マツノヤひと・もよう学研究所

独断と臆見による人文学研究と時評

生の終着としての道具と道具への執着としての生(フェティシズム)

 「史実」とはいったい何を指すのだろうか。考古学的な発掘がすなわち歴史的な実在を証明するのだろうか。科学的な年代測定で有史以前の世界を描くことが出来るのだろうか。多くの論考は「史実」かどうかに拘るが、その拘りの淵源を追究する研究者はあまりにも少ない。

 

 科学的な研究は一種の演劇である。これを一概に虚構であるといいきるのはナンセンスであって、物語ること、演ずること、扮することが「実在」たりえるのである。考古学的な発掘、民俗学な見地は、数多のコピー、ヴァリアントのなかのひとつの実在を指し示す。ただしそれが研究者が探し求めるような原初の「実在」であるかは、物語への没入という「信仰」、そして物語が受け手に約束する社会的な「信用」といった別問題との混同をひきおこす。

 

 語源や神話といった個々の物語と、言語の成り立ちを同列に扱うのもこうした混乱につながる。言語は人びとが交わるために混じりあうものであり、純粋かつ一意的な概念や相承関係を夢想するのは、実在の研究ではなくもはや実在的に物語ることにすぎない。

 たとえば、日本語の起源について論ずるとき、研究者は日本語を「かたる」。ある時代の、ある地域の日本語の生成についてかたることは可能だけれども、他の学問との連関は、(参考文献とかの引用を除けば)不明瞭だし、決して望まれてはいない。それでも、日本語についてかたるかぎり、同様の実在的な日本語研究者の審判にさらされるのである。

 そうなれば、日本語という通史的物語にまつわる深読み、荒唐無稽さ、不毛な詮索をふくむ議論のうちに、その論考が本来実現したかった学的探究が損なわれることとなる。「史実」のフィルターで濾し取られる(大概はこの過程が研究とみなされる)実在的な物語と、物語の実在の研究はかように似て非なるものなのである。

 

以上の物語観をもってすれば、出土品や遺跡、そして史料や美術として研究され、いまなお我われの傍らにあって欲望の顕現に一役買う「道具」が担ってきた社会的な意味合いを解することができよう。

 古くから、衣食住のさまざまな機能として植物や動物を利用するため、道具が用いられている。それらはわれとなんじの生死の境界を画定するがために、聖性を持ち続けているのだ。生の終着(determination)としての道具は、擬人化を経て執着の対象に供される。それらは模倣と消費が続くことで、そうした終着としての認識が和らぎ、不特定多数の欲望の代替品としての役割を獲得する。

 以上のメカニズムの代表たる存在が貨幣、そしてその基礎となる数や文字記号である。摩耗した役割から終着としての役割を見ればそれは奇怪な呪術にほかならない。しかしながら、視点を変えれば、貨幣や文字記号が単なる事物の「かわり」としか認識されていないのが却って問題なのである。それらは本来、物語られ、演じられ、扮する「身代わり」「変わり身」の道具として、生死のはざまに潜んでいたはずなのだ……