マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

一億総博知時代

 タイトルははっきり言って皮肉である。SNSとかあっても、使う人間が8割が凡庸、2割が怠け者なものだから、じつはスマートにもソーシャルにもなっていないのである。

 

 コロナ禍以来、「若者の消費」を抑えろ、抑えろという論説が目に付くようになった。送別会やコンパが「クラスター」となった経緯があるからで、大学はそのあおりで閉鎖が続いているのはわかっている。しかし、以前は「若者の消費」はむしろ馬鹿にされるくらい低調なものだったことを忘れてはならない。ああ、こうして嘘が嘘で塗り固められていく。「ジュリアナ東京」がバブルの象徴のように喧伝され、ユダヤ人が陰謀論で迫害される。新聞やテレビが言い出したらレッドネックでも他県ナンバーの車でも排斥しようとする。

 

 インターネットはそうしたウェットな空気が嫌いなへそ曲がりの作り上げた文化圏だと思っていたが、いつの間にかジメジメと湿気ってしまった。とうてい69年のスピリットは保存できない環境だし、もうチェックアウトもできない実名社会である。

 

 

 テレビを点けるとルーブル美術館の美術品管理について放送している。何でも「タンタンの冒険」に着想を得て、古代エジプトの棺を立てて置くことにしたそうだ。わーすごい。立てて置くダメージとかはもちろん考えているのだろうが、隠されている足の部分に価値がないとでも言わんばかりの「展示」である。天下のルーブルでさえこのような見てくれ重視なのだから、国内の美術館や博物館でもこうしたヴァンダリズムが横行しているのかもしれない。

 

 大津市立歴史博物館の仏像展示についているキャッチコピーは、目にすると脳みそが融けそうになるが、まああれはまだいい。まだ知的なペーソスが残っている。

 

 

 そういえば今日は鳥獣戯画の番組も放映されていた。マンガやアニメの元祖、いかに可愛く、自然で平和な描写に溢れているか……ディズニーランドで脳みそを蜂蜜漬けにされているような素敵な感想をどうもありがとう。たぶん描かれた当時猿やウサギやカエルが持っていた象徴の分析とかはテレビ受けしないのだろう。道教とか、庚申待とか……そして後白河法皇サブカルオタクの元祖なのである。フェリペ2世ブリューゲルのコレクションや、ルドルフ2世の「驚異の部屋」のような、バロック的な博物学が持っていた「統治」への欲望は、たとえばヴィクトリア朝の家具のごたごたした装飾や骨董品コレクションのような、なにか別の、ごく小市民的なささやかなものに変換されつつあるのだ。

 

 ヴァンダリズムというか、美術というのが無知が原動力の詐欺だと気づかされるのは、歩いていると目にする村上隆とかの絵画、なんでも鑑定団、それにバンクシーをめぐる報道である。岡倉天心フェノロサが苦心して築き上げ、和辻哲郎が狂信した日本の美的センスというペテンが、くたくたと蕩けていく。美術というのはさしずめ買ったときの金額からゼロが後ろに何個付くかであり、ユーモアのない美大生がカネとコネで作り上げるもので、誰かが「いいね」するものを「いいね」し返して拡散することなのである。もしバンクシーが金儲けとか歯の浮つく綺麗事だけ本気で考えているのでなく、この種のシンプルさを風刺しているのだとしたら尊敬する。

 

 

 美術に限らず、アタマを使うコンテンツはもはやご入り用ではない。多くの人びとにとってはアタマを使うというのは自分のかんがえる理屈で何かを追求したり、新しい解釈を産みだすとかではなく、お気に入りのモノをコレクションして見せびらかすことなのである。さあ、みんな#をつけて政権に抗議しよう。そうしたらお友達にアタマを使っていることをひけらかすことができるから。