マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

歴史地理、物質民俗、音・光・香り……史学の新視点

 これまでわたしは、「農耕社会の成立史」のように編集されてきた伝統的な史学から、鍛冶や鉱山師などの職人の歴史を抽出し、水銀朱や鉱石、岩石の加工と特有の信仰とのむすびつきを考えてきた。

 

 「農耕社会の成立史」であるところの、理性や精神の発達史観からすると、農耕にむすびつく食欲や性欲などの直接な欲望の充足から「ほど遠い」、いわば余分なこれらにまつわる説話伝承は、脈絡を追うことは困難であり、単なる迷信や虚構、想像力と解釈されている事例が少なくない。さらに産業革命による機械化・都市化も手伝い、多くの人の手がかかっていた職人仕事や鉱山労働、土木治水工事などの意義が変化し、農耕や日常の市民生活から分離した。

 劣悪な環境下の作業かつ金がかかるものであり、学者の世界とは対照的な、忌避すべき浪費、無知無教養、タブーのようになってしまったことも、これらが古代中世にどのような姿であったかを窺いづらくさせている。そしてその基盤となった信仰のかずかず、職人たちを守る守護聖人崇拝や寺社縁起、天文への信仰、およびこれらが変化した占術や呪術、秘密結社や講などの人文学研究とそうした社会史研究が隔絶されてしまっている。

 

 しかし本来は、農耕集落をつくるために不可欠な石器や鉄器、土器から、こよみの設定、灌漑設備や適切な都市計画にいたるまで、天体観察や地理の測量をもとにした精緻な計画性がもとめられたはずである。一部の愛好家しか星空を見上げず、コンクリートで固められた河川が腐臭を放ち、地図の上に定規を引いて土地を区画するようなちぐはぐな状況は、近代以降の風潮であると信じたい。

 このメソッドを伝授するために、祭りがあり、説話伝承があり、どんなひどいこじつけであっても子どものときから語り伝えられることでそれは一定の効力を有してきた。近代の学校教育はこれを否定し、現代では「子どもの純粋な想像力をはぐくむ」という建前で完全に大人の世界から隔離してしまっている。震災時に高台の神社に逃げて助かった、という教訓は現代のオカルトやスピリチュアルと隣り合わせであり、たとえば土木治水に陰陽師が動員された史実と結びつけて考えられることは少ない。

 

 フランスのアナール学派は、それまで埋もれていた中世史や地域史、音やにおいなどの感覚についての歴史をメインストリームにまで盛り上げた。しかしその民衆史の視点は、近現代のフランス――政教分離やエリート主義で、「未開の」旧植民地や南フランスを締め上げてきた、昨今の移民問題や宗教テロリズムで反省が促されてきたフランスを、中世の「フランク王国」に当てはめているだけにすぎないのではないか、と疑問に思うのだ。日本でもジャーナリスト的な興味本位の政治史を、古代中世に投影する視点が存在する。

 「精神」や「欲望」という内面の理由付けに固執しすぎると、かならず進歩史観や序列づけなど、現代人の賢しらな視点が邪魔をすることとなる。ことに信仰などの民俗の研究には、中世人の持っていた知識、技術への無知を棚に上げて、「素朴な感性」と一括りにしてしまう一種のノスタルジーがあることは、日本や東洋にまつわる研究でも気を付けなければならない。

 

 「風水」という古来の技術がある。住居、都市の選定から陵墓の造営まで、東アジアで広く信ぜられてきた一手法である。三方を山に囲まれたところに代々の陵墓を営み、東西の山河に挟まれたところを都市とするという考えは、道教などと並び、素朴な地母神の母胎回帰願望として考えられることが多い。

 それはそれで文献的な証拠もある。しかしこれらの経験知は、実際に人が住み、皇帝たちを神としてまつるうえで必要な条件というのも内包していたはずである。高温多湿下で死体を腐敗させずに風化させるには、風向きや地下水、洞窟などの冷涼な環境を作り出す必要がある。都市生活を営む上では、舟運や農業を支える大河、鉱石や石材、木材を採掘・加工できて、天然の要害となり、星とともに目印となる山が必須である。

 しかしながら、これらはメリットだけではなく、相応のデメリットも存在する。洪水や山崩れの災害ばかりでなく、川や水路のとどろき、山の木々のさざめきは、たとえば現代のホワイトノイズやピンクノイズのように、永続的に聴き続けたら健康被害や精神的な被害をもたらしたかもしれない(これらのノイズを「胎内」と結びつける考えは、いわば先祖返りともいえる)。貴族の邸宅や別荘が寺社と化したり、巡礼地や聖域が悪所に営まれたのは、こうした定住上の不利を、いかに利益に転換するかという実際的な知恵だったのだろう。地鎮祭や、中世神話などでよくみられる地主神からの土地の寄進という説話として語り継がれることによって、集落の住民のパニック、不安を鎮める役割も果たした。

 

 たとえ文献に明記されていないとはいえ、神話や説話の伝承学は、精神や心性に固執するばかりでなく、その風土が持つ特性を理解して、なぜ同内容の伝承が各地に伝播しているのかを検証する必要がある。また、マンガやアニメに引用され、陳腐化してしまったようなイメージ先行の歴史を転換するきっかけとしたい。