日本神話は「星」と疎遠であるといわれている。
江戸時代の国学あたりからか、農民は早寝早起きだから星を見る余裕がない、という至極てきとうな決めつけがなされてきた。そのスタンスは概ね現代に受け継がれている。農民は迷信的で純朴無知であるという、近代特有の啓蒙主義的な決めてかかりも影響しているのだろう。
しかし、本来農業というのは気候や季節に鋭敏な感覚をもって運営されなければならないはずである。太陽、月、星の観察を積み重ね、梅雨や台風の時季を正確に予測せねば、飢饉は免れえない。それに、昔の農業にはずっと多くの人間が携わる集約的なものであった。領主や地主たちは祭礼などを設け、彼らの適切な労務管理をしなければ、一揆・打ちこわしなどの具体的な損害にかかわってくるはずだ。
これは鉱山やたたらなどにも言える話である。江戸中期の学者、佐藤信淵の述べる鉱山の一年には、(ある程度理想化されているとは言え)おおよそ半月ごとに狩りや祭礼を行うことが記されている。ふいごや自然風を用いたたたら作業は特に、蒸気による炉の崩壊などもあって、晩秋や冬の寒冷な時期が好まれたようである。
渋川春海の貞享暦以降、日本のこよみや時間感覚は徐々に共有され、広く統一されていく。明治政府の太陽暦採用も、一人ひとりの時間感覚の希薄化に拍車をかけた。鉦や時計などで時間を量ることが一般化されてしまえば、星にまつわる昔話など忘れ去られ、好事家しか興味をもたなくなる。まして占いという非科学的な「迷信」と結びつけられてきたわけであるから。その代わりに学校教育で得られたものといえば、都市化や機械化とひきかえに退化し、すぐに忘却される運命にある「空間認識」「時間感覚」と、凡庸な「貧農史観」による、上へ上への怨みの転嫁である。近代社会の病理――文字通りの「病気」や、社会のアンバランスさは、こうした歪みに起因するものではないか。
さて、本題の「十二支と十二星座」である。十二支は木星の公転周期約12年により分割された空の領域をもととしており、12星座は1年の太陽の見かけの回転を12等分した空の領域に由来している。天文学は(鉱物や岩石について興味を持ちだした地学と並んで)不案内なのだが、太陽も木星もどちらも黄道帯に沿って移動するらしい。十二支は方位とも、また北斗七星の柄が指す向きとも結び付けられているので、正確には「十二次」を用いるべきかもしれないが、「十二支」を用いる。
十二支は中国由来であり、十二星座は古代バビロニア由来である。当然ながら、対応関係が問われるところとなる。香川高松で古代中国の度量衡、そして十二支と十二星座の研究に人生をささげた大西正男は、『十干十二支の成立の研究』で、以下の対応関係を示している。
おひつじ(4月)⇒子(旧11月)
おうし(5月)⇒丑(旧12月)
ふたご(6月)⇒寅(旧1月)
かに(7月)⇒卯(旧2月)
しし(8月)⇒辰(旧3月)
おとめ(9月)⇒巳(旧4月)
てんびん(10月)⇒午(旧5月)
さそり(11月)⇒未(旧6月)
いて(12月)⇒申(旧7月)
やぎ(1月)⇒酉(旧8月)
みずがめ(2月)⇒戌(旧9月)
うお(3月)⇒亥(旧10月)
十二星座の後ろのカッコはおおよその期間、十二支の後ろのカッコは、私が独断で付した吉野裕子が『十二支』などで示している旧暦との対応である。やや成立年代の異なる、太陽と木星の進行であるから、見かけはずれているように感じてもさほど問題はない。バビロニアの占星術はおひつじ座を春分に、中国の古代暦は(三正などのくわしい経緯はまだ勉強中であるが)子を冬至として合わせている。
大西氏は十二支の字形と星座の形に関心を払っている。しかしながらわたしは、「おうし」と「丑」の対応関係と、双方の季節的立ち位置に興味を覚える。
おうし座はかつて春分点を有していた。だいたい2000年ごとに移動していき、おひつじ、うお、みずがめと変わりつつある。オリエント世界では、神のイメージはこの春分点の星座によって移りかわっている。黄金の雄牛を崇拝したエジプト人、ギリシア・ローマの牧歌やイスラエルの預言で救世主とされた「羊飼い」、そしてイエス・キリストの象徴とされた「魚」――死と再生とも結びつく。たとえばおひつじ座はバビロニアでは「若い農夫」とされていた。これは一度死して蘇る農夫神タンムズ、ドゥムジとも重なる。
いっぽう、十二支で丑に割り当てられたのは12月で、立春となる寅の月との境目は、いわゆる「土用」に充てられている。とくに冬から春の変わり目とされる「丑寅」は方位と結びつき、「鬼門」とされた。牛の角に虎の腰巻という「鬼」のスタイル、鬼門除けのための比叡山、天皇の葬送にたずさわり、鬼の子孫とされる八瀬童子など、生活と結びついた事例は枚挙にいとまがない。
木星はまたマルドゥク神やユピテル・ゼウスと結びついていたから、木星の運行で黄道を12等分するというアイデアは珍しいものではなかったのかもしれない。そしてその起点を、月の形から牛の角に見立てたとしてもおかしくはない。
また、春分点は占星術などで「竜の頭」とされ、インドでは「ラーフ」という天体で表された。春の訪れと夏の盛りを「竜」で表現する文脈はユーラシアである程度共有されていたとみられ、辰と対応するしし座には、バビロニア時代に竜蛇が付されていた(近藤二郎)。とすると、豊穣を司るおとめ座の女神も、竜女や蛇女の類だったのかもしれない。
余談であるが、高気圧による辰巳(東南)から吹く風は、作物の豊穣をもたらし、またたたらに利用されていた(製鉄に崇拝される稲荷、そして南宮大社などの金山神社はこうした風の神であったと考えられる)。対する低気圧特有の戌亥(西北)の風はアナシと呼ばれ、早くは伊吹山の猪であったり、奈良時代には竜田の神が風の神として、また平安時代以降は愛宕山付近から吹き付け、天神などの怨霊が雷雨をもたらすと恐れられた。大極殿の西北に北野天満宮が、火伏の神が愛宕にあるのはその名残と考えられる。
冬の盛りには、ヤギの角をもった悪魔や、ネズミを従えたオオクニヌシなど、死を司る神が鎮座していた(ヤギの上半身、魚の尾をもったシュメールのアヌの使いは、インドではワニなどで表される水天ヴァルナの使いであるマガラに相当する)。
さて、こうしてだいぶ寄り道しながら十二星座と十二支について論じたのは、ひとえに日本神話と星座の関係を探る準備稿である。サンスクリット語で書かれた星辰神話として古事記を読み解こうとした古代語研究家の二宮陸雄氏などのイレギュラーを除けば、オリオンの三ツ星を住吉三神、猿田彦をおうし座のアルデバランと推定する国文学者の勝俣隆氏、日本の星神話を収集した天文研究家の野尻抱影氏や原恵氏など、先行研究は割と豊富にあるという印象だ。黄道というより、太陰暦で重要となる星宿、北辰崇拝で重視された北極星(これも2千年ほどで推移する)に集中している。
そして物部氏の子孫として九州に伝わっていた星の口承を記録した真鍋大覚氏の著作『儺の国の星』である。氏の著作の膨大な情報を、以上の推定と照合していけば、どのような天文情報が古代中世から日本で通用し、どのように民俗文化となっていったかを探る手立てとなる。すでに逸失したといわれる藤原隆家(中関白道隆の子、伊周の弟、道長の甥)が大宰府で筆録させた『石位資正』は、倭名類聚抄の星宿の和名をもとにした著作であったといわれる。氏の該博な知識は、金星暦や土星暦などにも及び、またそうした天文観察が鍛冶や航海の場でじっさいに利用されてきた知識であると想像し、また信憑に足るものとなっている。
真鍋氏の例をみると、偽史や偽書とされる中世神話や、江戸・明治以降成立とみられる古史古伝が、ほんらいはこうした口承で伝わった天文知識であった可能性(プラスアルファでその当時の奇怪な科学が付加されてしまっているゆえに、偽史となる)が大いにある。検証を要する事項である。
地名に付された十二支の獣名と土地の形質がリンクしているのではないか?という説。結構自信があるけど表立っては言えない。
詩や 和歌も天文知識とは不可分である。