆえに丁重に扱い、隔離する。人間は自然現象にもこのロジックを当て嵌める。
 婉曲表現の一分岐である敬語表現・推量表現は、その重層化された空間や時間を指し示すひとつの表現法である。中世、また近世まで一般的であった身分による衣食住の厳しい区別、また祝祭のときの習慣は、まさにこの婉曲表現をモノコトにより代替したものである。
 象徴は、「変化」を目に見えるかたちであらわそうとする(代理-表象)の一形態である。
 それは、自他の境界を明確にするとともに、「なれあい」の限度――集団内の階層や秩序があきらかになる現象であるといえる。
 近代においては、「変化」は差異としてゾーオンのなかにわずかにとどめられる(「パサージュ」裕福なブルジョワの流行として)のみとなった。一種の時代精神であり、それらは金銭(富)という信用の量的要素と結びつけられると「信じられて」きた。近現代の美術はその証左として、他の物より抜きんでた発想や構成をいかに高値で代替(パトロネージ)するか、という娯楽的側面において考察されてきた。
 「変化」のうちに変わらぬものを見出す――相応の来歴や伝統という質的要素を代理-表象するときにも、象徴は作用する。むしろ「特権(Principia)」という考えは変化の対極にあるが、変化の中においてこそ作用するものである。ものがたりの中において、「特権」は「なれあい」の現在をかけ離れた高次の存在-信用によって訴えかける。ときに笑い、ときに不気味の異郷的世界における「生の持続」こそが、変化のうちの特権として認知しうるのである。

■共同体と行為的な「模倣」……実体と仮象の「連続性」「持続性」をた-もつもの
信仰的宗教は、人間の精神的規範をもうけることによって、この聖なる言語文化表象の広がりを変形することができる。道具の使用、そしてそれによって得られる感覚的充足……衣食住、そして性の設備は共同体の信仰により大きく制御されることとなる。言語とてその軛からは逃れえない。言語は記銘されることによって、その道具的性質、感覚的統御を一層強めることとなった。自然現象と時間・空間の認識(時空認知)から大きく変貌することとなり、古神界から逸脱することとなったのだ。

■神話(かたり)時代の古神界について、聖なるものどもの領域
「ひろがり」聖なるものどもの領域は、言語の「共有」がもたらす社会(つながり)の規範である。そこには空間的領域と時間的限界がある。
詩は、言語の信用性を犠牲に、古神界の遺物……シンボルとスキーマを空間化/時間化する。それは端的に言って、分化であり、変化(身代り=変わり身)である。
行為と想起を結びつける「精神」の誕生……鎮魂、再生


●言語・造形・生活様式
情報の性質についての研究
情報は言語の組み合わせによってもたらされる。それは言語を無作為・自由に操作すれば得られるものではない。絶えざる印象と表現のプロセスであるところの言語は、把捉しようとする他者との関係におおきく作用される。基本的にはいかなる空間でとらえるか、という現象への関心が、言語の形式となり内容となる。

集団によって了解された言語現象が、文化となる。
この定式は、言語とはすなわち空間化された信用であり、時間として積み重なった信用であることを雄弁にものがたっている。指し示し(標示)することにより共同体に主張し、しきたりを作り出していった。
空間は時間の規範である。時間を立証するには、なにか具体的に空間として思い浮かべることが必須になる。無を思い描くことが、時間を自由に思い浮かべることの基礎に位置付けられ、それゆえに発生や終末について副詞的に考えることになる。宗教的な信仰は時間の成熟した状態であり、神に誓い、あるいは望むという行為は、集団の時間を裏書きするよう語りうるだろう。

そして他者を物語る自己が、何よりも信用によっておのれの生を持続させて行くのだ。

 物語の発生・聖性について(言語はいかに持続したか)
 「もよう」の誕生、貯蓄と収奪の発生
 鍍金・朱塗技術……原始造形術と呪術・錬金術
  原始造形術は儀礼とともにあった
信用と清浄性……水銀メッキと錬金術
視る行為と現象、生の持続としての価値
そのために貨幣経済はその成立以来幾度とない革命に曝されてきた

 この物質的崩壊こそが、「口碑」「儀礼」の根源であり、より直截的にいうならば、「死と再生」の信仰と不可分のものであったことは、数多くの文化的共同体の基体として重層的な「死と再生」が意識されていることによって証される。祖霊の死は、はなはだ逆説的ではあるが、子孫としての再生として暗示されるのだ。風水や古墳ばかりでなく、西欧的な教会にいたるまで、家や墓は「母胎」のイメージから分化する。泉による取水や採鉱などの必要から山や洞穴を選んだ実用的側面も確かにある。だが、「炉=火処」の存在が、連想の決定的な決め手となる。
 そして、物質的崩壊の中心から周縁(境界)にかけて、男性的陽根崇拝としての石造物や建築が築かれることにより、一種の「再生」が意識されることとなる。河原や坂、もしくは「厠」という表象は、特殊な土木治水技術を要する都市の末端として、またケガレの漂着点、あるいは次なる再生の生産拠点となる。


●共同体の『持続』とものごとの『持続』……想話機能
 人間がたんなる群れから集団へなったのはなぜか。そこに意義をみいだすのは、もはや時代錯誤の試みかもしれない。鳴き声とことばを分かつものは何か、警戒色と表現を分かつものは何か、交尾や繁殖とフェティシズムや性交を分かつものは何か。そのどれもが、この現代文明の騒々しい瞬間的利便性のうちには錯綜せざるを得ない。
 人文学、そして言語についての問題は、もはや「もよう」が使い捨てのイメージとなってしまった現代には遠く隔絶してしまった代物のようである。マルクス主義フロイト心理学、柳田民俗学のような前時代的な文化人の教養が、もはや消え入りそうなエコーのように複製芸術の内に谺するなか、「神話」について物語ることは甚だ陳腐であることも確かだ。しかしながら、衣食住が数えきれない人々の手を経て、「あたり前」に享受される現在、集団をうごかす原動力としての「ことば」の研究は、見過ごされるにはあまりにも魅力的なのであることもまた確かなのだ。
 獣たちが遺してきた足跡が描かれるべき「もよう」となったとき、人間文化(ひと-もよう)のなかに生まれた劇的な変化とは何だったのか。いままで数多の学者に考察されてきたテーマではあるが、彼らの固執した国家や民族という机上の線引きにより、その真のダイナミズムは忌むべきイデオロギーとなり人々を苦しめることとなった。文字文明と非文字文化、どちらの側に属するかという問題ではない。目に見える「もよう」とやがて顕在化する「ひと-もよう」への洞察。とりもなおさず、その淵源は肥沃な三日月地帯やナイルの賜物に君臨した神々と、それを支えた人びとの治水技術から語り始めなければなるまい。

歌物語とその「ことば」
説話は受け取り手が理解しやすいよう変形されるし、その「場」にあわせて婉曲もされる。場の(政治的な)問題については、たとえば通過儀礼をおこなう限られた結社や、祝祭などの男女の交会の場もまた想定される。説話がなぜ分化するのか。それは時の流れと人の流れ、そして場所(環境)の流れといった現象の「転変」が神話素に決定的に影響を及ぼすからだ。
いわゆる枢軸時代に生まれた哲学は、その教理の魅力ゆえに王権と深く結びつき、あるいはまったく権力を拒絶した「結社」を作ろうとした。より普遍なる意義、不変なる価値を求めようと、場を超越した聖性、神性を表現しようと有らん限りを尽くした。そうして音楽や工芸など、特定の技芸への習熟と表裏一体となった集合知は、ユーラシア大陸の各地を駆け巡り、数多の模倣を生み出すこととなる。建築や軍事力などの「技芸」、為政者じしんの必要とする神仏の「代理人」としての座と、それらを超越した場としての「公共圏」を、近代以前の信仰共同体は提供することとなった。
わたしが考察にあげようとする「鉄王伝説」は、開墾し居住の場を拡げながら、結社どうしの「交会」により政治的関係を維持し、鍛冶という生業を「理(ことわり)」として活かしてきた共同体の存在を示唆するものである。それは古代にも、中世にも、近世にも、あるいはヨーロッパ、中国、日本にも鉄器時代以来遍在してきた現象であり、相互間の関係は多分に検討の余地を残すにしろ、前述の転変に伴いじわじわとその覇権を拡げていったものである。それは太陽神崇拝と大地母神、雷神崇拝と治水を生存の糧としながら、技芸を高めていった共同体の集合知である。

始原と不在……劇的詩学の根源
インド・イラン文化は、人々のいとなみに思惟をもたらし、造形とその崇拝をあらしめた。思惟は、始原と不在を必要とする。

「生命の水」を得るために、古来より人間はあらゆる工夫をこの地上に施してきた。治水はあらゆる階層の人間に分担され、「物心両面で」推進されていった。
いくら合理的な説明が為されても、共同体のうちに治水の重要性が周知される可能性は限りなく低い。知識階級の人間ですら、表層的な知識にとらわれて共同体の根幹的なインフラストラクチャーを蔑ろにする姿勢がよく見られる。
そこで、ユーラシアの各地にはある「かたり」の形式、「イニシエーション」の形式が流行することとなった。河川、泉を共同体の成年儀式や再生儀式の舞台とすることで、その場の持続をはかる……一種の民俗が生まれた。
農耕、牧畜、鍛冶などから生まれる共同体は、おおくの水を消費し、または動力としてつかうのは勿論のこと、ひとの生死にいたるまで、『生命の水』の恩恵にあずかることとなったのだ。

童子が一人前の男、そして翁へと成長していく神話的過程には、流浪をつうじて知識を得、河川のもたらす災いを克服しなければならない。また翁が童子に転生するには、泉の女神の介在が必要であった。それは冬になるにつれ衰え再生し、夏へ勢いを弥増す太陽神話と重ねあわされた。
数多の詩作や演劇で知られることとなったであろうこの原初の神話は、口々に語り伝えられつつ、多くのバリエーションを生んだ。また各要素が統合されることで、さまざまな神格が見いだされたことは想像に難くない。湿地帯、氾濫原にすむさまざまな動物が水の怪物として擬せられ、牛・馬・鹿・蛇をはじめ、竜、鳥女、天使、河童などのイメージが作り出された。
しかしながら、莫大な食糧、貨幣、兵力がうごく治水事業は不道徳の温床でもある。神話や演劇はそのいかがわしさが追及され、強力なリーダーシップによる規律と道徳を謳う信仰宗教がその解釈として覆いかぶさることとなる。治水の重要性・建築事業は修道院や寺社仏閣の「寄進」という形に読み替えられ、神話はその縁起譚・奇蹟として換骨奪胎が繰り返されたことだろう。河川の災いは民心の荒廃、悪魔の誘惑へとすり替えられ、数多の宗派対立を生みながらもその問題性は地下へと沈潜することとなった。
さまざまな「もよう」が見られる庭園や書画、陶器はただに河川や池泉の美を愛でる形式として発達したものではない。古代の魔術や神話を継承しつつも、そこには水をいかにコントロールするか、という試行錯誤が読み取れる。
中国では儒教のうちに古代青銅器への崇拝がみられ、それは三具足として仏教の供養にも反映された。
庭園であればわざと非対称にして水勢を穏やかにし、書画であればいかに均質、優美に筆管を揮うか、陶器は酒茶をそそぎ花を生ける華麗さという点において水をつねに気遣う。いわばミクロの治水であり、それらの名手として認められることは、すなわちマクロの治水をつかさどる天下国家の主に匹敵するといっても過言ではない。芸道は道徳宗教下の身分が卑しく、また異端として迫害される者たちの「アジール」となった。

新石器時代のヴィーナス(大地女神)から、人間は死の先にある再生を信じてきた。生の持続自体が通過儀礼を必要とする。死においても通過儀礼を経ることにより、植物から動物、そして人間にいたるまで再生することができると考えられたとしてもおかしくはない。
それらは「楽園」として表象され、通過儀礼の過程は「地獄」として様々な苦しみで象徴されるであろう。ヤマ(閻魔大王)がおり、アスラ(アフラ)神とデーヴァ(ダエーワ)神が闘い続ける世界。ガンダルヴァアプサラスによる絶えざる誘惑。インド・ヨーロッパの牧畜民の思い描いた神々の領域は、すなわち彼らの冶金技術そして治水技術とは無縁ではない。

中国・日本に至るまで仏教が伝来し、あるいはゾロアスター教やミトラス、マニ教ネストリウス派キリスト教が到来した。それらの根底には、バビロニアアッシリア天文学、エジプトやギリシア・ローマの神学を吸収したヘレニズム時代の詩学が少なからず影響している。神的現象の本質は、いっぽうでは善悪、もう一方では陰陽としてとらえられている。

冥界下りや水神退治は楽園に水を供給する「築庭術」の一つと考えればよい。大地母神は水路をつうじ死者を再生させる(蓮華のイメージ)。白鳥や蛇は天使と悪魔になり、人々を様々に誘惑しながら、治水の難事業を遂げさせる(英雄は川から流れてくる赤子として表象される)。そして太陽、月、および北斗七星が、休まず一年の月日を告げ知らせる暦として神格化される。

詩は、巧みに人体という小宇宙と大宇宙たる環境を照応させながら、衣食住の始原をものがたり、しきつめ、組み合わせる(こと-均し)。日本文化であれば四季の循環がすなわち五行の循環であり、整然と体系化しながら、いけばな、庭、茶道として結実した。錬金術や中世哲学として、四元素説が尊重せられたのも、一種の統一的詩学が希求されたからである。四元素説は乾坤離坎を基とする易と相通ずる。

身体の治水技術――身体を魔より守る、清めや洗礼といった水を用いる習慣、供儀から派生し、油や灰、獣の皮をまとい胎児を「装う」再生の儀式、またはより概念化された占星術・哲学・ヨーガなどを実践する習慣。医学は様々な試行錯誤を経て理論から実践へと移行する。香辛料や酒(生命の水)、薬効、覚醒という「即物的」癒しは、実践から理論を生成するメカニズムであるといえる。

――さまざまなもようのある「うつわ」を愛でる、という行為は、理論(般若)と実践(方便)の合一という論理のあわいにあるどこか無茶な「無理強い」を価値体系により承認せしめる(茶道ひとつをとっても、富と医学を象徴した香辛料入れを茶入に見立て、様々な雑器をその従たる茶碗に見立てたという行為に端を発する)。

どのような国家の、どのような民族において、どのような知の枠組みにおいても、この種のフェティシズムは強力な陶酔、そして催眠作用を有する。たとえ些細な文字であれ、いかなるかたちに愛着をいだかぬ、無関心な人間などいない。それは形に執着しなければいかなる生も持続しえなかった、偉大なるおそれとおののきによって人間は生かされているという事実を突きつける。

言語は――もようというゲシュタルトに宿った畏怖を、水路都市に住まう人々の原始的契約として刷り込み、権力や秩序の下に生かす。もようは自己への否定、異化作用、警告であり、模様を知らなければ生きることは難しい。

かくして人間のもちいる道具、衣食住、および造形術は、神話の否定としての道徳宗教からいまだ解放されていないし、認知的、また根源的(Affordance)には神話がいまだ生き続けている。

無文字文化から文字による道徳的宗教の移行――湿地帯を切り開き、上下水路(泉と厠)を備えた集落が生まれ、巨大な都市へと抗争を続ける過程

ユーラシアにおいてその手法に少しながら変化が生まれる契機には、ペルシア帝国の誕生、そしてアレクサンドロス大王による「ヘレニズム」、ローマが分裂し、イスラームや唐へと一大通商路が生まれた「中世」、パクス・モンゴリカと、陸海の通商が決め手となるだろう。たしかに皇帝による強大な官僚機構は通商の先駆となりうるが、その後の少なからざる「不確定性」が、人々を知の交流へといざなう。

 人間が肥沃な氾濫原を切り開き(日本神話では蹴裂という所であろう)、荒れ狂う河川の姿を記憶に留めようと志したその時、獣たちが遺してきた足跡は「もよう」となった。粘土を捏ね、草や葉の繊維を漉しとり、あるいは岩絵の具を削り、湿地に集う鳥獣たち――そして人間の「似姿」を留めようとしたその時である。やがて、描いた「もよう」に意味が宿ったときには、群れの上下関係は集団的な分業となったいたことだろう。ひとりひとりの「生」に意味があり、「死」にもまた謂れがある。社会をはぐくんできた「生命の水」は集団的な儀礼を根拠に管理され、やがて神に捧げられることとなった。

 かくして、川や草花を抽象化した「渦巻」、木組みや人形(ひとがた)を捨象した「十字」、そして方円といった定規とぶんまわしで作図ができる図形にはさまざまな意味が付与され、衣食住をかざることとなった。これらのもようが食器や甕に描かれ、また服飾や神殿を彩るとき、そこには「生命の水」が根底にあるのだ。

 しかるに、「生命の水」を周期的に管理する労力は、その惰性的な途絶、また社会的な離散とも不即不離の社会問題でもありうる。牧畜文化であろうが、農耕文化であろうが、また商業都市であろうが、環境的負荷や社会的な変動が「生命の水」を涸れさせてしまう事態は歴史の多く証するところである。人間文化はこの著しい難事業である「治水」に、一方では厳しい資本主義的階層社会を形成すること、もう一方ではエロティシズム的な表象文化によって物語ることで、対応を試みたといえる。

 英雄が岩の中から、または川から流れてきて生まれる異常な出生譚、川の怪物が動物や人を誘惑し、あるいは引きずりこもうとするユーラシア各地に広がる神話素(河童駒引)が、この仮説を証する所となる。近代の学者たちはここに人類学的な類型を見、文明に染まらない野生のユートピアを見た。しかしながら「治水」という観点からは、この荒唐無稽ともいえる作り話を信じるのではなく、「生命の水」を管掌するための「観念連合」として記憶することに非常に興味を覚えるのだ。

 そうした「悪場所」のうちに数多の物語、そしてシンボルが生み出され、身分違いの恋愛から革命的な政治にいたるあまたの「ひと-もよう」が展開されることとなった。もちろん、それを「社会的な歪み」ととらえ正そうとする「道徳的宗教(いわゆる枢軸時代の)」もまた誕生することとなる。「生命の水」に直結する大女神崇拝は売春となり、金銭の搾取の構造は差別と受け取られる。しかしながらそのイデオロギー闘争の中には、それの依って立つところの「衣食住環境」への反省を見ることは少ない。ましてや根本的な「治水」を問い直すことはもっての外であり、益々治水の神話学は秘儀的なものとなり、水面下へ沈潜、意味を再生産していくこととなる。

 治水の神話学の痕跡は、かくして一方では「ナショナリズム的精神論」一方では「類型的な迷信や吉祥文様」として近代資本主義を生き抜くこととなった。単なるうつわや絵画が高値で取引され、そこに素朴なる禁欲的価値を見出す近代的な美術鑑賞――具体的に言えば茶道など――はその一端である。住環境――庭園や寺社仏閣、衣食ひとつひとつが、マクロコスモスであるところの都市を支えてきた治水、そしてミクロコスモスであるところの医学(身体の治水であるといえる)の結晶であるはずなのである。