ネオ河童駒引考:文明から文化圏へ
ステマとかじゃない不要不急な読書レビュー。
さいきん若尾五雄の「物質民俗学」にハマってしまった。日本各地のさまざまな伝承を、金属加工や治水技術と結びつけて研究するスタイルで、真弓常忠の「日本古代の鉄と神々」や、佐藤任がインド密教と錬金術を結び付けて考えていたころの同時代の研究である。吉野裕子の陰陽五行説や、井本英一・伊藤義教のペルシア研究とも同時代である。
その民俗学を集成した「物質民俗学の視点」第二巻は、河童をテーマとした昭和30年代の研究をはじめに、和泉式部や行基、ヤマトタケルの白鳥伝説の裏に「隠された」地理や社会的条件について取り扱っている。何でも若尾民俗学は語呂合わせや強引な付会が多く曲者というもっぱらの意見らしいが、前回書き散らしたように「語呂合わせ」というのは火のない所には立たぬ立派な説明体系なのである。水兵リーベやリアカーなきK村といった覚え方と、元素表や炎色反応といった科学的知見が別個に正当とされるべきであるように。
河童にかかわる「駒引き」や「斬られた手」、「ひょうすべ(異称)」「金属忌避」などの要素を、若尾は農村共同体の地形や道具を利用した「治水設備」や、異形の者との契約(ちぎり)という観点、そして「兵主神」などへの信仰からひも解いていく。河童は、「カワラ(交渉が行われた場所としての河原)」や「カブロ(異能の象徴としての蓬髪姿)」、「カワリ(村人の労働のかわりを行う)」といった類音語から由来を求められることとなる。これは一見先行する柳田国男の「河童駒引」や、それに続く石田英一郎の「河童駒引考」などとは一線を画したもののように見える(若尾自身もその類のことを述べている)。とくに石田英一郎の古代神話や中世説話に出てくる水の神たちとの類型比較とは相いれないように思える。
しかしながら、若尾の研究はいわばハード面、石田らの論考はソフト面から見た河童の正体ともいえるのではないだろうか?シルクロードや海上交易路を行き来した人びと(ペルシアやインド、そして「猿」のモチーフから、チベットなど)の記憶が水神の伝説に、そして彼らが村落共同体に「恐れられながら」交易を通じて生活を共にしてきた過程が、のちに妖怪「カッパ」としてとどめられたのではないだろうか。
そこには現代の移民や、人工知能によるシンギュラリティなどという高尚な問題以前の、道具や新来の労働者との共存にたいする「警戒」が読み取られる。シャーマンや芸能者といった異能への「畏敬」、そして不具性や野蛮、貧困への「蔑視」などが入り混じっているからきわめて厄介だ。
近代の学者たちは技術を「文明」といった選民的、進歩的史観で読み解こうとし、ありもしない「万能人」的な考えから数々の自由を生み出したが、実際都市圏で人びとが分業し合わなければ生きていけない環境下では、さまざまな生きていくための機能を代行するサービスや、独占的な特権や慣行を引き換えに認められる。ほんらいならば農耕も狩猟も戦いも道具作りも自分でやらねばならないが、社会を作り、対話を行い、自らを敢えて専業とする。そこに特殊な力や聖なるスティグマなどを見出し、「物語る」ことによりそこに共同体の文化が成り立っていく。
道具や新来の技術をともなった労働者(マレビト)は、今まで行われてきた調和を乱すトリックスターとなりうる。彼らと契約を結び作業を行わせる過程は「詫び証文を書かせる」「手を斬る(テキリ、チギリ)」などといった著しい誇張を伴う。そして彼らの生み出したものは異形のモノ、彼ら自身の変身、身代わりとしての妖怪として記憶されていった。前に書いたようなお菊や鬼や聖徳太子、風土記のオオクニヌシ、弁慶と義経などの伝説とも同じことである。かれらの歴史的実在はともかくとして、かれらに扮し魂を鎮め、道具作りや労働に従事する人びとが存在したことは疑いのない事実なのである。
祭祀をともないながら「河原」や「宿場」という場で展開された集団的労働の伝統は、やがて独立した「芝居」「演劇」として認識されていく。ここには一種の産業革命として、機械により取って代わられてしまった労働、そしてはたらくことと密接に結びついてきたはずの祭祀の「娯楽」化といった問題が含まれている。機械が切り離したのは、働き手のみならずその「意識」、衣食住の「生活様式」もふくめてである。特別な晴れ着をまとい、弁当を食べ、芝居小屋で劇を見るというスタイルは、社会的な分業の賜物といえる。
今や自宅で電子機器で様々なコンテンツを閲覧することができ、テレワークで在宅勤務を行う人間もいるが、実はそれはもともと機械に切り離された営みをふたたび集約する「先祖返り」といえるかもしれない。しかしながら、それでも分業はかわらず存在する。外国人労働者頼みの第一次産業やコンビニエンスストア、そして外食配送サービスといった「まれびと」たちに関する民俗学は、アニメやマンガとなって空想化されてしまったカッパのそれ以上に求められている。
コロナ禍において彼らに向けられる憎しみ、そして「裏バイト」の隠れ蓑となっているという云々は、まさしく中世のユダヤ人や戦争や災害下で移民に向けられた陰謀説などと同じ「物語」の発生源となっている。こうした考察は自由や平等といったものの空虚さ、選民意識を抱きながら便利な生活を享受する人びとの無力さと愚かさについて考えさせられるものである。