マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

文化圏研究叙説

 歴史研究は時代の鏡である。研究者は周囲の環境から何かしら影響を受け、みずからの研究が歴史という大河に「一石を投じる」「波紋を広げる」ことを願う――世の中の関心に少しでも寄与できるように、みずからの得た知をフィードバックしようとする。

 

 しかしながら、多くの場合、それは一時的に水面を揺らめかせるにすぎない。専門的な知識に踏み込むと、世間一般で信ぜられている通説からはかけ離れ、限られた仲間うちにしか理解されないものになってしまう。また、発想の独創の度が過ぎたり、研究者自身の死によって、顧みられなくなってしまった研究も数多く存在する(私は趣味の古書蒐集を通じて、そのような研究を多く見てきた)。

 

 この半年間、西洋の「錬金術」と、東洋の「煉丹術」の関係について考察してきた。通説では、「硫化水銀(賢者の石、丹砂、朱)」を用いる以外に、これらの間に直接的な関係をたどることはむずかしいとされている。西洋ではおもに金の錬成について、東洋では超人的な延命についての知とされ、興味関心が根本的にことなるのだ。そのため、両者の文献を容易に比較できる環境下においても、踏み入った比較がなされず、空想の世界と捉えられ、数多の創作の題材となってきた。

 

 しかるに、東洋と西洋を隔てる壁はそれほど高くないことは、他領域の学識を参照すると明らかとなる。ヘレニズムを通じて塑像の様式が伝播したり、弥勒仏とミトラス神の関係や、数々の神話、民話の類型については、多くの著作がそれを立証している。これらの文学的な共時性、通時性については、通例精神医学的なアプローチや、「世界神話学説」のように、遺伝子レベルの伝播を推定することがある。

 

 私は、はっきり言うと、これらは「なぜ発生したか」「なぜ伝播したか」を解明することは可能であっても、「なぜ広域に伝達され、長期にわたり伝承されてきたか」を考察したことにはならないと考える。これらが「まことしやか」に信じられるには、信ずるに足るだけの、ともに伝わってきたセットとなる「何もの」かがあったと考えるべきである。そしてそれは、一見文字による文化(「教育」「教化」をふくむ)と同一の経歴をたどってきたものであっても、それらとは対立する価値観、文化をもった圏域を展開していたと思われるのだ。「錬金術」にまとわりつく悪魔的なイメージ、「煉丹術」にこびりつくアウトロー、狂気は、ひとえにそれに起因する。

 

 わたしは、「文字社会により管理、排除すべき何ものか」が、「硫化水銀」をめぐる技術にあったのではないか、と考えた。「硫化水銀」と金を融かしアマルガムを作ることで、金メッキを施すことができる。また「硫化水銀」の薬効や耐腐食性から、古人は長寿をめざしさかんに服用し、死後にはミイラや即身仏にも利用された。墳墓や衣服の彩色にも活用されている。こうして活用されるには、もちろん水銀朱(それと金属)を採掘、精製、輸送、そして消費するだけの知識が、たとえば口承によって共有されてきたのではないか、と考えるに至る。それは、「文字社会」を支え、また管理されてきた農耕技術と同じく、海を越え、山を越え、さまざまな混淆を経て共有されてきた知であろう。

 

 そこでわたしは、従来ナショナリズム民族主義、個人の天稟に帰せられてきた「歌謡」「物語」の発生とこの「丹砂」をめぐる技術、交易の経路が、似ていることに気づいた。万葉集の編纂と水銀の一大消費イベントである大仏の造営、そして鉱山師と見なされる僧侶たちの活動時期がそれに前後することが、その発想の源となった。

 

 この白鳳天平時代は、ペルシア、唐、新羅との一大交易の時代でもあり、インドや東南アジアの仏教文化、そして遠く「異国」のゾロアスター教、ミトラス教、マニ教キリスト教も、伎楽などを通じ、我われが考える以上に身近にあった時代でもある。古代オリエント占星術グノーシス主義、ヘレニズムは、北の山脈やステップ、南のインド洋や紅海などの交易路を通じ、ローカライズやシンクレティスムを着実に果たしていったと想像するに足る。

 

 少しあとの時代には、空海がインド密教の「水銀」技術を携え、造営中の平安京、東寺で活躍し、丹生津姫や狩場明神が住まっていた高野山の地を開基することとなる。平城京や大仏の造営に協力した鉱山師たちの水銀技術を背景に定着していった。しかしそれはけっして平坦な道のりではない。古墳や祭祀で朱を用いてきた大神氏や秦氏、土師氏(大江氏や菅原氏の祖)などとの軋轢は歴史の随所に観られる。

 

 藤原氏の権勢により排斥され、真言僧により調伏されてきた「御霊」の存在は、いち政治家どうしのスキャンダルや迷信深い貴族の空想にとどまらず、文字通り「みこしを担ぐ」「山車を引く」集団の暴動、内乱の危機をつねに秘めていたといわねばならない。そうした時代のハイライト、菅原道真は土師氏の出である(陶器や埴輪に用いられるハニ、鉄を含んだ赤土と水銀朱は、おそらく似たようなところから出て来たのではないだろうか?また北野に祀った巫女は多治比文子である)。不具や死の禁忌を厭わない鍛冶師、半聖半俗の僧兵たち、語り物で周囲を教化する聖や芸能者たちは驚異であり、脅威でもあった。祇園祭や各所の曳山の絢爛な装飾は、そこに利用される水銀技術と古代の政治的な文脈の繋がりを思わせてならない。

 

 中世ヨーロッパにおいても、アラビアから遠くインド由来と目されてきた「アル=キミーア(黒い土地の術)」の展開は、ローマ以来の水銀鉱山の要衝であるカスティーリャで翻訳が行われた。地中海一体を風靡した「恋愛歌」の展開、「マリア崇拝」の讃美歌の展開、巡礼の流行と重なる。古代から伝承され、異域からも流入した「愛」の喧伝、地母神崇拝は、やがて粛正され、異端を許さぬ正統への固執へとつながることとなる。錬金術の流行もこの潮流と無関係ではなかろう。

 

 鉱山師や鍛冶師のもっていた知識が、弾圧によって、または古典への固執によって奇怪なイメージへと変貌するのはルネッサンスにおいてである。トスカーナにも水銀鉱山が存在し、水銀朱はフィレンツェの主要産業であった織物業とも無関係ではなかった。しかし新大陸の発見による金銀貨幣のインフレーション、宗教改革や政情不安は、聖人崇拝でまとまっていた鉱山師や織物業者に打撃をもたらし、賤民や異常者としての蔑視へと晒されるようになった。

 

 その一端が、「錬金術の異端視」「魔女狩り」として現れるようになったのではないか?と私は考えている。ヨーロッパ社会は、これらを裁判し、収容するシステムである政治文化、「脱宗教化」された水銀および鉱物の化学的特性の解明という科学文化、そしてそれらにまつわる伝承の民族的、民俗的な再解釈による文学研究と、古典を援用しながら、独自に近代を構築していった。

 

 もちろん、従来これらの領域で主流であった、「農耕文化」的な祭祀儀礼研究や神話類型学を排除するつもりはない。第一に、「錬金術的」「煉丹術的」な知が農耕社会を基とした文明において理解されるためには、「農耕的な」語彙を利用しなければならないだろう。鉱山師がホームグラウンドとするのは。農耕文化の資源であり境界であり信仰の対象である山や大河であり、鉱脈や川が蛇や百足のような「尾(ヲ)」をもつことは農耕文化と同様に捉えられていたのだろうと想像される。鉱脈は出水の危険を伴い、また水質の汚染や断層地震などの危険とも隣り合わせである。そうした畏れが泉の女神や祟り神への「神格化」をもたらしたと考えられる。

 

 精錬には時間を要するため占星術や天文の知識と連動しており、また金属は人間や家畜のように交接が行われ、胎内に「孕む」ものと考えられていた。生殖器崇拝は石臼や杵といった道具のアナロジーによっても補強されるだろう。

 

 おそらく、私がここで述べている考えはエリアーデをはじめとする先人たちが述べていることの焼き直しにすぎない。しかし、このグローバル社会とローカルな社会がともに自壊へと向かっている時代にこうした論を発表することは、世界大戦で崩壊しつつあった社会や学問の伝統に彼らの果たした寄与と同じく意義深いものとなるであろう。なにより最先端の技術に翻弄され、自らのアイデンティティを喪失しつつある人間が、古代の技術と文化の関係を学びをつうじ、これを自らの住まう地域の発展や投資に活かすことができるのではないか、と私はひそかに願っている次第である。

 

 この小論で語りきれなかった部分を含めて、ぜひ過去の記事を追っていただきたい。

 

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 研究の進捗としては、板橋倫行という学者が70年以上前から(「丹生の研究」松田壽男に先行する)万葉集奈良の大仏造営にともなう水銀利用の関係を考察していたことが判明した。また、宇佐八幡宮(大神氏)や近江石山寺・金勝寺(金勝氏)と東大寺別当良弁との関係に焦点を当てた清輔道生の研究を発見した。『ピカトリクス』や『立ち上る曙』など、大橋喜之氏の西洋錬金術関係の書籍の刊行が続いていることも、研究の深化を期待させる。

 一方で、米田良三の「九州仏寺大和簒奪説」といえる筑紫国造磐井反乱の研究については、畿内大宰府が相似的な構造をもって展開していたことに絞れば、魅力的な説に映る。

 竹取物語と鉱山師の関係については、金が「田華(たか・たから)」と呼ばれていたという説を目にし、四川地方の類話、万葉集の竹取翁説話と併せて、その淵源を探っていきたいと考えている(タカは高野、多賀から水銀の異称と考えてはいるのであるが)。