マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

ひと・もよう学序曲(治水と説話)

若尾五雄の独創的な着眼点は、巷間彼の業績として伝えられている「鉱山民俗学」や「河童は渦巻である」ではない。

 

若尾の説の分かりにくさ、とくに論証の弱さとしてとらえられた所は、そうした彼の思考の結節点に至る様々なプロセスが無視され、語呂合わせなどで直感的に推理されたと受け取られた点にある。

昭和33(1958)年12月、かれが『和泉民俗』に載せた最初の論考は「久米田池の伝説と史実」であった。そこから「和泉国府の伝承」、「岸和田狼王と水の神」、そして「土木工法の伝承」といったトピックに論が進んでいく。「鉱山」「鬼」「河童」といった枝葉末節においても、基本的な思想として「治水」「水利」についての研究が内在する。

 

「治水」についてドラスティックに考察した思想家に、前記事で挙げた小川豊のほか、『物語 日本の治水史』を著わした竹林征三、そして『風土記世界と鉄王神話』にて若尾とも通ずる鍛冶神話の考証にあたった吉野裕などが挙げられる。説話の世界に潜む河川技術の伝承については、もっと注目されてもよい。

 

 

私は蛇や猿が婚姻をむすぼうとする「異類婚姻譚」、そしてより古層の神の子を産む「神婚説話」、そして金太郎などの「姥神・鬼姥」はもともとこうした河川技術の伝承を目的としたものだったと考えている。

 

鍛冶や炭焼きが「朝日」長者となり、竹取の翁が拾った姫が「一夜にして」大きくなる。もちろんそこには製鉄にまつわる伝承も含まれているが、そこには「ウバガフトコロ」「ソボ」といわれた赤土の産生地に集住し、その故に常に「蛇抜け」「猿」などと呼称された河川災害に悩まされてきた古代人・中世人たちの悩みがあった。

 

植物地名もまた重要である。しかし通説のように吉祥などを期待して植物地名を名付けるのではなく、「水害地の特質」がそこに好んで生える「植物の特性」と結びつくが故に、植物名となるのではないだろうか。梅は土質を好まず植えることができる。笹や竹は人為・自然の攪乱に強く、根を伸ばす。松は厳しい環境下でも根を張ることができる。梅田は「埋め田」の語呂合わせ、嘉祥地名といわれるが、むしろ「埋め(昧)」の状態でも育つからこそ梅であり、根の保水力、土壌改変によって堤防を作るのが狙いだったのではなのではないか(逆に芝や草などの草本が名付けられた地名は遷移の初期を表し、氾濫の頻度を物語る)。

 

化け屋敷、飴買い幽霊についても同様である。このうち、飴買い幽霊は中国の伝承を高僧が取り入れた創作であるという説が柳田国男以来の定説である。お菊井戸については以前推論を述べたことがあるが、クク(自然堤防)だった土地に新たに屋敷を建てたところ水害で欠けが生じ、井戸が使い物にならなくなった土地をサラ屋敷と呼んだことが考えられる。

飴買い幽霊は雨で産女(埋め)状態となっていた河原の墓地が崩れ、そこに新たに赤子(蛇籠)で護岸を施したことを説話化したものだとおもう。問題はそこに女人成仏の教義が内在し、法華経信仰がこの説話の流行の一助となっていた側面である。

 

古くは太子信仰、天神信仰天台宗日蓮宗の存在基盤となった法華経信仰を、のちの治水巧者である加藤清正や成富兵庫が信仰していたところを見ると、この北インド成立の経典がインド・中国の治水術(風神雷神崇拝、竜王への雨乞いもまた含まれる)を取り込み、説話(直談)などで教義とともに流布していったことがのちの近世大名・武士主導の治水事業につながっていったのではないか。

そのグロッサリー的集大成が「日光山縁起」、つまり猿丸大夫伝説であり、桜(裂クラ)、紅葉(揉み地)、雪月花(ともにその年の稲の出来の予兆となる景物だった)を愛する労働歌たる俗謡から和歌・連歌といった雅のウタの世界にも通底するものである。

 

(若尾の業績の紹介をするつもりが、まだまだ晦渋な自説の開陳となってしまった。)